「墓場」には二通りの意味がある。
①墓のある場所。
②かつて有益であったものが役に立たなくなり廃棄物として集積される場所。「家電のーー」
高野山一の橋から奥の院への参道一帯は、さしずめ「墓の墓場」である。
高野山奥の院への参道
林立する諸大名家の巨大な五輪塔の多くは、参拝に訪れる者もなく、荒れるに任せて放置されている。
その巨大さは、栄華と権勢の象徴であった。
それだけに、荒廃は「虚無」をことさらに際立たせているようだ。
ここに立つと、先祖の霊を悼むというよりは、とてつもない空しさに押しつぶされそうな気持になる。
奥の院に向かって右の一角に、五輪塔墓標を積み上げた無縁供養塔がある。
奥の院の御堂改築にあたり、地面を掘ったら、中世後期の古い五輪塔墓標がわんさかと出てきた。
信長が安土城築城に際して、古い墓石を基礎工事に埋め込んだことは有名だが、当時は、信長に限らず誰もが古い墓は廃棄物として土中に埋めて平気だった。
近江の「石塔寺」の石仏群も、皆、土中から出土したものである。
高野山の巨大五輪塔の下にも小さな五輪塔が敷き詰められているのは間違いない。
何を言いたいのかというと、後世の人たちから顧みられなくなった墓石は土中に埋めてしかるべきであるのに、ここの五輪塔は巨大すぎて、埋めるに埋められない。
ここは、墓のかたちをした廃棄物が林立する「墓の墓場」なのである。
このモノクロームの墓場に色彩を与えているのは、石仏地蔵にかけられた涎かけ。
地蔵ばかりで観音さんが少ないのは、ここが死後の安穏を願う墓域だからだろう。
みんな小さな石仏であるのは、いずれも背中に背負われて約6里の山道を運ばれてきたからである。
他所の地蔵に比べて、高野山の地蔵はユニークな顔をしているのが多い。
高野山だから儀軌通りかと思うが、そんなことはないのだ。
そこが面白い。
その俗人くさい顔をコケが覆って、異様さが一層強調されていたりする。
大きいから威圧的だが、空虚な巨大五輪塔よりも、その周辺に転がっている石仏墓標に、僕は心を惹かれてしまう。
中でも格段のお気に入りは、下の写真だ。
杉の大木の根もとの洞に安置された3体の石仏。
置かれてから日が浅いのか、しっくりとなじんでいない。
赤と青の涎かけが、しっとりとした天然の見事な仏座の雰囲気を壊している。
僕が惹かれるのは、その手前、うっかりすると見逃してしまいそうな半身の地蔵である。
右半分は杉の木に埋没して、木と一体化している。
樹液が石仏の体内にも流れているようだ。
土中に埋められるはずだった。
それが誰かの手によって、ひょいと杉の木の洞に放り込まれた。
それがいつのことだったのか。
長い年月をかけて、木は石仏をやんわりと包み込み、しっかりと抱きしめた。
唇の左端をあげて、仏は笑っているようだ。
あるいは苦笑しているのか。
「えらいことになってきたな。でも、ま、これも運命か」。
木に抱擁され、木と一体化して、木の中に溶け込んでいった無数の先達たちを仏は知っている。
全身が木に飲み込まれるのは、そんなに遠い先のことではないだろう・
ここで「木に飲み込まれる」という表現は不適切だった。
新しい仏性が木に変身して誕生!というべきか。
杉の生き仏の誕生と言ってもよさそうだ。
その時を自分の目で確認したいというのが、僕のささやかな願望なのである。
場所が変わる。
まず、写真を何点か見てほしい。
高野山の石仏を上回るユニークな石造物ばかり。
いずれも修那羅(しょなら)山の石神仏である。
修那羅山は信州にある。
上田市から青木村へ。
麻積村へ走る国道12号の峠が修那羅峠。
その峠から山道を30分ほど登ったところが山頂。
標高1000mといわれている。
