mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

風景全体が見所という公園(1)身の置き方

2023-04-25 13:41:00 | 日記
 師匠に誘われて「観光地」に日帰りで行ってきた。栃木県足利市の「あしかがフラワーパーク」と茨城県の「国営ひたち海浜公園」。前者は「ふじのはな物語」がウリ。後者はネモフィラが真っ盛り。TVの画面ではよく目にしていたが、行ってみようという気にはなったことがない。師匠は、一度は足を運んで感触をみておくものと思っているのか、ときどき新聞などに載るツアー企画をピックアップして、誘いを掛ける。私は自分から足を運ぶ動機を持たないが、折りあらば何でもみてやろうという前向きの気分はあるから、誘われて断ることをしない。
 朝6時過ぎに家を出て夕方7時頃に帰宅する一日バス・ツアー。日程からお弁当まで全部お任せ。その上、現地では時間を決めて自由散策だから、歩く分には目新しい分だけ面白い。東北道を走るバスからは奥日光の連山が春霞にかすんで見える。でもガイドはこれも見所として紹介に努める。意外だったのは、茨城県の北東部、ひたちなか市の方からみた筑波山。見事に美しい三角錐。いつもは南や西からみているから双耳峰だが、そうか、みる場所でこうも変わるかと思うほどの姿であった。
 あしかがフラワーパーク駅があるのを知った。小山駅から新前橋とを結ぶ両毛線で40分ほどの駅は大勢の乗り降りを想定して回廊が設えられている。だがマイカーで来訪する人が多く、駐車場に入る車列が道路を埋め尽くし、畑や空き地などありとある場所に石灰の白線が引かれて駐車場にしている。駐車は「無料」というので車での来客が多いのだとバスガイドは言う。バスはそれを予測して時間を早め、また予め駐車場所を予約していたこともあってスムーズであった。9時20分ころ入場。
 いや、実に丁寧につくられている。両毛線に沿う北側から南側の小高い山との間に、正面ゲートを先端にした紡錘形の広い敷地にびっしりと花木が植え込まれ、それを見て回る散策道が張り巡らされている。人が多い。「只今TV撮影中。お静かにお願いします」という紙を持ったNHKのスタッフがいて、カメラが回っている。至る所の藤が紫色の花を垂れ下げ、地面を散り落ちた花びらで染めて満開を過ぎていたり、山盛り真っ白のフジの花が3メートルほどの高さから地面まで埋め尽くすように咲き乱れる。その前で背中をはだけたモデルが向きを変えて微笑み、カメラを構えた男性が右や左へと動きながらシャッターを切る。素人のスマホは自撮り棒を取り付けて一人であるいは何人かで撮影に余念がない。色とりどりのシャクナゲもボタンも栽培して名がつけられたツツジも、大盛盆栽の寄せ集めのように敷地を埋める。
 風景全体がフラワー公園だ。その中心がフジの花。5種類ある。一つの株が30メートル四方の藤棚に枝を広げ、高さ4メートルほどからたわわに2メートル近い花の房が無数に垂れ下がり、透き通るような薄紫の見事なおおいをつくる。ほのかな香りが漂っている。大長藤と名がついている。何本かの幹が寄り集まって径3メートルほどの一本の幹をなす。
 あるいはやはり藤棚から垂れ下がる大藤の幹は、痩せ枯れて中心部はボロボロとなり、それでも半径20メートルほどに枝を広げて、もう一本の同じように広がる大藤と藤棚の上で繋がって花をつけ、房を垂れ下げる。ここまで育てるには余程の手入れとご苦労があると思わせる。樹齢が80年から90年というから年数だけは私と同じようだが、いやこれは、かなわない。葉が外のフジとは違うキフジの房はいま咲き始めたばかりの風情。いずれこれがトンネルをつくるようになるには十数年を要するのかもしれない。楚々として控え目な感じがした。
 三脚の上に15センチくらいのフィギュアを載せ、その手先を穂歩に当ててポーズを取らせている男性がいた。三十歳くらいか。背景は向こう何十㍍かの藤棚に垂れ下がる見事な薄紫の大藤。人形の指には青いマニキュアが塗られている。着ている和服の柄にもフジの花がデザインされていてシック.だが目は大きな洋顔の藤娘。被り物はない。少し傾げた首が何かもの言いたげなのに言葉が見つからない気配を湛えている。なるほどこういう写真を撮ってインスタグラムとやらに載せているのか。無理難題を言って憚らないカノジョよりもこういうフィギュアの方がいいって言う男たちが増えているのだろうか。ちょっと分かる気がした。
 2時間くらいでは回りきれない。ましてハンカチの木や何じゃもんじゃの花も咲いていて、野草にまで目を向けると1日、2日でも足りないくらいと思われた。むしろ風景全体を味わうようなフラワーパークであった。そう言えば、照明のセットがあちらこちらに備えられている。若ければ夕方以降に入園というのも面白いかもしれないが、年寄りにはむつかしい。(つづく)


