引き続き、「三吉朋十『武蔵野の地蔵尊』たちは今」の4回目。
今回は、北区、荒川区編。
4回続けて、同一シリーズ。
少し曲がなさすぎるが、最近の、急激な体力減退では仕方ないか、とも思う。
地下鉄の階段は、途中、3度ほど立ち止まって休まないと地上に出られない。
寺社には、石段が多い。
上がらないで引き返すこともある。
平地を歩いていても、ついつい、腰かけてやすんでしまう。
若い時の放埓のつけが回った、と諦めているが、へたり込む自分がなさけない。
70代半ばでこの体たらくのわが身に比べ、三吉さんのなんと壮健だったことか。
『武蔵野の地蔵尊』を著したのは、93歳だったというのだから、驚くばかりだ。
◇六面塔九尊/西音寺(北区中十条3)
山門の外に有蓋、高さ1.3mばかりの六面搭かある。(*ブルー文字は『武蔵野の地蔵尊』からの引用)
各面に立姿の地蔵一尊ずつを浮彫してあるが、地蔵尊の上のところに弥陀と観音、勢至の三尊を三面に一体ずつを浮き彫りにしてある。一塔に弥陀、観音、地蔵をあわせて九尊を浮き彫りにした例は他に例がない。
「武州豊島郡十条村願主浄心、奉造蔵六地蔵大菩薩為有無両縁也」の十五文字を彫る。けだし、弥陀と観音とは後日これを追刻したものであろうか。
◇鋳造地蔵と逆卍地蔵/西福寺(北区豊島町2)
朱色の山門と見上げる高さに坐すカラフルなお釈迦さまが印象的なお寺。
「境内に南面して雨屋の下に、一体の鋳造の座姿地蔵を安置する。この地蔵は、戦火で堂宇焼失のあと、盗難にあったが、重かったためか、本尊は投げ捨てられ、蓮座のみ持ち去られた。蓮第はコンクリートをもってこれに代えた」。P56
蓮台がコンクリートの座姿地蔵を探すが見当たらない。
仕事中の職人さんに訊いてみる。
西福寺出入りの石屋だという。
鋳造座姿地蔵は、なんなく見つかった。
本堂前に坐していらっしゃる。
蓮台がコンクリートではなく、黒御影なので、間違うのも無理はない。
3年ほど前、ここに移転してきたばかりだとは、石屋さんの話。
三吉老が「六地蔵一揃い、六体ともに逆卍が浮彫してある」と指摘する逆卍だが、石屋さんによれば、「ああ、あれは石屋の間違い。意味などなんにもないよ」。
これもまた石屋の話だが、門前の身代わり地蔵も、最近安置したもので、謂れなどあるはずもないと、そっけない。
そう云われて見れば、どこもかしこもピッカピカ、出来立てホヤホヤのお地蔵さんのように見える。
◇鎮台戦没者供養地蔵/正光寺(北区岩淵町)
「寺は戦火で全焼し、復興は容易ではない。20数年を経過しても本堂は仮のままであり・・・」P57
三吉老がこれを書いたのは、昭和40年代と思われる。
その後、本堂は復興された。
だが、昭和53年(1978)、ホームレスによる失火でまたまた焼失。
以来、33年間、放置されたまま、寺は野良猫の住まいとなっていた。
それが2010年、法然上人八百年第遠忌を記念して本堂建立に着手、翌2011年完成する。
どこを見ても新しいものばかり。
どこもピカピカ。
お寺は古い感じがないとおごそかさにかける、と思うのは、私ばかりでしょうか。
鎮台戦没者供養地蔵は、山門をくぐるとすぐ左に坐していらっしゃる。
「鎮台」とは、師団のこと(らしい)。
明治29年に造立開眼されたというこの延命鋳造座姿地蔵の台石には、主として近衛第一師団の戦没将兵の名が刻されている。
昭和生まれの私には「鎮台」の意味も曖昧だが、明治15年生まれの三吉さんには、日清戦争は「同時代史」そのもの。
「造立の年代は新しいが、記念すべき鋳造の地蔵尊である」と記述にも熱が入る。
◇検校地蔵/城官寺(北区上中里1)
本郷通りを旧古河庭園から王子方向へ進むと平塚神社が見えてくる。
信号を右折、神社を見ながら進むと右に城官寺の参道が現れる。
城官寺は、その昔、平塚神社の別当寺だった。
城官は、人の名前。
山川城官貞久は、盲人の鍼医で検校。
将軍家光の病平癒を、城官が平塚神明に祈願したら家光の病は癒えた。