そこに神社がある。
修那羅山安宮神社
安宮神社と言い、神社を取り囲むように奇怪な石造物がそこらじゅうに点在している。
その数700点超。
仏教の儀軌に則った石仏もあるにはあるが、少ない。
石像の多くは、異様な風態だが、おしなべて解放的で明るい。
石碑もある。
文字だから読めれば分かると思うと足元をすくわれる。
催促金神 一粒万倍神
「催促金神」なる神がいる。
貸した金が返ってくるように神に催促しているのか、借金をしているから、相手に催促を遅らせるか、忘れさせるように神に祈るのか、いずれにせよ、身勝手な現世利益神なのである。
修那羅山石神仏の特徴の一つは、死後の世界の安楽を希求する浄土教的なムードが希薄だということ。
死後の世界のことより、生きている今この時を少しでもレベルアップしたい、その切実な思いがどの石造物にも精一杯彫り込まれている。
生活を脅かすものはみな石に彫られた。
「神よ、この者を無力にしてください」なのか、
「神として崇めるので、どうか穏やかに」なのか。
他人が見てそれが何の像であるか分からないことは、問題ではない。
彼(彼女)と神とが通じ合えばいいのだ。
両者の心が通えば目的は成就したことになる。
「変なの」、「頭おかしいんでないか」。
里の人たちのさげすみの目を背中に、自分の神を背負って1000mの山道を登って行く。
信仰心のなせる業である。
宗教のパワーと言ってもいい。
そのパワーの源は、この山に住む修那羅大天武なる修行者にあったと見られている。
修那羅大天武の碑
大天武なる男は越後の産で、9歳の時天狗に従って諸国修行の旅に出たと来歴にある。
60歳を超えて、この地で加持祈祷をしながら、雨乞いを行って人々の信仰を集めた。
「天狗に従って諸国修行」と聞いただけで、マユツバと思いたくなるが、彼の言行が人々に信頼されたことは事実である。
大天武の偉い所は、権威を否定し、認めない点にあった。
当時の人々が仏や神を石に彫るとしたら、観音さんやお地蔵さん、不動明王、庚申塔や道祖神、お稲荷さんの狐や狛犬を参考にするしかなかった。
見たこともないものを作り出すことなど誰もできなかった。
だから、ついついどこかで見たことのある石仏を持ち込んでくることになる。
大天武は言う。
「これがお前の神なのか」。
「もっと違った姿形をしているんではないか」。
「地蔵や観音を捨ててしまえ」。
「お前だけの神を作れ」。
「俺(大天武)にも分からない像容でも、お前と神が通じ合えばいいのだから」
その言やよし、こうして信州の山の一角に破天荒な聖地が出現した。
時は、江戸末期から明治初年。
激動の時代ではあったが、世の保守性は微動だにしなかった。
そうした時代に開花した、ここは解放区だった。
クリエティビティがある。
オリジナリティがある。
唯一であることを誇る心がある。
俺の、俺だけの神がある。
私の、わたしだけの仏がある。
古墳、縄文の復活がある。
日本のビカソがいる。
修那羅山は、野外美術展であり、夢のワンダーランドなのです。
主題に戻ろう。
主題は「木の洞地蔵」だった。
ここ、修那羅山にも「木の洞地蔵」がある。
正確には「木の洞観音」か。
一通り石造物を見終えて、帰ろうとした時だった。
東京の家を出てきたのが朝の4時半だったから、まだ9時に大分前の時間だった。
「早いお着きですね。どこからですか」と声をかけられた。
どうやら宮司夫人のようだった。
雑談をしていると、「あれは見ましたか」と聞かれた。
「あれ」とは、木の洞の石仏。
「是非、見て行かれた方がいいですよ」と勧められ、教えられた場所に戻る。
見覚えのある木が太い根っこを晒して立っている。
白樺の仲間だろうか。