「ささらほうさら」の源流(3)個々が起ち上がる

2023-04-23 16:07:29 | 日記
 源流に集った人たちは、教育関係者ばかりではなかった。小中高の教師をはじめ、実習助手、事務職もいた。さらには、建築現場の監督、後には不動産屋も塾の教師も建設作業員や中学校の用務員も加わることになった。そんな多種多様な人たちが、思想的な結集軸も持たず、どうして「機関紙発行」という作業で、半世紀以上に及ぶ長い年月グルーピングをつづけることができたのか。グルーピングを「遊び」とする作法が貫徹したからであったと私は考えている。
 突出した癖の強い思想家が一人いた。彼を思想家と私が呼ぶのは、彼の人に対する方法的な問いかけにあった。なぜそうするのか、なぜそう言うのかと、次元を変えて問い詰めていく。何かの党派的な荒波にもまれて鍛えられたかのように感じさせる喧嘩殺法。もしそれがドグマを提示して問うのであったら、たぶん鋭さが半減したであろう。だが、何が正解であるかを彼自身も知らない。問い詰められた人自身が自ら応えを引き出すしかない場の設定。1968年の世界的な思想軸の混沌時代を経て、私たちの存在理由を改めて問い直す時機でもあった。問うこと自体がつねに根源へ向かう刃を持っていた。もちろん回答もまた、次元を一つひとつ明らかにして誰が誰にどんな状況の中で、その言葉を発しているかを自問自答するように要求する厳しさを含んだ。もちろんそういう鋭い問いと受けとった者もいるし、何処か次元の違う言説としてするりと身を躱してきた者もいたと私はみている。半世紀の間にグルーピングを離れていったものも何人もいる。
 この思想家の癖の強さというのは、レトリックを駆使し、向き合う相手の言説の弱さを察知してキリキリと切り込む。考える隙を与えない深さを湛えていた。外面的には負けず嫌いで面目に拘る。喧嘩に強い。もし彼の言説が前面に押し出されていたら、このグルーピングは空中分解したであろう。救いであったのは、彼自身が問うている正解を知らない(と感じている)という問い方の感触にあった。
 その感触は、問いかけの裏側に彼自身の生育歴中に突き当たったさまざまなデキゴトと人に対する不信と、意に反して(相手をぶちのめすように)振る舞ってしまうこだわりにあると私は思っていた。彼固有の身に備えてきた執心が彼をそのように人に対して向かわせている。それは私にはワカラナイこだわりであり、私の田舎と異なる都会地に育ったが故に、身の裡に胚胎した(世間に対する)反逆心のように思えたのであった。
 前回も述べたように門前の小僧・近代人の私にとっては、プチブル・インテリゲンチャという「身につけてきた殻を脱がねばならな」かった。それが奇しくも集まった人たちの、社会的職業階層や職能、学歴、地方と東京という、経てきた経験や文化状況の違いと、それらが背負っている身体感覚の差異に現れ、その確執がワタシの内面に引き起こした心底に届くような壮大な渦巻であった。
 じつはそこに、「遊び」が作用した。「遊び」はかかわる人の職能や学歴、来歴を無化する。癖の強い思想家は相応の権威的ヒエラルヒーを身の習いとしても智慧としても身に備えていたから、誰が何処から何を発言するかにとても敏感であった。やはりセンスの良い実習助手が文化状況について述べたことを私は面白いと思い、その思想家も良く読みとっていると評価はしていたが、その実習助手という立ち位置をして、岡目八目というあしらいを崩さなかった。私にとっては意外であった。ああ、この人の権威はこういうことにも作用しているのだと、私はワタシとの違いに感嘆したのであった。
 初代編集長が原稿本数とガリ切り枚数をゲーム化したことは、そうした思想的な評価をも無化する目を育んだ。そしてこれは、身に刻まれた習いこそがヒトの核心であり、そこに足場をつけてはじめて言葉が通い始めると感じさせる、別件逮捕のような作用力を持っていた。
 同時に、身を以て言葉にかかわるという厳しさを目の当たりにして、面々はそれぞれに自分の内心との自問自答を続けた。と同時に、作業変格活用に於いては、自分の立ち位置を身計らって振る舞うことをもっぱらにした。1980年頃だったか、埼玉教育塾を起ち上げたとき、その公開講座に参加した人の中には、もっぱら裏方として働くメンバーを気遣って、何かとんでもない(時代錯誤的な)ヒエラルヒーがこのグルーピングにあるんじゃないかと問うた大学教師もいたくらいだ。
 こうも言えようか。人はさまざまであり多様ですと言っていたら、たぶん自身を位置づけることはできなかったであろう。ささらほうさらの源流という限定されたグルーピングの中で自らの立ち位置を自らマッピングする。それができたのは、「遊び」という仕掛けによって、全人格的な感触がそのままさらけ出されて表出し、受け容れられたからではなかったか。それによって、却って、職能や学歴や経てきた文化的径庭の違いを違いとして承知して、まさしく「遊び」の領域に於いて同等に位置するという立場を得た、と。個々が起ち上がったのである。
 私は初代編集長のことを「遊びをせんとや生まれけむ」人と評したことがある。まさにその存在自体が「無近代」を自称する如く、近代的生活にどっぷりと浸っている小市民(プチ・ブル)であるワタシに批評的であり、私の日常に突き刺さる振る舞いに満ちている。いま少し、その刺激的な部分に分け入ってみよう。(つづく)