それを耳にした家光は、朱印地を平塚明神に与え、自らも参詣した、という言い伝えがある(らしい)。
山門の扁額「平塚山」は、田中角栄元総理の書だとか、おっとこれは蛇足だった。
その山川城官検校の墓が墓地にある。
自信満々、出世意欲に満ちた表情の、地蔵らしからぬ恰幅のいい石仏である。
「山門を入って参道の右側に、数基の丸彫り地蔵が立ち、その群塔の東端に、形体がやや異なった一基がある。これは、寺の付近に住む八人家族が一家こぞって焼死したのをあわれんで、近隣の人たちが大正7年に造立したものである」。P57
参道に確かに5基の丸彫り地蔵が立ち並んでいる。
曇天で東が分からない。
向かって左だとすると面白いのに、と思う。
台石に椀状凹みが多数あるからだ。
椀状凹みについては、このブログNO44-45、55、56,58、60を見てほしいが、いつごろあけられたものか、時期が特定できていない。
この地蔵は大正7年造立なのだから、大正年間くらいは穴をあける風習があったことになる。
大発見だ!と一人興奮したのだが、どうやら向かって右から2番目が三吉老の云う「一家八人焼死供養地蔵」だと判明、がっくりと膝を落とす。
隣の台石との間隔が狭くて、全文は読めないのだが、「大正七年」の文字は読み取れるから、これが問題の地蔵と断定して差し支えなさそうだ。
◇骨地蔵と吉展地蔵/回向院(荒川区南千住5)
「東京都には回向院が2か所ある。一つは江東区両国にあり、もう一つは荒川区旧小塚原にあって、いずれも浄土宗に属す。小塚原とは、刑場のあった原の旧称で、刑場の広さは間口60間、奥行き30間、およそ10万余の罪人が処刑された。無縁となった刑死者の遺骸はこの地に埋められ、無縁供養の巨大地蔵が造立され、骨地蔵と呼ばれた」。
骨地蔵は、首切り地蔵とも呼ばれる。
首切り地蔵については、このブログNO38「コツ通りと首切り地蔵(小塚原刑場跡)」をご覧ください。
「吉展ちゃん誘拐殺人事件」と聞いて、「ああ、あの事件」とすぐ分かる人たちは、60歳以上だろうか。
日本初の報道協定が結ばれ、犯人の声がテレビ、ラジオで公開された。
私は、民放テレビの、騒然たるニュースルームの只中で、新米報道部員として、手を拱いて立ちすくんでいた。
実は、吉展ちゃんは誘拐直後殺害されていて、南千住の円通寺の墓地に投げ捨てられていたのだった。
この吉展ちゃんを供養する地蔵尊が、荒川区には、なぜか、2基ある。
回向院の吉展地蔵は、犯人が捕まり、一件落着した1965年7月から4か月後の11月に造立開眼された。
台石に下記の文がある。
「昭和38年3月31日、いたいけない村越吉展ちゃんは台東区入谷町南公園にて突如誘拐され、計り知れない不幸にあう。子を持つ母たちはたとえようもなく、男おんなのへだてなく、あげて魂の消え息つまる思いで明けくれた。ここに有志相図り、地蔵尊を建立す。今の世、のちの世まで、この像をおがむ人は人の命をあやまることなく、生きとし生けるものみなを切にいとしんでほしい。それが吉展ちゃんのこの上ない供養と信ずる」 P98
もう1基の吉展地蔵は、吉展ちゃんの遺体が投げ込まれた円通寺にある。
◇鋳造吉展地蔵/円通寺(荒川区南千住1)
吉展ちゃんの遺体は、犯人の自供によって、円通寺墓地の池田家の墓穴で発見された。
その翌年、円通寺に鋳造吉展地蔵が造立される。
鋳造したのは、島村亮明氏。
「島村氏はまだ青年の頃、当寺の境内に石彫りの地蔵尊1基を造立したことがあったが、この鋳造吉展地蔵は、その原型に擬して立姿につくりあげたものである」。P99
◇小夜衣地蔵と比翼塚/浄閑寺(荒川区南千住2)
(*この項、後刻、追加)
◇東都六地蔵/浄光寺(荒川区西日暮里3)
寺は諏訪神社の東に位置する。
その昔、浄光寺が諏訪神社の別当であった頃は、雪見寺と呼ばれ、北方の展望極めて佳、将軍が折々お成りになって景色を嘉せられたという由緒ある寺である。
