『野仏』という冊子がある。
「多摩石仏の会」が年1回刊行する機関誌です。
なかなかハイレベルな内容で、私などは、半分も理解できない記事もある。
その『野仏』第33集に「群馬県前橋市元総社町の千庚申」が載っている。
元総社町にある御霊(ごれい)神社の千庚申、実際には254基の文字庚申塔全部の碑文を紹介する記事。
肝心な碑文は、拓本を添付する念の入れようで、その労力、いかばかりかと感服するばかり。
労力ばかりではなく、筆者の知力もすごい。
碑文を揮毫した書家から書体まで、その考察は及んでいる。
254基の大半は、「庚申」、「庚申塔」、「猿田彦」、「青面金剛」などの単文字塔だが、9基だけは多文字塔、いわゆる一石百庚申塔なのです。(正確には、百一文字塔が6基、五十一文字塔が3基の、計9基)
一石百庚申塔を見るのは初めてではないが、9基も一か所にあるのは、見たことがない。
254基もの庚申塔が群立する光景と合わせて、一石百庚申塔群を見てみたい、と『野仏』を持って、2月上旬、前橋に向かった。
電車の中で御霊神社を検索、写真で拝殿の雰囲気をつかむ。
『野仏』の記事にも「塔の造立場所は光線に乏しく」とあるから、かなり鬱蒼とした森の中にあることが予想される。
駅前でレンタカーを借りる。
赤城おろしが冷たい。
「著名な総社神社裏手の交差点より、北方に二つの森が見え、左が御霊神社」とあるが、現地に近づいても森は見えない。
やがて、「目的地に到着しました」とナビ。
車を降りる。
農地ではない空地が広がっている。
トラクターやトラックの轍が縦横に走り、伐ったばかりの大木の切り株があちこちに見える。
通りがかりの人に訊いたら、確かにここが御霊神社で、市の区画整理事業で、境内の森は全部伐採されたとのこと。
そういえば、小さな祠が小高い場所にある。
「御霊神社」の扁額が見える。
鬱蒼とした森の中の神社をイメージしていたので、これが探していた「御霊神社」だとは、気付かなかったのも無理はない。
傍らに「御霊神社と長尾氏由緒」の看板がある。
長文の末尾に、千庚申の由来が書いてある。
「境内の千庚申は殿小路町阿弥陀寺町の世話人によって万延元年庚申年に祭礼ができる様万延元年以前三年から石屋に依頼して元総社村中、大友村、石倉村全戸から一体ずつの庚申塔の寄付を仰ぎ・・・」。
千庚申の由来は分かった、が、肝心の庚申塔群はどうしたのだろうか。
それらしきものは、1基もない。
歩き回って探してみる。
境内右横の住宅の向こう側の空き地に、あった。
あったが、それは無残な状態だった。
遠くからの見た目では、石ばかりの廃棄物置き場に見える。
保存されている感じがしない。
区画整理が終わって、千庚申を復元するのなら、一基ずつ番号を打ってあるはずだが、そうした形跡はない。
復元と言っても以前の配置に戻すのではないのだろうか。
御霊神社の創設家は長尾家、と持参資料にはある。
神社の隣の家の表札は「長尾」なので、声をかけてみた。
応対してくれた女性は、「市役所で訊いて」という。
帰宅して、前橋市役所に電話で聞いてみた。
「御霊神社の千庚申」と言ったら、交換手は、文化財保護係につないだ。
だが、担当者は御霊神社の千庚申については全く知らないと云う。
「市の指定文化財ならばともかく、それ以外の文化財となると手が回らなくて・・・」。
一石百庚申塔が9基もある祀所は、日本中で御霊神社しかない。
日本で唯一という条件でも指定されないと云うのは、何故なのか。
個人所有の文化財については、役所は関知しないという建前は分かるが、市内の文化財の成り行きに無関心というのは、文化財「保護」の観点からすると理解に苦しむ。
千庚申は復元されるのか、されないのか、されるとしたらその時期は?
今度は、区画整理の係へ電話をする。
前橋市役所
「市内で一番低い土地なので、嵩上げしなければならない。それがいつになるのか、数年先のことで、いつは云えない。千庚申については、担当してないので、分からない」との返答。
千庚申が廃棄物として処理されることはなさそうだが、以前と同じように復元されることもなさそうだ。
これで今回のブログの趣旨は、書き終えた。
これで終わりにしてもいいのだが、目的の一石百庚申について、見える範囲で確認したことを、若干、付け足しておく。
刻文とその意味合いは、「元総社町の千庚申」の受け売りであることは、言うまでもない。
まずは、配置図から。
「千庚申の祀地は、長尾家の屋敷西隣地に位置する御霊神社の参道と約180坪の樹木に覆われた広い場所を占めている。しかも百数十年前の造立当時の遺構を変えずに保存されている貴重な存在である」。(『野仏第33集』の「元総社町の千庚申」より。以下、青文字は、同じ)
配置図が小さくて分かりにくいが、右下が入口、参道突当りが御霊神社、一石百庚申塔群は、その左の朱線で囲った場所にある。
全体を囲うように単文字庚申塔が立ち並び、その奥まった一角を多文字塔が占めるという構図。
6基の一石百庚申塔は、朱線の中にあると書いたが、よく見ると7基ある。
これは、全体の要石の①が、「庚申」の単文字塔であるからです。
保存場所では、注連縄が掛けられて、その優位性を誇示しているが、前の石塔に邪魔されて全体像を見ることはできない。
「庚申」の文字の左脇に「遺幻法橋智則書」の銘がある。
法橋智則は、前橋市・長見寺十一代侍従。文化元年生まれだから、万延元年は56歳。京都で修行をつみ、顕密をきわめ、法橋守権少都となり、聖護院法親王の薬草を務めた構想だった。
この千庚申のうち無銘の塔のほとんどは、智則の筆によるものと思われる。
今は切り離されてしまって特定できないが、台石は、この地より西北約1㎞の上野国分寺跡の基礎石を運んできたものと云う。
以下、多文字塔を、見つけられた範囲で紹介してゆくが、それは次回から。
≪続く≫
行政の無知・無責任・公共事業で金が動けば全てよしとする傲慢さに
空恐ろしい思いです。
前橋市役所のクソ仕事ぶりを改めて発見してしまいました。
幾千年先輩方が大切に守ってきた文化財をカンタンに破壊する前橋市役所は無くなってしまった方が住民の福利に適います。