修理に出していたパソコンが3週間ぶりに「退院」してきた。
心配していた通り、ピクチュアの画像は消失していた。
写真がなければ、「守屋貞治の石仏かけ巡り見仏記(後編)」は諦めざるをえない。
「三好朋十『武蔵野の地蔵尊』たちの今」に切り替えることに。
今回は、新宿区編。
◇猫地蔵/自性院(新宿区西落合1)
猫寺としては、世田谷区の豪徳寺が有名だが、ここ自性院も負けていない。
北口を入ってすぐの石柱の上に大きな石の猫。
秘仏の猫地蔵は、一年に一度、2月3日に御開帳される。
猫地蔵 猫面地蔵
(2枚の写真はブログ「天空仙人の神社仏閣めぐり」より無断借用)
ややこしいことに、猫地蔵のほかに猫面地蔵もある。
私には、どっちがどうだか区別がつかない。
境内の「猫地蔵詠歌」の2番と3番が猫地蔵と猫面地蔵の由来のようだ。
2 文明9年に政争あり 猫に導かれて福を得る
道灌公の報恩行 み像祀りしはじめとす
3 後に明和の4年には 貞女の鑑称えんと
猫面地蔵刻みたり 家は栄ゆる子は育つ
だが、漠として、意をくみがたい。
区教委の説明をつけておく。
猫地蔵
猫地蔵の縁起は、文明9年(1477)に豊島左衛門尉と太田道灌が江古田ヶ原で合戦した折に、 道に迷った道灌の前に一匹の黒猫が現れ、自性院に導き危難を救ったため、 猫の死後に地蔵像を造り奉納したのが起こりという話が伝えられている。
猫面地蔵
江戸時代の明和4年(1767)に貞女として名高かった金坂八郎治の妻(覧操院孝室守心大姉)のために、 牛込神楽坂の屋弥平が猫面の地蔵像を石に刻んで奉納しており、猫面地蔵と呼ばれている。
◇淀橋七地蔵/常円寺(新宿区西新宿7)
寺は青梅街道に面していて、道を挟んで南側は新宿高層ビル街。
19世紀と21世紀が混在する稀有な場所です。
常円寺は日蓮宗寺院。
「日蓮宗に所属する寺にして地蔵尊を安置してある数は希少で、東京都では2,3か所あるにすぎない」P126 (*ブルー文字は、『武蔵野の地蔵尊』の記述)
日蓮宗寺院には珍しいお地蔵さんが、常円寺には7基もある。
「昭和4年の夏の頃であった。新宿駅の手荷物係に預けられたトランクが異臭を放ち、開けてみたら子供の絞殺死体が7体詰め込んであった。預け主は偽名を使ったが、警察の調べで判明。不義の子供を養育してやるといって養育費をもらい、嬰児は絞殺するという極悪非道の夫婦だった。
この七地蔵は、子供たちの供養にと、淀橋界隈の住民たちが浄財を喜捨して建てたもの。戒名の代わりに〇の中に▽を彫ってある」。
当時の新聞を探すも見当たらない。
代わりに昭和5年4月の『東京朝日新聞』に板橋もらい子殺人事件の記事を発見。
「身の毛よだつ」「殺人鬼村」「成金気分で浮かれる」「一年に三人を生んでいる女房」「保釈中にもらい子無残の死」などの見出しが、連日、紙面をにぎわせている。
この板橋もらい子殺人事件が起きたのは、地下鉄「板橋本町駅」近くの岩の坂。
私の家からも500mとは離れていない。
今はこれッポッチも面影はないが、東京でも有数なスラム街だった。
そのスラム街の状況がいかなるものだったかは、このブログの「板橋宿を歩くー10」を読んでほしい。
もらい子殺しも書いてあります。
◇名和地蔵/専福寺(新宿区東大久保2)
西新宿の常円寺は日蓮宗で、日蓮宗寺院には地蔵尊は少ないと書いた。
実は、真宗寺院にも同じことが言える。
新宿区内には、19の真宗寺院があるが、地蔵尊を安置してあるのは、泉福寺と専行寺の2か寺。だいたい真宗系は、弥陀一向の宗旨であって、地蔵尊を安置してある例が非常に少ないが、悲惨な最期を遂げた人、あるいは変死したような不幸の人の供養を目的として境内に石地蔵を造立した例はいくつかある。専福寺もそのひとつである。境内に名和地蔵と云う名の同型の石地蔵が4基ならんでいる。P128