一見、それらしい洞が見えない。
「変だな」と思いながら、ゴツゴツした根っこをよじ登って行くと、あった。
キツツキが開けた穴だろうか。
10㎝くらいの穴がぽっかりと開いて、中に十一面観音が合掌している。
穴には、雨水だろうか、こげ茶色の透明な水が溜まっていて、石仏の下半身は水没している。
雨水ではなく、樹液なのかもしれない。
この石仏に気づく人は、誰もいないだろう。
なぜ、こんなところに石仏を置いたのだろうか。
もともと修那羅の石神仏は祈りの対象として置かれた。
それが今では見物の対象となっている。
どこにも天邪鬼はいる。
「誰にも気づかれず、見られない石像が一つくらいあったっていいだろう」。
彼は格好の隠れ家を見つけた。
十一面観音は、久しぶりに静謐を得たはずであった。
その平安を僕は破ってしまった。
根っこをよじ登り、あまつさえ、写真をとって、みんなに見せている。
こういうのを罰当たりな行為という。
バチが当たらなければいいのだが。
樹の洞があれば石仏を置きたくなる人がいれば、洞の中に仏像を刻む人もいる。
埼玉県幸手市西関宿(にしせきやど)。
北は茨城県、東は千葉県に接する埼玉県のはずれ。
江戸川を挟んで向こうの野田市関宿は、江戸時代、舟運の要としての宿場であった。
関宿の西に位置するから西関宿だが、繁栄のおこぼれにあずかって、当時はこっちも賑わっていた。
その繁栄の一端が川に近い寺社の石仏に見ることができる。
「臨川庵」も例外ではない。
無住で今は見る影もないが、ゴミのように横たわった石仏に佳品がある。
臨川庵(埼玉県幸手市西関宿)
「臨川庵」にはもう一つ誇るべきものがあった。
「銀杏地蔵」。
境内にあるイチョウの木をノミで彫った地蔵のこと。
イチョウの大木の根元に屋根を食いこませた形で小屋が建っている。
小屋の前面には鈴緒が下がり、その奥に格子戸。
格子戸を覗く。
照明がないので薄暗いが、洞がポッカリと空いているのが分かる。
温泉地の秘宝館に入ったような気分だ。
洞の高さは40-50㎝くらいか。
奥行きも10数㎝はありそうだが、目を凝らして見ても中には何も見えない。
かつてはここに生木の地蔵がおわした。
子育て地蔵として有名で、近在から参拝にくる人が絶えなかったと言われている。
それが木の生育とともに生木を彫った地蔵は姿形を変え、再び、木に戻ってしまう。
洞ばかりを見ていたので、気付かなかったが、洞の右側に木彫りの地蔵が立っている。
小屋の柱に取り付けられた説明文によれば、消失してしまった名物を偲んで、集落の人たちがイチョウ材で「銀杏地蔵」を復刻したのだそうだ。
イチョウ材で復刻の努力は多とするが、洞より大きいのは画竜点睛を欠くようだ。
「臨川庵」の「銀杏地蔵」は木の成長とともに消え失せたが、彫った地蔵は残ったが肝心の木が切り倒された事例がある。
八王子市の「宗格院」の山門を入ると左に「宝珠閣」なる堂がある。
宗格院(八王子市千人町) 宝珠閣
堂内の中央には「せき地蔵」が座しているが、その前に一風変わった地蔵がおわす。
松の木に穴をあけ、中に地蔵を彫りこんだ一木地蔵尊。
彫ったのは「宗格院」26世住職。
境内の松の木に自らノミをふるった。
しかし、松の木は事情によって切り倒されることになり、地蔵の部分だけが保存されることとなった。
株の高さ50㎝、像高17㎝。
有輪で蓮華座に立つ尊像は、素人離れした見事な素彫り技術を今にとどめている。
松の木が切り倒されたのは惜しまれるが、そのまま放置しておけば、「銀杏地蔵」と同じ運命をたどったかも知れず、是非の判断は難しい。
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