「ささらほうさら」の源流(2)遊びという感性

2023-04-22 09:50:45 | 日記
 ささらほうさらは、実によく遊んだ。むろん遊ぶために集まったのではなかったから、「機関紙」の発行作業をメインに据え「作業変格活用」と称して「遊び」に変えたと前回述べた。そのときどきの「論題」に上がったのは、教育問題であり、学校現場の教師と生徒であり、教育行政であり、それらは政治経済情勢や文化状況と地続きであったから、1970年の頃の世相を反映して、ほぼすべての世界の問題が意識の上では主題となった。それを初代編集長は「学事」と名付けた。砂浜での三角ベースボールもソフトボールも「運事」となり、麻雀その他のゲームは「遊事」と呼ばれ、宴会・食事などと並んで集まりに欠かせないイベントとなった。
 いわば「ささらほうさら」の源流となる集まりがすべて「遊び」として受け止める気風が生まれていた。「機関紙」の発行というといかにもいかめしい集団のように思えよう。だがそこでは実務手配的な編集方針が提示されるだけ。せいぜい百号記念などの「特集タイトル」振るが、何を書くかは執筆者の勝手というちゃらんぽらん。殊に初代編集長のエクリチュールの「遊び」は際立っていた。初期の一ページ一文一千字の、最末尾に句点が一つあるだけ、読点なしでビッシリと書き連ねられたり、見開き2ページ分すべてを四字熟語で埋め尽くし、評論家の中森明菜氏をして「エクリチュールの剰余」と絶賛せしめるという「遊び」の境地を体現して見せた。これは、文字を書くという人の行為そのものを「遊び」として突き放し、大真面目に何かを論じることを根源に於いて揶揄うアナーキーな所業でもあった。つまりそれによって、ありきたりのコトをありきたりに書き記すのが如何に馬鹿馬鹿しいことか、世の中の論題としていることが狭い世界のこざかしい料簡に満ちあふれて如何に滑稽であるかを反省せしめるほどの皮肉に満ち満ちていた。
 それはつまり、ものを書いていること、考えている主体であるワタシは一体何者かを恒に常に問い続ける呼びかけにもなった。そういう意味で、作業変格活用に集う人たちの全人格的な交わりになる作風を形づくっていくことになったのである。
 遊びの精神は、しかし、それにとどまらない。いまや畢生の作品『〈戯作〉郁之亮江戸遊学始末録』の作家・鈴木正興となった初代編集長は、その「後始末記」において、こう述べている。
《……左様な文字密集軍団を速やかに行進させる上で心したのが一種自律性を帯びた文体、身体性を有した文体と言い換えてもいいかもしれない。その律動乃至諧調が調子こいたテンポ感で以て密集文字軍団を丸ごと前進せしめたと思うのだが、その際助っ人として任務を果たしたのが所謂だじゃれ、うがち、もじり、なぞらえ等の言葉遊びでもうこれはふんだんに挿し入れられている》
 つまり「遊び」は、その場に魂を釘付けにして味わう一発勝負。余計な解釈を寄せ付けないで笑い、愉しみ、悲しみ、鬱勃たる気分を味わい、ホッと安堵する設えと先行きどうなるのかという開かれた心地にさせる。それだけでいいのだと、この作家は述べる。これは、それ自体が近代批判である。近代は、集積された過去を未来に向けて組み立て直す人の営みを現在のワタシの視点を主体として描こうとする思考法である。遠近法的視野が、人の数だけ入り乱れ、ドイツ観念論哲学はそれを精神世界の普遍理性として描き出そうとした。唯物論哲学もまた理性の罠から自由ではなく、唯一絶対神に代わる権威を科学と人に求めて、特殊・個別性を捨象して人間を単純化してしまった。その結果「神は微細に宿る」を普遍化しようと文化的には、イマ、ココのコトゴトを大切に感じ取り大事にしようと、取って付けたような人生訓に変換してしまっている。八百万の神という自然信仰の土壌で育ったわたしたちは、近代先進欧米の圧倒的な力に押されて「普遍」が統合されている唯一絶対神を知らないままに、人生訓を解釈して「普遍」に辿り着こうともがいている。私のワタシも、その一人であった。
 それを鈴木正興の「遊び」は笑い飛ばす。彼は音楽を聴くように、ものを書き落とす。彼の「戯作」も「近代小説」ではない、読んで面白ければいい、「立ち止まって考えては作者の本意に反する」とまで懇願して、「無近代小説」と自称する。
 だが、「遊び人」でない門前の小僧近代人(プチ・ブルジョワ)であるワタシは、これをアナーキーと受け止めることによって欧米近代との端境を明確にし、八百万の神・自然信仰への橋渡しを試みようとしている。普遍はワタシの遠近法的消失点にある。そこまでは八百万の神の如く、ありとあるコトがワタシの普遍である。ありとあるコトが普遍というのは、つまり「混沌」である。ありとあることを混沌/アナーキーと捉えることによって、絶対矛盾的自己同一という西田幾多郎の足場としようとしたことを、門前の小僧の身の裡に築けるかなと思っているのである。
 遊びという感性が、欧米的近代の鋳型に嵌められて育ってきたワタシの脱出口に見えている。そのために私は、まだまだ「立ち止まって考える」ことによって着てきた殻を脱がねばならないのである。(つづく)


