石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

133 シリーズ東京の寺町(9)ー台東区西浅草(5)

2018-02-21 09:22:41 | 寺町

14 真宗大谷派・等光寺(西浅草1-6-1)

西光寺の隣の等光寺には、石川啄木の碑がある。

兄が等光寺の住職だった土岐善麿の善意の計らいで、啄木の母、啄木、長女と次女の葬儀は等光寺で営まれました

碑歌は「浅草の夜のにぎはいに
    まぎれ入り
    まぎれ出て来し 淋しき心」 

(『一握の砂』 第一章「我を愛する歌」より) 

妻子を置いて、函館から単身上京した啄木は膨大な借金を抱えていた。

朝日新聞の校正係として月給25円の安定収入を得ても、すぐ家族を呼び寄せることはありませんでした。

母と妻との不和がうっとうしい。

作品がなかなか世に認められないいらだちもあった。

前借した金を持って出かけたのは、浅草の人ごみでした。

人のいないところへ行きたいという希望が、このごろ、時々予の心をそそのかす。人に見られる気遣いのない所に、自分の身体を自分の思うままに休めてみたい。予はこの考えを忘れんがために、時々人の沢山いる所へ行く。しかし、そこにも満足は得られない。」

満足を求めて啄木が向かった先は、浅草12階下の私娼窟でした。

時としては、すぐ鼻の先に強い髪の香を嗅ぐ時もあり、暖かい手を握っている時もある。しかしその時は予の心が財布の中の勘定をしている時だ。否、いかにして誰から金を借りようかと考えている時だ! 暖かい手を握り、強い髪の香を嗅ぐと、ただ手を握るばかりでなく、柔らかな、暖かな、真っ白な身体を抱きたくなる。それを遂げずに帰って来る時の寂しい心持ち! ただに性欲の満足を得られなかったばかりの寂しさではない。自分の欲するものはすべて得ることができぬという深い、恐ろしい失望だ。」(明治42年4月10日のローマ字日記)

「浅草の夜のにぎはいに
   まぎれ入り
    まぎれ出て来し 淋しき心」

貧窮のまま、函館から家族を呼び寄せます。

だが、生後間もない長男の死という悲運に見舞われる。

やがて、啄木をはじめ、妻、母が相次いで結核を罹病。

母の葬儀を等光寺で営んだ1か月後、啄木本人もこの世を去ります。

明治45年4月13日、27歳の若さでした。

彼の葬儀も、ここ、等光寺で行わました。

岩手県渋民村の生家は寺でしたが、売り払ってしまっていたため、故郷での葬儀は挙げられなかったのです。

この碑は、啄木生誕70周年に友人金田一京助らの手によって建設された、と碑の傍らの解説板にはある。(続く)

 


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1 コメント

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貧窮 (fkaji)
2018-02-22 09:46:24
昔の文士には、貧窮という文字が似合うような暮らしをしていた人たちも多いですね。一葉も太宰もそうですが、借金繰り返す生活であの作品群を生み出した彼らの生きざまを見ていると、生活保護を受けながらパチンコを楽しめる現代は正常なのか異常なのかどう考えたらいいのでしょうか?
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