○大宗寺(浄土宗)
東京都新宿区新宿2-9-2
古色蒼然とした覆屋に塩で埋もれた地蔵坐像が記憶にあった。
写真フアイルをチェックしたら一昨年3月の写真が出てきた。
確かに白いドレスを着ているかのように全身真っ白だ。
だが、今は違う。
塩はかかってはいるが、「埋もれた」状態ではない。
なにもかも全体を新しくしたばかりらしい。
オデキを治すのには、ここの塩を患部に塗る。
治ったら倍返しのお礼参りをするのは他所の塩地蔵と同じである。
夏目漱石が幼年の頃、「大宗寺」の前に住んでいたことはよく知られている。
寺の山門を入って右にある銅製地蔵坐像は江戸六地蔵のひとつだが、このお地蔵さんによじ登って遊んだことが『道草』に書いてある。
「塩かけ地蔵」も遊び場の一つだったのだろうか。
○東福寺(天台宗)
東京都渋谷区渋谷3-5
「大宗寺」は新宿の夜の繁華街のど真ん中にあるが、「東福寺」も渋谷の喧騒のすぐ傍にある。
周囲の環境を考えれば、境内は信じられない程の静寂に包まれている。
その静寂は、渋谷区最古の寺にふさわしい。
山門を入ると 舟形光背の地蔵が一基。
足元に3猿。
地蔵菩薩を主尊とする庚申塔だが、問題はその刻文。
「奉造立地蔵菩薩現当二世能化文明二年壬辰願主石塚云々」。
文明2年(1470)は足利時代、540年も前のことになる。
江戸か明治、後で誰かが「文明」と彫り変えた、という見方がもっぱららしい。
横道にそれた。
肝心の塩地蔵は「文明」庚申塔の傍らにおわす。
格子戸越しなのではっきりしないが、古くてとけた地蔵は、新しい地蔵の背後にいらっしゃるようだ。
○魚藍寺(浄土宗)
東京都港区三田4-8-34
インパクトのある赤門をくぐる。
本堂右手に塩地蔵はおわす。
この塩地蔵について寺縁起は以下のように伝えている。
「塩地蔵さまは、昔、高輪の海中から出現されたと伝えられ、塩を供えて願をかければ、願い事がかない、また人に代わって災難を受けてくださるお地蔵さまとして尊信されています。願い事がかなった時は、また塩をお供え感謝御礼致します。海から上がったお地蔵様は、石質がもろかったために、こわれて現在はお代座だけを残して、その下に埋め、その上に新たにお地蔵さまをおまつりしてあります」(魚藍寺縁起)
海中から出現した地蔵には首がなかった。
首だけ後でつけたので、先代の塩地蔵は、首と体の色が違っていたという。
二代目を造立する時、その色の違いを再現するように心がけたらしい。
なるほど、制作意図ははっきりと読み取ることができる。
「塩地蔵」はあるが、塩を奉納する風習がなくなって、塩を用意する寺が多くなっている。
しかし、「魚藍寺」はそんな心配は無用のようだ。
供えられた塩の袋の多様さが奉納する信者の存在を物語っている。
○地蔵堂
東京都港区三田5-9-23
三田界隈の寺めぐりをしていて、偶然通りかかった地蔵堂。
お地蔵さんは「志ほあみ地蔵尊」なるたすきをかけている。
熱心な信者の手で大切に護られている感じがする。
地蔵堂の裏は「龍源寺」というお寺。
「志ほあみ地蔵」と「龍源寺」で検索してみるが、反応なし。
「志ほあみ」は「潮網」でもあり、「潮浴み」でもある。
海中から出現したお地蔵さんではないかと思うが、どうだろうか。
港区にはこの他、「塩地蔵」の「大養寺」(芝西久保)、「教善寺」(麻布六本木)、「梅窓院」(南青山)、「子育て塩地蔵」の「正光院」(元麻布)、「潮噴地蔵」の「永昌院」などの存在が江戸期の資料で確かめられているが、いずれも現在、姿がないようです。