「ささらほうさら」の源流(1)身体感

2023-04-21 13:34:10 | 日記
 足掛け3年、精確には2年と10ヶ月ぶりに「ささらほうさら」の集まりがあった。半世紀以上、毎月親しく付き合ってきた、いまは年寄りの老人会。80歳団子を筆頭に70歳以上が集う。いうまでもなく、サザエさんやののちゃんと違って、昔から老人だったわけではない。集まりの名も渾名も、向き合う場面によって代わっていた。面々も世の平均年齢のご多分に漏れず彼岸に渡ったものも何人かいて、限界集落ならぬ限界集団の態を為している。
 17年前までは月に2回、それ以降は月に1回のペースで集まっておしゃべりの会をもってきた。集まる人の数も二桁を維持し、時には三桁になることもあった。どうしてこんなに長続きしたのだろうか。
 何か使命感があったわけではない。雲の中の水分が空気中の塵などを核にして雨粒になり雨となって降るように、核になる塵があった。それを半月間で出していた「機関紙」があったからと、初めのうちは考えてきたが、ではどうして機関紙の発行作業が続いたのかと問いを深めると応えは雲散霧消してしまう。
 機関紙の主たる問題領域は「教育」であったが、実際の記事を眺めてみると教育領野に限らない。本に関するコメントあり、メディアの報道に対する批評があり、仕事現場の日常にみられる年齢や性や職能にまつわる問題も、事象に関するとらえ方、その感覚や思索など、言葉を軸にして遣り取りすることのできることが盛り込まれていた。しかしそれが記事になったからといって批評するわけでもなく、ああ、彼奴はこういう風に考えてんだ、此奴はこんなことを思ってるんだと、人それぞれの身に抱えている感覚や思索の感触を、これまた受けとる人それぞれに感じ取っていただけであった。何しろ初代の編集長が、「出すことに意義がある。内容は問わない」と言明してスタートしたから、その気風が染み通っていた。
 だが、当初の3年間くらい無料で3千部ほど配っていたガリ刷り十数ページの隔週刊誌は、受けとった教育関係の現場では「メイワクだ」と言われるほど刺激的であった。簡略にいうと、啓蒙的・平等的・民主的風潮が覆っていた教育現場に、はたしてそうなのかと疑問符を突きつけていたのであった。教師と生徒の位置関係を巡って教師は管理的であることを放棄できるのか。むしろ権力的に振る舞っているし、そうしなければ学校lは維持できないのではないか。「教える-教わる」という関係には、権力関係を抜きにできない「大人-子ども」関係もあろうし、「指導-被指導」関係が予めセットされている。それを抜きにしては教師-生徒という関係は成り立たないと切り込んでいたからだ。「メイワク」だから無料にもかかわらずカンパが寄せられていた。だが、発足当初に、支援を受けた義理を果たした後は「有料」にして、無料の押しつけ配布を止めた。発行部数は3分の1になったが、そのころから書く側も主たる論題から目を離すことができなくなり、集まってのおしゃべりにもテーマが現れるようになった。ほんの中心軸の数名がそのような言葉を交わすだけで、集まった人たちはそれを小耳に挟む程度。遣り取りに加わったわけではないが、その気風が身体感に伝わっていったといおうか。誰が意図したわけではないが、主たる論題を直接議題にして遣り取りしたことは殆どない。そもそれを直に論題にしていたら、十年も持たない内に消えていたろう。
