◆ダンブッラ・第3窟「マハー(偉大な)・アルト(新しい)・ヴィハーラ(寺)」
第3窟を入ってすぐ左に立つのは、キッティ・シリ・ラージャシーハ王。
18世紀、ラージャシーハ王は、倉庫だった第3窟を礼拝堂に作り替えると同時にダンブッラ洞窟寺院全体を修復し、壁画を描き足した。
熱烈な仏教徒であるはずなのに、王冠や黒い髭、衣装がどことなく異国風であるのは、当時、セイロンを支配していたオランダの影響があると云われている。
背後の壁画の上半身裸の髭男もラージャシーハ王。
供花を持って仏塔に向かう所。
その上の花模様は、インドネシアのジャワ更紗に似ている。
18世紀、ンドネシアもオランダの植民地で、オランダ経由で文化交流があったものと見えます。
窟内は、幅27m、奥行き24mと第2窟の半分くらいの広さ。
しかし、仏像は、57体と意外にも第2窟よりも多い。
ほとんどが黄色の衣の仏陀像の立像と座像。
みな同じような像容で、一体ずつ写真を撮る意欲が失せます。
入口正面に本尊。
石像を彩色してある。
頭上には、第2窟の本尊と同じくヒンズー教の影響が見られます。
左にお釈迦さまの涅槃像。
涅槃像は、長さ9m。
このお顔が、ダンブッラ寺院全体で最も美しく、やさしく、慈愛に満ちているとの評価があるのだそうだ。
枕の布地は、花模様からジャワ更紗とみられている。
ダンブッラ洞窟寺院を語るのに天井の壁画抜きでは語れないだろう。
余すところなく天井一杯に描かれた絵画の、圧倒的な迫力に言葉を失うほどです。
どの絵も何らかの物語の一部であるはずですが、では壁画を並べてストーリーを展開できるかと言うと、これが難しい。
釈迦の生涯にしろ、スリランカ国史にしろ、各ストーリーの基礎的知識がないから、写真の撮りようがないのです。
ダンブッラの壁画の描き手についての記述があるので、引用、転載しておきます。
「さて、これらの壁画は、誰によって描かれたのであろうか。それは僧侶ではない。仏画を専門に描く絵師がいて、彼らは王家の支援を受けながら、生命をかけて洞内を極彩色に埋め尽くした。描いた絵師のサインはどこにも見つからない。壁画は、無名にして仏に捧げられた。それは絵師の『よきことをなす』というこの世の喜びからきている。絵師たちの仏法僧に帰依したひたむきな情念が壁画にぶつけられているようだ。絵師は、仏と見る信徒とを結び付けようとした。その熱烈な情念は、あの大柄で、また同じ仏や仏弟子のくりかえされる図柄の構図法に読み取れる。強烈な配色もまた見る者の心をとらえたのであった」(早島鏡正『世界の聖域9-セイロンの仏都』講談社昭和54年)
◇ダンブッラ第4窟「パッツイーマ(西の)・ヴィハーラ(寺)」
横16m、奥行き8m、ぐっと狭くなった感じがする。
天井が急傾斜で奥に下がっているためかも知れない。
正面に本尊とブッダ坐像の列。
右を向くとストゥーパがあり、その後ろに黄色の仏陀座像が見える。
黄色のペンキが新しいのは、バカな観光客がこの仏陀の組んだ両手に座り記念写真を撮ったため、法力が薄れて塗りなおしたからだそうだ。(『地球の歩き方D30スリランカ』より)
実は、この写真はルール違反をしている。
正直に言えば、ほとんどの写真はルール違反なのです。
ガイド氏のアドバイスの一つは「仏陀像に背を向けないこと」だった。
しかし、狭い窟内の壁面すべてに仏陀像はおわすのだから、写真を撮ろうとすれば、どうしても背後の仏像に背を向けることになる。
ルール違反ばかりしていたから、ガイド氏はひやひやしていたのではないか。
仏陀の手に座って記念写真を撮ろうとしたアホな奴を笑えない存在だったことになる。
ごめんなさい。
◇ダンブッラ第5窟「デワーナ(2番目の)アルト(新しい)ヴィハーラ(寺)」
1915年造営の最も新しい窟寺。
狭い洞窟内にドーンと寝釈迦が横になっておわす。
足指が揃っているから涅槃佛ではなく、横臥する釈迦。
コブラ仏陀が2体ある。
日本人の私には怖いが、スリランカ人はどうなのだろうか。
親しみがあるのかもしれない。
他の窟の像はみな花崗岩を彫ったものだが、この窟の像は、レンガと漆喰が原材料。
壁画は、花を持って並ぶ阿羅漢。
天井の一部が剥がれて、岩が露出している。
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