4基あるはずの石地蔵を探すが、見当たらない。
観音石仏はある。
墓地も一通り巡って見たが、お地蔵さんはないようだ。
庫裏で訊いてみた。
若い女性が出てきて、「住職が留守なので、詳しいことは分からないが、名和地蔵というお地蔵さんは聞いたことがない」という。
お礼を言って帰ろうとしたら、「そういえば、墓地の一番奥に石仏が固まっているけれど、もしかしたら、あの中にお地蔵さんがあるかも」と教えてくれた。
再び墓地へ。
墓地のどん詰まりに身を寄せて石仏群がある。
その最後列の丸彫りの地蔵4体は、顔かたちが同じ。
名和地蔵に違いない。
名和とは、人の姓。
4体あるのは、母と3人の子どもです。
「明治43年12月21日、盗人が名和家に忍び入った。折柄主人は不在。盗人は物色中、妻浦子さん(28歳)にみつかった。盗人は強盗に早変わり、刃物を使って浦子さんと幼い3人の子供を惨殺し、一物も取らずに逃走した」。
母子4人の冥福を祈って近隣の人たちが浄財を喜捨して造立したのが、この名和地蔵。
近隣の人たちの浄財で造立、というところは、常円寺の淀橋七地蔵と同じだが、淀橋七地蔵は今でも線香と生花が供えられ、丁寧に維持されているのに対し、名和地蔵は見捨てられたように放置されている。
母親と思われる地蔵の頭は修理されているから、見捨てられたわけではなさそうだが・・。
お地蔵さんにも、運、不運があるようだ。
◇旭地蔵/成覚寺(新宿2)
成覚寺は、通称「投げ込み寺」。
投げ込まれたのは、遊女の死体だった。
内藤新宿の公認飯盛り女は150人。
宿屋は50軒だったから、1軒当たり3人の遊女を抱えていたことになる。
もちろん、非公認のやみの女もいた。
遊女の扱いは、犬猫同然。
死ねば、着物は剥され、髪飾りは取り外され、さらしもめんにお腰一枚で成覚寺に投げ込まれた。
拾文女郎は、米俵にくるんで投げ込まれた。
投げ込まれた遊女の遺体は、約2200体といわれている。
石段を下りて墓域に入る。
左中央に子供合埋碑。
子供とは、遊女のこと、つまり、遊女供養塔です。
石段のすぐ左下にあるのが、旭地蔵。
旭とは、町名のこと。
地蔵尊は、旭町、新宿高校近くの玉川上水淵に建っていた。
なぜ、玉川上水淵に建っていたかというと、これは玉川上水に身投げした心中者たちの供養塔だからです。
「台石には、寛政、享和、文化などの年に心中した男女の法名が彫り付けてある。願主は惣新宿所在の楼名、客と遊女との心中を、楼主が憐れに思って比翼の共同塚をたててやったのである」P127
◇どぶ地蔵・着せ替え地蔵/宗円寺(新宿区市ヶ谷柳町)
寺は柳町 にある。
昭和のはじめまで寺の前に川が流れ、土手に柳の並木があったから柳町となった。
今は歩道となった暗渠の上を歩く人たちは、足元に水が流れていることを知らない。
どぶ地蔵の名称もこの川に由来する。
川といっても溝のようなもので、当然、どぶ川だった。
このどぶ川に落ちて溺死した人の菩提供養のために造立されたのが、どぶ地蔵。
どぶ川を見たことも臭いをかいだこともない今の若者たちは、どぶ地蔵といわれても何のことやらチンプンカンプンだろう。
寺の前を川が流れ、柳の並木がある写真を区立図書館で探したが、見つけられなかった。
とぶ地蔵は、着せ替え地蔵と並んでおわす。
西面して丸彫り、左手に童子を抱く座高80㎝ばかりで、台石は六面、西面に子育て地蔵の5字を彫る。
着せ替え地蔵は産婦の家に招かれて安産の日まで滞在し、安産すれば新しく着物を仕立てて着せてもらって寺に戻る。大小二つあって、大きい方はいつも留守居する。