○大円寺(天台宗)
東京都目黒区下目黒1-8-5
「大円寺」の「とろけ地蔵」をネットで検索すると
①海中から出現した。
②「大円寺」が火元の明和の大火の熱でとろけた。
③すべての悩みをとろけさせ、解消してくれる、とある。
海中から出現した時に既に像容が崩れていたことはありうるが、大火の熱でとろけたというのは信じがたい。
太平洋戦争での東京大空襲で焼け焦げた石仏を数多く見てきたが、全身真っ黒になりはするが、溶けてのっぺりした姿にはならない。
このとろけ方は大量の塩に長年埋もれていた石仏に特徴的な姿なのです。
塩でとろけた地蔵が火災に遭ったと見た方がよさそうだ。
ただし、寺では塩奉納の習俗はなかったと言っている。
「悩みをとろけさせてくれる」そうで、まことにめでたい。
「イワシの頭も信心から」というではないか。
「信じる者は救われる」のだ。
○徳蔵寺(天台宗)
東京都品川区西五反田3-5-15
すべて物事は需要と供給のバランスの上に成り立っている。
だが、品川区の「塩地蔵」分布はその常識を覆している。
「徳蔵寺」と「安楽寺」、二つの寺に「塩地蔵」はあるのだが、その距離はわずか500メートル。
どちらが先でどちらが後かは知らないが、すぐ傍に「塩地蔵」があることを知りながら、新たに「塩地蔵」を設けるのはいかなる理由によるものか。
願のかけようがちょっと異なっている。
徳蔵寺の「塩地蔵」 安楽寺の塩かけ地蔵
「徳蔵寺」の「塩地蔵」の場合、仏前の塩を持ち帰り、風呂に入れて入浴すると効能があるとされているが、「安楽寺」の「塩かけ地蔵」は地蔵の足元に塩を供えることになっている。
たしかに「塩かけ地蔵」の下半身は塩害でいちじるしくやせ細っているようだ。
○胤重寺(浄土宗)
千葉県千葉市中央区市場町10-11
「いぼ地蔵」だが、塩を塗っていぼを取るから「塩地蔵」と同義。
「いぼ地蔵」は新しいお地蔵さんで、まだ五体満足。
先代はやせ衰えた身体をお堂の脇に晒していた。
○聖徳寺(浄土宗)
埼玉県越谷市北川崎18
墓地に寛永11年の板碑型墓標かある。
塩地蔵も古いのだろうか。
お堂の中に安置されていて、よく見えないのだが、像容が崩れて、特に顔が縮んでいるように見える。
お堂の前に籠がぶら下がっていて、中に塩の袋がいくつか見える。
庫裏に声をかければ、格子戸をあけてくれるようだ。
○大長寺(浄土宗)
埼玉県行田市行田23-10
「大長寺」の「塩盛り地蔵」には行田市の寺めぐりをしていて、偶然、出会った。
円錐形にそそり立つ塩の量に驚いた。
解説板の説明は以下の通り。
「自らの御体を塩で清め、私たちの苦悩を除き下さる慈しみ深い菩薩様です。特に昔はイボを治す地蔵としてあがめられ、今は、心の闇を照らして救いくださる地蔵様として、慕われています。造立は千六百年頃です。
おまいりの仕方
お地蔵様に塩をたむけ、線香、賽銭などを献じ、願いを込めてお祈りします」。
造立から400年経つことになる。
ほぼ全身に塩をかぶって、目鼻立ちこそないものの、お地蔵さんの姿を保っていることが信じられない。
目を転じると六地蔵も同様にとろけている。
今は塩はみえないが、かつては六地蔵も塩に埋もれていたのではなかろうか。
塩地蔵は、いずれも文字通り身を粉にして衆生済度を本願とする。
塩でとろけてしまうのも本望なのかもしれない。
○地蔵堂