『江戸名所図会』。浄光寺は上部右に。境内左下に六地蔵の文字が見える。
寺には八景があった。P102
筑波茂陰 黒髪晴雪 前畔落雁 後岳夜鹿
墨田秋月 利根遠帆 暮荘烟雨 神詞老松
諏訪神社の老松のみ残り、他は消滅した。
下の絵の2本の松がそれ。
松と桜の間の縁台に人が座っているのは、諏訪神社の境内。別当の浄光寺は右にあるのだが、画面の外。画面の下の人たちは、地蔵坂を上がってきたばかり。地蔵坂は今でも残っていて、西日暮里駅のホームのすぐ横を下ると右が駅改札口。
真箇令人忘日暮 遥山近水入眸明
此中八勝雖皆好 我愛後邸聞鹿声(大沼枕山『江戸名勝詩』)
この詩景を味わうこともかなわないのである。
境内左に2基の鋳造地蔵がおわす。
右の立姿地蔵は、東都六地蔵の三番目。
通称江戸六地蔵には、二通りあって、造立年度により、元禄年中のを「始めの六地蔵」、宝永年中のを「後の六地蔵」と区別する。
六つの街道入口に坐すいわゆる「江戸六地蔵」は「後の六地蔵」。
「始めの六地蔵」は「東都六地蔵」と呼ばれるが、第二番の専念寺(文京区千駄木)の地蔵尊を除いて、震災、戦災で全て諸元のものは姿を消した。
東都六地蔵二番「専念寺」の地蔵。
ここ浄光寺を初め、一番瑞泰寺、四番心行寺の地蔵は復刻したもの。
東都六地蔵一番「瑞泰寺の鋳造地蔵
なお、五番福聚院、六番正智院の東都地蔵は、消失したままです。
「東都六地蔵と並んで合掌、座姿の金銅仏を安置する。
この尊像を造立した際、東都六地蔵を修理した。今でも土中からまれに小さい地蔵が発見されることがある。これは東都六地蔵をここに安置した際の護摩の灰というものであって、檀家信徒に配ったときのあまりであるという」。
浄光寺から東へ100m、富士見坂に出る。
Wikipediaによれば、都内23区の富士見坂は23箇所もある。
富士山が見えるから富士見坂なのだが、この日は見えなかった。
「ちゃんと見えることもあるんですよ」と出窓に写真を張り付けた家がある。
折角だから、その写真をパチリ。
望遠レンズの威力がすごい。
富士見坂を下って左へ行けば、目的の南泉寺はすぐそこ。
◇座姿六地蔵/南泉寺(荒川区西日暮里3)
墓地に丸彫りの座姿六態地蔵を安置してある。
およそ六地蔵という種類の石仏は、寺の入口や墓地の出入り口などに一列、もしくは左右にならべて立っていて、座姿の六態は希少である。東京都にあっては、麹町六丁目の心法寺、墨田区の多聞寺、青梅市二俣尾の慶徳寺、および世田谷の百地蔵などである。
なお、当寺の境内には蛙塚がある。
蛙の川を剥いで袋物を作り、これを輸出する業者が蛙供養のために作ったのである。
◇寿美吉地蔵/路傍(荒川区西日暮里6)
『武蔵野の地蔵尊』には、こうある。
「田端駅に近く、その東側の旧日暮里3丁目に北面して大きい雨屋が建ち、屋内に巨大な丸彫り、座姿の石地蔵を安置し、その名を寿美吉地蔵と名付ける」。P109
西日暮里駅から、線路の北側を田端駅方向へ。
さして広くもない西日暮里6丁目の小路を行ったり来たり。
何人か老人にも訊いてみるが、誰もそんな地蔵は知らないという返事。
断言はしないが、この40年間で、なくなった可能性が高い。
◇国定忠治地蔵/東源寺(荒川区荒川7)
西日暮里から千代田線で一駅、町屋駅で下車。
駅そばの東源寺を探す。
持参の2004年発行のポケット地図には「東源寺」が載っている。
だが、見つけられない。
交番で訊いてみる。
おまわりさんも首をかしげるばかり。
地図の場所には寺はないとのこと。
もう一度、現場に戻って、同じ住所の家の人に尋ねてみた。
東源寺は、この場所にあったのだという。
門前iにあった国定忠治地蔵がどうなったかは、まったく分からないそうだ。
答えてくれた男性のトラックには、「石材店」の文字。
もしかしたら、東源寺出入りの石屋さんだったのだろうか。
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