◇高山卍字地蔵/宗参寺(新宿区弁天町)
曹洞宗雲居山宗参寺は、境内に名主牛込太郎の墓があるのでその名を知られている。牛込氏は、喜多見、渋谷、葛西氏などとともに江戸の初期における有力者の一人として名高い。
牛込氏の墓の北に隣って南面して高さ1.2mの舟形の光背面に、日月と卍とを彫り、その下に高山院云々と文字を彫り、円頂、立姿の地蔵を浮き彫りにした一塔がある。「干時寛文八申年李右衛門高山院月照宗徹居士信俊逆修云々」と彫る。申の年の開眼であるから日と月とを文字の上に張り付けたのであろう.山鹿素行一家に縁のある石仏である。 P130
◇豆腐地蔵/東福院(新宿区若葉町2)
前回の文京区編でも、喜運寺の豆腐地蔵を取り上げた。
由来は似通っていて、豆腐を買いに来た小坊主を切りつけたら地蔵だった。後悔して善人になった、というような筋書きです。
3体の地蔵の中央、丸彫り、立像が東福院の豆腐地蔵。
東福院の近くの豆腐屋は金貸しもやっていた。
毎晩豆腐を買いにくる坊さんがいた。
豆腐屋の亭主を金の亡者から真人間にするためだった。
坊さんが帰った後、金入れにはいつもシキビの葉があった。
亭主は懲らしめの為、坊さんが木の葉を入れるのを確かめて、坊さんの腕を切り付けた。
血潮はほとばしり、亭主はおそろしくなってその夜は眠られず、翌朝早起きして滴った血潮の跡についていくと、東福院の地蔵堂の前で消えている。堂の中には地蔵の手首が落ちている。びっくり仰天、亭主は腰を抜かしてしまった。悪行を後悔した亭主は生まれ変わって真人間になることを地蔵尊に誓い、地蔵祭を行った。この話は江戸中の評判となり、地蔵尊参詣の人が多くなって豆腐屋は大繁盛した。P132
◇成子子育て地蔵/路傍(新宿区西新宿6-9成子天神下)
淀橋七地蔵の常円寺を出て、青梅街道を西へ。
成子坂を下り、成子天神 を過ぎると「成子天神下」の信号がある。
信号を渡る。
左前方、高層ビルの真下にお堂がある。
その一角だけ沈み込んだような異空間。
お堂の存在を知ってか、知らずか、皆一瞥もしないで通り過ぎる。
街道筋であるとはいえ、その昔、この辺は追剥が出没する淋しい場所だった。
盆の藪入りで久しぶりに一人息子が家に帰ってくる農家の親父。
息子を歓待してやりたいが、先立つものがない。
ふと悪心を起こして、夕まぐれにまぎれ、旅人を襲い、財布を奪った。
背後から襲われた旅人は即死だった。
家に帰り、財布を取り出した親父は驚いて、財布を落としそうになる。
奉公に出るとき、息子に持たせてやった財布だったから。
父の驚きは言語に絶し、いくら悔やんでも死んだ子は帰り来ない。直ちに一体の地蔵を造って、父は堂守となって一生を終わったという。
昭和50年代まで地蔵講が存在し、バスで長野善光寺に一泊旅行するなど、その活動は活発だったという。
地蔵堂の前の2体の石仏は、空襲で焼けた地蔵堂再建のために地面を掘ったら出てきたのだそうだ。
それは昭和26年(1951)のことだったが、半世紀後の平成14年(2002年)、お堂は耐火構造で新築された。
日本の中でも西新宿ほど激変した町はない。
「昭和」は、すでに、この町のどこにもなくなっている。
しかし、「江戸」は、こうして保存されている。
奇跡というべきではないか、これは。
◇咳止め地蔵(カンカン地蔵)/路傍(新宿北新宿2-1)
咳止め地蔵へ行った時、別名カンカン地蔵だということを知らなかったので、ポンチョ風の黄色の布をめくってみることはしなかった。
めくってみれば、お地蔵さんの体はあちこち欠けていたはずです。
カンカン地蔵のカンカンは、小石で石仏を叩く音のこと。
