石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

92 三吉朋十『武蔵野の地蔵尊』たちは今(板橋区編)

2014-12-01 02:47:56 | 地蔵菩薩

 「『武蔵野の地蔵尊』たちは今」シリーズの第3弾。

著者の三吉さんは、私にとっては神様みたいな存在で、本で取り上げている地蔵尊を尋ね歩くだけでも、勉強になると喜んでいます。

今回は、私の居住する板橋区。

三吉さんは、8体の地蔵尊を取り上げていますが、実は、謂れのあるお地蔵さんはもっと多いのです。

当然、三吉さんはご存知だったことでしょうが、紙幅の都合で割愛せざるを得なかったのでしょう。

他に魅力的な、面白い地蔵尊があることを知りながら、素通りすることは地元の者としては難しいことで、今回に限り、『武蔵野の地蔵尊』記載以外の地蔵がやや多くなりそうです。

*ブルー文字は、『武蔵野の地蔵尊』からの引用。

*『武蔵野の地蔵尊』に記載以外の地蔵尊は▽マーク。

▽平尾追分地蔵/東光寺(板橋区板橋4)

本堂前に石仏が並んでいる。

ひときわ大きい地蔵尊は、平尾追分地蔵尊。

かつて寺の参道は、中山道に面していた。

江戸から来ると板橋宿は、平尾宿、中宿、上宿と分かれていた。

ここは平尾宿で、参道の前は中山道と川越街道の追分だった。

下が、追分跡地。

右の道路が旧中山道。

この追分の想像図が下の絵。

板橋区立郷土資料館が開いた企画展「平尾宿―脇本陣豊田家」の展示資料集の表紙として描かれもの。

ちょっと分かりにくいが、絵の左、分岐点に一本松を背に黒っぽく坐しているのが地蔵尊。

旅の安寧を願って、旅人は皆、手を合わせたに違いない。

まるで布袋様のような体躯でゆったりと座っている。

板橋区最大のお地蔵さんです。

造立は享保4年(1719)、宿場の人たち200人が施主となって建てられました。

◇胸突き地蔵尊/子安神社(板橋区板橋2)

道路に面して小堂が立っている。

「胸突き地蔵尊」の看板がかかっている。

格子戸の格子の間から覗くと石仏がおわすのは分かるが、全身朱色のマントを着ていて像容は確認できない。

頭は円頂であることは推察できるから、これが胸突き地蔵だろう。

「ある日の夕方、一人の旅人が子安神社の森から飛び出してきた追剥に切り付けられた。胸を一太刀、倒れた旅人を見て追剥は驚いた。旅人と思ったのは、石の地蔵さんだったから。自らの悪行を悔いた追剥は、その場に一地蔵堂を建て、地蔵尊を安置した」。P43

胸突き地蔵のこれが謂れで、その証拠に地蔵の胸には刀傷があるのだそうだが、不粋なマントに隠されて見えない。

台座には「右上尾、左河越」の道標があるはずだが、格子から覗く視野は狭く、とても確認できるものではない。

 

▽お福地蔵尊/路傍(大山町54)

 玉垣にしっかりと囲まれて、お堂がある。

線香の煙が絶えず、供花は新しい。

これほど管理が行き届いているお堂は、今時、珍しいのではないか。

私の散歩の圏内で時々通りかかるが、2回に1回は、参詣者の姿を見かける。

 お察しの通り、お福という女性が地域の人たちに福を授けたから「お福地蔵」。

 お福地蔵奉賛会が掲げた縁起によれば、

「文化文政の頃、鎌倉街道(日大交差点付近)にお福さんという行者が住み着き、人々の難病苦業を癒して住民から慕われていた。死後、その供養のため石地蔵が建てられ、お福地蔵として崇拝されている」。

境内には、もう1基「お身洗い地蔵」があるが、これは、巣鴨・高岩寺の「お身洗い地蔵」の分身だといわれている。

 

◇しろかき地蔵/西光寺(板橋区大谷口2)

『武蔵野の地蔵尊』では、「苗代かけ地蔵」となっているが、板橋区有形民俗文化財としては「しろかき地蔵」で登録されているので、ここでは「しろかき地蔵」とします。

「しろかき」とは、「田植えの前に田の土をかきおこして、ならすこと」。

都会育ちの現代人には、なじみのない言葉だろうから、余計なお世話だが、意味を載せておく。

本堂のうちに”苗代かけ地蔵」という名の石彫り一尊を安置する。ふつうの彫法と異なり、ことごとく曲線で、いわゆる波状彫りである」と三吉老の本にはある。

「本堂にあるのでは、見られないかもしれない」と案じていたが、境内の小堂に「しろかき地蔵」はおわした。

お堂が火災に遭い、石仏を本堂においていたが、お堂を再建して元に戻したという。

一見なんの変哲もない石仏のようだが、中世に造られたものと区教委文化財担当は認定している。

中世の石仏となると、23区でもかなり珍しいものになります。

板橋区では、毎年秋、登録文化財の一部を公開しています。

数年前、「しろかき地蔵」公開に当たって、市民に配布した絵ハガキが手元にあるので、その説明を載せておきます。

「目や鼻は少々破損していますが、右手に錫杖、左手に宝珠を持ち、衣には繊細な模様が残っています。像全体の曲線、猪首、衣の文様、錫杖の長さ、蓮台の彫刻などの特徴から中世に造られた石仏と考えられています。
西光寺の北を通る大谷道の坂は地蔵坂と呼ばれ、えんが堀にかかる橋は地蔵橋と呼ばれていました。地蔵は、当初地蔵坂の途中、氷川神社西側斜面に祀られていましたが、戦前に当寺に移されました」。

肝心の「しろかき地蔵」の由来には、2説ある。

まず、『武蔵野の地蔵尊』から。

おおぜいの者が出て苗代をかけていると見ず知らずの人が、毎日毎日、お手伝いをしてくれました。どなたさまかと後をついて行くと、お堂の中に入っていきました。中には一体のお地蔵さん。地蔵が百姓になり、代かきを手伝ってくれたのです」。

しろかき地蔵堂に張り付けてある住職による由来書。

「信心深い百姓が明日の田植えに間に合うように懸命に代かきをしていたが、日暮れになり途方に暮れて溜息をついていた。そこへ若い坊さんが来て「お困りのようですね。代かきが終わらなかったんですか」と話しかけ、いずこかへ去って行った。
翌朝、田んぼへ来た百姓はびっくり。さしもの広い田んぼはきれいに代かきが終わっている。あたりを見回すと田んぼの泥が点々とついていて、それを辿ってゆくとお堂に着いた。よく見るとお堂の中のお地蔵さんは腰まで泥だらけだった」。

地蔵尊が変化して農作業を手伝ってくれたという話はこの西光寺のみではない。例を挙げれば、浅草寺の田植え地蔵、埼玉県日高町の霊厳寺、台東区橋場の浄土宗保元寺、葛飾区新宿の一心寺などがある」。

 ▽雨乞い地蔵尊/路傍(板橋区向原1)

すぐ先は、練馬区という場所に雨乞い地蔵はある。

マンションの片隅にしっかりした像容で立っていらっしゃると思ったのだが、どうやら平成12年に造りなおされたのだという。

それ以前の尊像は砂岩のため風化が激しく、崩壊寸前だったのを地域の人たちが再建したのだそうだ。

雨乞い地蔵があるということは、かつてこの場所は一面の田んぼだったに違いない。

今はどっちを向いても田んぼは見えない。

目的を失って、雨乞い地蔵は途方に暮れて所在無げです。。

 

◇爆死者九体供養塔/路傍(板橋区大山金井町)

板橋区大山金井町の一角に、万人風呂と云う名の公衆浴場がある。浴場の外、四辻の角に有蓋の八面搭が立つ」。P35

今、万人風呂はない。

公衆浴場の跡地には、マンションが建っている。

一角の光景は一変したが、地蔵八面搭は同じ場所にある。

戦時中、広い土地のある銭湯に防空壕が掘られ、近隣住民の利用に供することが流行った。

昭和20年4月13日、空襲警報で万人風呂の防空壕に13人が避難していた。

不幸なことに、焼夷弾は防空壕を直撃し、13人のうち9人が爆死した。

銭湯の経営者小川氏は、人を助けようと好意をもって壕を築造したのであったが、これがかえって不幸の結果になったのは、私の不徳の致すところであると、資財15万円を投じて菩提供養のこの塔を造立した」p36

爆死した9人の中には、幼児もいた。

八面塔に9人を収めるために、一面には童子を抱く地蔵尊が彫られた。

通称「八面九体地蔵尊」と呼ばれている。

 

▽平和地蔵尊/路傍(板橋区南常盤台2)

これもまた、爆死者を悼む地蔵尊。

南常盤台の住宅地の真ん中にある。

昭和20年6月10日の空襲は、板橋区最大の被害を出した。

B29のターゲットは前野町の工場地帯。

2時間にわたり、250キロ級爆弾が116個投下され、死者269名、被災世帯497、被災者2467名という大きな被害をもたらした。

悲劇を二度と繰り返すまいと、昭和23年に建てられたのが、この平和地蔵尊。

 大小2体の地蔵尊は、大人と子供を表わしているという。

 

◇逆修子育て地蔵/専称院(板橋区仲町)

造立は昭和28年だから61年前のこと。

像容にも目新しい点はない。

珍しいのは、この地蔵尊が、逆修であることか。

当時の住職の母堂が造立した。

われ没後には、参詣する人々はこの地蔵に香華を手向けてください。われは浄土でお守りしましょう」と云って亡くなったという。

逆修塔などは、中世から近世までのことだとばかり思い込んでいたので、びっくり。

本堂内には、祐天上人が開眼したと称する総金色の座姿の木彫地蔵が安置している」そうだが、祐天の六時名号塔を台石側面に彫った地蔵尊が境内にある。

晩秋の低い光線が木の葉を映じて、像は見えにくい。

地蔵座像の下、正面には「堅通三界 溺水亡霊解脱塔」とある。

この地に移転してくる前は、荒川の氾濫で溺死者もでる場所に寺はあったものと見える。

祐天の六字名号は右側面に。

 

書として残されていたものを刻んだものだろう。

寺の外、塘路に面しての地蔵堂の地蔵尊は、道標を兼ねていた。

旧川越街道と子易道の分岐点にたっていたものをここに移転してきたのだという。

 

▽はいた地蔵/南蔵院(板橋区蓮沼町)

いろんな資料に、はいた地蔵の写真は載っている。

だが、そのどれにも謂れは載っていない。

はいた地蔵だから歯痛に関するものだとは推測できるが、願う時や願いが叶った時のしきたりはあるのだろうか。

寺へ行って訊いてみた。

造立年が正徳3年(1713)だから、現在地へ移転する前の志村坂下の沼畔に寺があった時の石仏で、移転理由の荒川の洪水で一切の史料を失ったので、いわれやしきたりなどは全く分からないとの返事。

はいた地蔵が造立されてから15年後の享保13年(1728)、蓮沼村全体が台地に移転してきた。

南蔵院近くの地下鉄「本蓮沼」駅の駅名にだけ、かつての村名が残されている。

石造物の多い寺で、地蔵尊を主尊とする庚申塔がある。

承応2年(1653)の造立は、板橋区内最古の地蔵庚申塔ということになる。

 

 ◇織部型地蔵燈籠/常楽寺(板橋区前野4)

「板橋区で石仏の寺は、どこ?」

有力な候補が常楽院であることは、間違いない。

山門の両側にずらりと石仏が並んでいる。

右側には、大き目な石仏。

左は、如意輪観音中心の石仏墓標群。

けだし、一つの寺院でこのように多種多様の地蔵尊が存在するのは、都内では常楽院のみであろう

三吉老からお墨付きをもらうほどだから、まるで石地蔵が林立しているようだが、もちろんそんなことはない。

石地蔵だけではなく、「多種多様な地蔵尊」があるのであって、その代表例が灯篭地蔵。

常楽院には、火袋や竿に地蔵を刻した灯篭が3基もあります。

はっきりしているのは、織部灯篭籠地蔵。

別名キリシタン燈籠。

桃山時代、茶人吉田織部の創案灯篭だが、三吉老によれば、江戸期以前の織部型灯篭は、江戸・東京にはない、とのこと。

竿の部分に合掌する立姿の地蔵尊が1体刻されている(はずだが確認できない)

織部型灯篭は見分けやすいが、他の石灯籠は判断しにくい。

住職に教えを請いたいとお願いしたら、登場したのは、若い男性。

住職が去年急逝されて、急きょ跡を継いだそうで、地蔵灯篭の存在もご存じない。

そんな住職だったが、水子灯篭は容易に見つけられた。

なんのことはない、『武蔵野の地蔵尊』に写真が載っていたのです。

周囲には、灯篭の部分がごろごろ。

3.11の地震で倒壊した灯篭の残骸だとか。

おぼつかない住職と二人で探したが、見つけられなかったのが三末地蔵。

火袋に四尊を浮彫し、姿は合掌」している灯篭はいくつかあるが、肝心の三末の文字「心火末不消、心眼末不開、心源末未極」が見当たらない。

巡業地蔵(通称笠懸地蔵)は、門前右側の石仏群の中、一きわ高くおわす。

2012年2月雪の朝撮影。笠に雪がうっすらと積もっている。

三吉老がいつ常楽院を訪れたかは不明だが、「その後に笠を失う」と書いてあるところから失ったのは、昭和40年代のことではないか。

境内大改築が行われた昭和49年(1974)には、この門前も改修され、亡くなった笠も復元されたはずです。

復元されたのは、見返り地蔵も同じ。

場所が門前から墓地入口に移動され、首が新しくなった。

何を見返っているのかというと、冥途へ向かう亡者の列。

台石に童子、童女の文字が読めるから墓石だろう。

墓標見返り地蔵は、珍しい。

墓地に入ると一際目立つのが、子育て地蔵。

彫りが、すばらしい。

右手に錫杖、左手に幼子を抱く丸彫り立姿の地蔵尊。

衲衣に2童子がしがみつく造容に、子供の守護神としての地蔵尊が造顕されています。

 

 ◇施無畏地蔵/松月院(板橋区赤塚8)

参道入口に「施無畏」と台石を刻んだ地蔵尊がある。

昭和29年造立だから、まだ新しい。

「施無畏という名は、主として観音に使用される法語であるが、地蔵にこのような呼称を付したのは稀例である」。P37

山門の両脇は、白壁塀。

左の塀沿いに進むとポッカリ空間があって、4基の地蔵尊がおわす。

写真の右から2基めが、塩地蔵と云われている。

確かに足元に塩は見えるが、塩害で体がとろけそうなのは。左の2体。

墓地に入る。

六地蔵灯篭がある。

貞享2年の開眼で,胴は筒形、燈籠の下の土中に、一石に一字の経を墨書して埋めてある。『奉書写大乗妙典全部五輪一石一字衲地輪豊島郡大門村万吉山松月院三代貞享元甲子年云々』と彫り付けてある。この灯篭のかたわらには、開基千葉貞淵の墓と損傷した数基の小型の五輪塔がある。おもうに、この灯篭はこの二つを開眼すると同時に造立したものであろう」P38

 

◇一宿一飯地蔵/乗蓮寺(板橋区赤塚5)

 三吉朋十『武蔵野の地蔵尊』には、「戦災で本堂は仮堂」とか「戦災による被害の復旧未だし」とかの記述が多い。

三吉さんが地蔵を探して寺々を回ったのは、昭和20年代からではないかと思っていたが、それを決定づける記述があった。

寺(乗蓮寺)は浄土宗に属し、板橋区役所の北近く旧中山道の西面に沿う」。

乗蓮寺は、東京大仏が有名で、今は、板橋区の赤塚5丁目にある。

昭和46年(1971)から7年間をかけて、仲宿から赤塚へ引っ越した。

中山道の拡幅、首都高5号線建設が移転原因だった。

ショックなのは、乗蓮寺移転を私は全く記憶していないこと。

昭和46年といえば、私が現在地に住むようになってから10年後のことです。

薬マツモトの前が旧中山道。その前に伸びるのが乗蓮寺参道。ハイタウンやアクロスは寺の跡地に建てられたマンション。境内はピンクの中山道(国道16号)を越えて広がっていた。

私の家から歩いて10分ほどの場所で起きた地元の大ニュースを知らなかったなんて我がことながら信じられない。

そういえば、旧中山道に面していた乗蓮寺そのものの記憶もありません。

都電の車窓から、寺の長い塀と黒々とした木立を見たはずですが、覚えていないのです。

20代後半から30代、いかに地元に目が向いていなかったか、神社や寺に無関心だったか、もうあきれるばかりです。

本堂の前に北面して丸彫り、立姿の地蔵尊を安置し、「一宿一飯一銭一粒」の八文字を彫ってあって、正徳5年(1716)の造立である」P42

 今この地蔵尊は、大仏の後方、無縁仏に囲まれてある。

 台石右には、施主名、なぜか女性の名前ばかり9名。

左には、「願主一誉行心 為一宿一飯 一銭一粒 播主 品川住 乃至法界 利益無窮」。

一宿一飯の意味を三吉老は次のように書いている。

巡礼が道に迷い、日暮れて夜に入った。一僧に導かれてある寺に連れて行かれて、一宿一飯をこうて事なきを得た。地蔵尊が僧に変装してこの者を案内したという」。P43

「同じ文字を彫った石地蔵が、横浜市旧明倫学園前の丘の頂上の辻に北面して立っていて、江戸向き地蔵と呼ばれている」ともあるが、確認していません。

 

≪参考図書≫

〇三吉朋十『武蔵野の地蔵尊』昭和47年 有峰書店

〇『板橋の史跡を訪ねる』平成14年 いたばしまち博友の会

〇板橋区教育委員会『いたばしの石造文化財 その四 石仏』平成7年

 


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