埼玉県さいたま市大宮区吉敷き町1
地蔵堂は大宮宿の旧中山道からちょっと入った所にある。
塩地蔵は小屋の奥に安置され、ガラスで仕切られている。
「お地蔵さんに塩をかけないでください。お地蔵さんが泣いています」と注意書きがある。
塩地蔵は塩をかけられてなんぼのものだろう。
かけないでというのは、行き過ぎではないか。
そもそも、かけたくてもガラスに仕切られていて、かけることなどできないのに。
この「塩地蔵」にはいわれがある。
「娘二人を連れた浪人が大宮宿で病に倒れた。地蔵が娘の枕元に立ち、塩断ちすれば病は癒えると告げた。娘たちは早速塩断ち、父親は回復した。娘たちはお礼詣りに沢山の塩を奉納した。この父娘にあやかろうと宿場の人たちも塩を供えるようになった」。
○慶岸寺(浄土宗)
東京都狛江市岩戸北4-15-8
覆屋の柱に「塩地蔵菩薩」と木札がかけられている。
4体分の台座が並んでいるが、右は頭だけ、その隣は辛うじて地蔵立像と推測しうる石仏、左の2体は、「体」というのもおかしいくらい単なる石の塊で、こうまでして配列する意図が分からない。
今は塩を奉納する風習は無くなったようだが、この4体の像容の崩れ方は明らかに塩害風化によるもので、おそらく長い年月すっぽりと塩に埋もれていたに違いない。
川崎市にはなんと4カ所に塩地蔵がおわす。
○医王寺(天台宗)
神奈川県川崎市旭町2-4-4
オデキを治すのに効く。
塩商人の商売繁盛祈願伝承も。
○成就院(真言宗智山派)
神奈川県川崎市中原区小杉陣屋町1-32-1
普通の墓標石仏に交じってたった1基の塩地蔵が立っている。
体がとけて顔もノッペラボウなのですぐ分かる。
○西明寺智山派)(真言宗)
神奈川県川崎市中原区小杉御殿町1-904
諸病平癒祈願。
参拝者は病気の部位と同じ所に塩を塗りつける。
今は取りやめになっているようだ。
○地蔵堂
神奈川県川崎市高津区新作3-11
「塩かけ地蔵」だが、格子戸の中に安置されていて、塩を供えられない。
地蔵は真新しいようだ。
「医王寺」の塩地蔵と同じように塩売り商人の商売繁盛祈願のお地蔵さんだったらしい。
○光触寺(時宗)
神奈川県鎌倉市十二所793
金沢八景から鎌倉に通ずる金沢街道は、別名、塩街道と呼ばれた。
六浦から鎌倉へと塩売り商人が通う道だった。
塩街道からほんの少し引っ込んだ場所にある「光触寺」は、時宗の名刹。
参道の両脇は墓地で、年代物の墓標が並んでいる。
この寺の境内に「塩なめ地蔵」がある。
この「塩なめ地蔵」の伝承は、『延命地蔵菩薩経直談』や『新編相模国風土記稿』などに詳しいが、ここでは『新編鎌倉志』から引用する。
「六浦の塩売、鎌倉に出るごとに商いの最花とて、塩をこの地蔵に供するゆえに名く。或は云、昔此石像光を放しを塩売り、像を打仆して塩を嘗めさせる。それより光を不放。故に名くと云」。
もっとも普遍化している伝承は、鎌倉へ向かう途中に塩を奉納したのに、帰りに立ち寄るとそれが無くなっていた。
地蔵が舐めたとしか思えない。
だから「塩なめ地蔵」とよばれるようになった、というもの。
これで「東京とその近郊の塩地蔵図鑑」(1)、(2)を終える。
面白い企画になるはずであった。
だが、終わっての感想は「つまらない」。
それが、なぜなのか、よく分からないのだから我ながらなさけない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます