石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

17 シリーズ東京の寺町(1)ー豊島区西巣鴨その1-

2011-11-01 12:01:36 | 寺町

東京に寺町は多い。

20-30カ所はあろうか。

順次とり上げて行くつもりだが、1回目は、豊島区西巣鴨。

我が家から最も近いのがその理由です。

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都営地下鉄三田線「西巣鴨」駅でおりて国道17号を巣鴨方向へ。

寺町はその左側に展開しているのだが、国道から見えるのは「正法院」、1カ寺のみ。

本堂の屋根の上と境内のビルの壁に菊の紋章がある。

             正法院(天台宗) 豊島区西巣鴨4

「上野輪王寺」の書院を下谷車坂にあった「正法院」本堂として移築したのがその謂れ。

明治38年、そのまま現在地に移転きたというわけ。

境内に入ってみたかったが、ピタっと門が閉ざされている。

寺はもっと開放的であってほしい。

 

「正法院」の隣が「西方寺」(さいほうじ)。

表札に「道哲西方寺」とある。

「西方寺」が浅草聖天町から移転してきたことを「道哲」の二文字が表している。

「道哲」は坊主の名前、世間では「土手の道哲」と呼んでいた。

土手とは、日本堤の土手を意味し、日本堤は新吉原への通路だった。

刑場は此西方寺の門前すこしき所空き地にて、十間ばかりの長さ、巾は弐間余もあらんところに移されたり。この時道哲という浄土宗の道心者、かの罪人仏果得達のために昼夜念仏してありしが、滅後この寺に葬れリ。されば土手の道哲と唱へたりと」
御府内備考巻之十三
浅草之一 刑場蹟

土手にあった「西方寺」の住職が道哲で、彼は行き倒れや刑死者、寺に投げ込まれた遊女の遺体を手厚く葬った。

「浄閑寺」とともに「西方寺」も投込み寺として知られていた。

その痕跡が墓地の一角にある。

竿の部分に「投込み寺」、火袋に「土手道哲」と彫られた銅の灯籠が一基。

「土手八丁」、「浅草寺」、「待乳山」、「山谷堀」などの地名、寺号もあって、「西方寺」の元の場所がどんな所だったかがよく分かる。

この灯籠の後ろは「高尾太夫」の墓。

その隣に「道哲の墓」と言われる地蔵墓標が立っている。

    道哲地蔵墓標  高尾地蔵墓標 (西方寺墓地)

今や、時代は21世紀。

江戸時代は、はるか遠くになった。

江戸の事物はますます理解しにくくなっている。

とりわけ「吉原」をきちんと掌握するのは難しい。

単なる公認売春地帯としてなら理解は簡単だが、吉原特有の伝統、文化、風習となるとお手上げである。

「太夫」もその一つで、遊女の最高位だという。

中でも「高尾太夫」は吉原花魁の筆頭にあり、その名は代々襲名されていった。

高尾太夫

庶民なら1年1両で暮らせるという時代、高尾太夫と一晩遊ぶ金は、30両。

必然、客は大名か豪商ばかり。

歴代高尾は、落籍した大名の名で区別された。

ここ「西方寺」に眠る「仙台高尾」は、仙台藩主伊達綱宗に身請けされた高尾である。

「仙台高尾」は伊達綱宗の意に従わず、隅田川でつるし切られたという話があるかと思えば、「きみはいま駒形あたり時鳥」という文を高尾が綱宗に送るほど二人の仲はむつまじかったという説もある。

しかし、こうして高尾と道哲二人の墓が「西方寺」にあることを見ると、両説はともにマユツバに思えてならない。

高尾は誰にもなびかず「死んだら道哲さまのおそばに埋めて」と頼んで息を引き取った、という話がある。

辞世の句は「寒風にもろくも朽つる紅葉かな」。

「西方寺」の過去帳によれば、高尾の命日は、万治三年庚子歳十二月二十九日。

その四日前の十二月二十五日、道哲もこの世を去っていた。

 「道哲さまの傍に埋めて」という高尾の願いは、彼の死を知っていたからであろうか。

では、二人の接点はいつどこにあったのだろうか。

道哲の父は彦根藩江戸詰の硬骨の士だった。

家老の悪事を殿に注進したのが仇になり、切腹を仰せつかる。

息子道哲は浪人して再起の機会を狙っていたが、彦根藩主が高尾太夫に惚れて日参していることを聞き、ある夜、三浦屋に忍び込み、殿に直諫した。

この諫言で殿は自らの非を悟り、お家騒動は未然に阻止された、めでたし、めでたし!