浅草寺にあるカンカン地蔵は、みんなが叩くので、原型をとどめていない。
浅草寺のカンカン地蔵
「いや、そうではない。カンカンは、咳をするコンコンが変化したものだ」という説もあるようだ。
なにしろ造立されたのが、宝永5年(1708)のこと。
前年の富士山大爆発による大量の降灰でのどを痛める人が続出し、咳止めを御利益とする地蔵の造立は村の総意によるものだった、というのです。
成子坂下の子育て地蔵尊でも書いたが、西新宿は淀橋浄水場跡地が新宿副都心として再開発され、過去を遮断した高層ビル街となった。
しかし、咳止め地蔵尊がおわす北新宿2丁目と西新宿8丁目は、21世紀になっても「昭和」の匂いが漂う一画でした。
銭湯があり、牛乳屋があり、駄菓子屋があった。
当然のことながら、この地域にも開発の波は押し寄せてくる。
平成6年(1994)に始まった再開発計画は昭和的なるものを一新する。
地蔵堂の移転も平成18年(2006)に行われた。
東京にかぎらず、全国的に都市再開発によって消滅していった石仏は数知れない。
淀橋咳止め地蔵がなくならないで、昔より立派なお堂に安置されていることは、現代の不思議というほかはないだろう。
素通りする人が圧倒的に多いが、なかには立ち止まって手を合わせる人もいる。
若者の姿もある。
「なぜ?」と訊かれて、若者本人もその理由を答えられないだろうが、それは彼や彼女が「日本人」だから、としかいいようがない。
未来的な超高層ビル街でも、ここは正に「日本」なのだから。
◇地蔵坂由来の地蔵/光照寺(新宿区袋町)
新宿区には、由緒ある町名が多い。
「袋町」とはどんな由来があるのだろうか。
知りたくなるだけでもいい。
それに比べ、戦後つけられた、栄町、幸町、平和台、青葉台などという町名のいかにくだらない事か。
JR飯田橋駅西口を出て、神楽坂を上る。
毘沙門天を過ぎて最初の小路を左に入る。
坂だ。
坂の名前は、地蔵坂。
新宿区役所が立てた坂名標識には「坂の上の光照寺にある三井寺から移された子安地蔵にちなんでつけられた」とあるが、もっとこみいった言い伝えがある。
光照寺の子安観音は、お産と子供の病気に効験があると人気になり、寺は参詣者で賑わった。
境内にあるこの地蔵が、タヌキが化けた子安地蔵なのかは不明。
多分、違うのではないか。
困ったのは寺の境内に住むタヌキたち。
めったに穴から出ることができない。
考えたのが、地蔵に化けて坂を上ってくる参詣人を脅かそうというもの。
この地蔵、突然笑い出したりするので、気味悪がって、夜は人通りが絶えた。
タヌキが地蔵に化けて出た坂だから、地蔵坂というわけ。
地蔵坂には、こんなおまけ話もある。
この話を聞いたお侍が、日暮れに坂を通りかかったら、錫杖をガシャンガシャンといわせながらお地蔵さんが下りてくる。
これこそ例の化け地蔵と侍は刀を抜いて切りつけた。
すると地蔵、はっしと錫杖で受け止め「これ、何をなさる」と戒めた。
よく見ると切り付けた相手はタヌキではなく、昵懇の仲間の武士だった、というもの。
懇意な友人にタヌキが化けたのか、本人だったのか、分からないところがミソ。
この項だけは『武蔵野の地蔵尊』からの引用ではない。
宝暦年間(1751-1764)に出版された『鶏鳴旧蹟志』に載っている話です。
≪参考図書≫
○三吉朋十『武蔵野の地蔵尊』有峰書店 昭和47年
○安本直弘『四谷散歩』みくに書房 1989年
○芳賀善次郎『新宿の散歩道』三交社 昭和48年
○長澤利明『江戸東京の庶民信仰』三祢井書店 平成8年
○長澤利明『東京の民間信仰』三祢井書店 平成元年
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