14 真宗大谷派・等光寺(西浅草1-6-1)
西光寺の隣の等光寺には、石川啄木の碑がある。
兄が等光寺の住職だった土岐善麿の善意の計らいで、啄木の母、啄木、長女と次女の葬儀は等光寺で営まれました。
碑歌は「浅草の夜のにぎはいに
まぎれ入り
まぎれ出て来し 淋しき心」
(『一握の砂』 第一章「我を愛する歌」より)
妻子を置いて、函館から単身上京した啄木は膨大な借金を抱えていた。
朝日新聞の校正係として月給25円の安定収入を得ても、すぐ家族を呼び寄せることはありませんでした。
母と妻との不和がうっとうしい。
作品がなかなか世に認められないいらだちもあった。
前借した金を持って出かけたのは、浅草の人ごみでした。
「人のいないところへ行きたいという希望が、このごろ、時々予の心をそそのかす。人に見られる気遣いのない所に、自分の身体を自分の思うままに休めてみたい。予はこの考えを忘れんがために、時々人の沢山いる所へ行く。しかし、そこにも満足は得られない。」
満足を求めて啄木が向かった先は、浅草12階下の私娼窟でした。
「時としては、すぐ鼻の先に強い髪の香を嗅ぐ時もあり、暖かい手を握っている時もある。しかしその時は予の心が財布の中の勘定をしている時だ。否、いかにして誰から金を借りようかと考えている時だ! 暖かい手を握り、強い髪の香を嗅ぐと、ただ手を握るばかりでなく、柔らかな、暖かな、真っ白な身体を抱きたくなる。それを遂げずに帰って来る時の寂しい心持ち! ただに性欲の満足を得られなかったばかりの寂しさではない。自分の欲するものはすべて得ることができぬという深い、恐ろしい失望だ。」(明治42年4月10日のローマ字日記)
「浅草の夜のにぎはいに
まぎれ入り
まぎれ出て来し 淋しき心」
貧窮のまま、函館から家族を呼び寄せます。
だが、生後間もない長男の死という悲運に見舞われる。
やがて、啄木をはじめ、妻、母が相次いで結核を罹病。
母の葬儀を等光寺で営んだ1か月後、啄木本人もこの世を去ります。
明治45年4月13日、27歳の若さでした。
彼の葬儀も、ここ、等光寺で行わました。
岩手県渋民村の生家は寺でしたが、売り払ってしまっていたため、故郷での葬儀は挙げられなかったのです。
この碑は、啄木生誕70周年に友人金田一京助らの手によって建設された、と碑の傍らの解説板にはある。(続く)