ところで、このめでたい話には最終章があって、道哲の、命をかけての直諫の場に居合わせた高尾は、彼の雄々しい姿に一目ぼれしてしまった、というのである。

その後、彼は武士であることがいやになり、僧となって日本堤に草庵を営んだ。

それが「西方寺」の前身であった。

 

2体の地蔵を見比べてみる。

道哲地蔵は眉目秀麗、イケメン地蔵であるのに対して、高尾太夫の地蔵はひどい。

   道哲地蔵墓標              高尾地蔵墓標

とても名妓の顔とは思えない。

写真の撮り方が悪くてそのひどさが伝わらないのが残念だ。

石工は、高尾の墓と知っていたのだろうか。

何か悪意が働いているとしか思えないほどだ。

 

「盛雲寺」の墓地には、新門辰五郎の墓がある。

盛雲寺(浄土宗)明治41年下谷から移転  新門辰五郎の墓

侠客ややくざが嫌いで、彼らが主人公の小説は読んだことがない。

映画も観たことがない。

だから、新門辰五郎なる名前は知っていたが、その人となりは全く無知である。

ネットで検索、徳川慶喜の警護役をずっとやっていたことを知った。

歴史の転換の最前線にいたわけだが、娘が慶喜の妾だったからという理由が面白い。

慶喜を擁護したからと言って、維新後の新政府に嫌がらせをされることもなかったようだ。

浅草六区の香具師の総取締でもあって、あがりのテラ銭で押し入れの床がぬけたという伝説があるらしい。

「新門は、しんもんではない。あらかどと呼べ」とどなっていたという話もある。

だからどうした、と言われると困るが、検索したらこんな話があったよ、とただそれだけのことです。

 

 隣の「妙行寺」へ行くには、都電の線路を越えて、Uターンして来なければならない。

この寺町は、墓地を囲んで寺がある形になっている。

各寺の墓地は、中央部分で接しているわけで、墓地伝いに行けば近道になる。

妙行寺(日蓮宗) 明治40年四谷から移転

だが、墓地から「妙行寺」へは入れなかった。

他の寺にはない囲いがあるのだ。

仕方なく、遠回りをして「妙行寺」へ。

この寺の墓地の有名人と言えば「お岩さん」。

        お岩の墓(妙行寺

お岩伝説を改めて書きはしないが、ひとつだけ付け加えておく。

それは、戒名。

「得証院妙念日正大姉」。

なぜ 院号なのか。

お岩さんといえば、たたり。

何度、追善供養をしてもたたりは続いたが、戒名に院号をつけたらピタっとおさまつたと言われている。

この話は寺の宣伝臭がする。

院号を付けるのには大金がいる。

しかし、効力があるのだから、大金を払っても惜しくはない、そう思わせる寺の陰謀ではないか。

 

「妙行寺」の隣は「善養寺」。

 善養寺(天台宗) 下谷から明治45年移転

僕にとっては忘れられない寺である。

『(8)八万四千体地蔵』でも書いたが、八万四千体地蔵に関心を抱くきっかけは、ここ「善養寺」の4体の地蔵だった。

寺伝を見ると、もとは下谷にあって寛永寺の子院だったというから「浄明院」とは親類関係にある。

八万四千体地蔵があっても、少しもおかしくないのである。

本尊は薬師如来だそうだが、本堂を覗くと目に入るのは巨大な閻魔さま。

江戸三代閻魔の一つだそうだ。

地獄はあるかもしれないと思っている現代人でも、閻魔となると首を傾げるだろう。

閻魔の存在をリアリティを持って信じられなくなるに比例して、仏教徒の信仰心が希薄になってきた、と言えるかもしれない。

「善養寺」には、この他、尾形乾山と相撲の武蔵川理事長の墓がある。

          尾形乾山の墓          武蔵川理事長の墓 

「善養寺」の右隣は「清厳寺」更に「良感寺」と続いて、墓域を取り囲んだ形の西巣鴨寺町は一周することになる。

 清厳寺(曹洞宗) 大正11年、小石川小日向台町から移転

良感寺(浄土宗) 大正3年、下谷から移転           

 レトロな商店の脇の路地を入ると塀にぶつかる。

そこが寺町の墓域。

寺町を構成する7カ寺は明治の末から大正にかけてここに移転してきた。

だから、ここには、明治や大正の時代を色濃く残す道具がある。

汲み上げポンプの井戸。

 どの寺でも現役として機能しているのがすごい。

     妙行寺のポンプ            良感寺のポンプ

今、気がついたのだが7カ寺の境内と墓地のどこにも、庚申塔や馬頭観音が見られない。移転してきたことと関係があるのだろうか。

(1-B)に続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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