 では、なにが長続きした主因か。
 これは初代編集長の仕掛けであるが、機関紙の発行に「遊び」を取り入れた。異議有馬記念という競馬模様のファクトを、原稿執筆本数、ガリ切り担当頁数などに絞って統計的に取り込み、面々を騎手に見立てて競わせたのであった。実はこれを動機にして原稿執筆数が増えたという事実は、まったく何処にも見られなかったが、原稿本数とガリきりを前面に押し出すことによって、書かれている内容は二の次という身体感を培ったのだと、いまになって私は思っている。何が問題になっているかは、周辺にいれば分かる。「分かる」という次元がいろいろとあるように、言葉が分かるだけでは、躰がついていかない。躰が分かるには、自らの在り様を批判的に見る目が備わらなければならない。それには気風というか作風というか、その場にいることによって身に染み通るように伝わり受け継がれなければならない。その振る舞い方の中ですでに、誰もが同じように振る舞うべきだという平等主義的なセンスは取り払われていた。啓蒙的なセンスも誰が誰に向き合っているかによって千差万別であると、微細な関係の作法を通じて、否定的に広まっていった。それともに、しかし、啓蒙的な要素を欠くことは出来ず、そうするときの(人それぞれの互いの)立ち位置の違いを見極める必要があると、周辺の人たちの立ち居振る舞いが伝わっていった。これは、他人を鏡とするとともに、それを反照して自らを対象化してみることを必然化していった。
 誰かが意識してそうするというものではなかった。印刷したものを折り畳む、帳合いする、封筒に入れる、のり付けする。その間にお茶を出す、夕餉の支度をする、片付けをするなどなどを、誰かが指示して分担を決めてするというよりは、気づいてものが手近なものに取り付いて手早く済ませるという身のこなしが、伝染していったと私は思っている。それを初代編集長は「作業変格活用」と名付けて意識の目に止まるように図った。むろん作業ばかりではなかった。歌を歌い、ゲームをし、野球をやり、麻雀をやるなどの「遊び」を通じて、いわば全人格的な関わりの場面が展開したことによって、頭出考えるよりもまず躰に聞けという気風が生まれていた。これがあったから、月2回の集まり、日帰りから泊まり、年2回から3回の合宿というハードな関わりが頭でっかちにならず、身のこなしを通じて全人格的な相互浸透が常態化していたのであった。
 この「遊び」の仕掛け人・初代編集長が講師を務めた「ささらほうさら」の集まりが昨日あった。その講師の話を聞きながら私の身の裡に湧いてきた思いが、この「ささらほうさら」の源へと導かれていったのであった(つづく)


マンション価格が平均1億4千万円!

2023-04-20 09:22:10 | 日記
 東京の新築マンションの価格が1室平均1億4千万円と報道している。平均を押し上げているのは「新築」だけではない。オリンピックの選手村の(もはや中古物件といって良いような)販売も、不動産業者が買いあさりすでに転売しているものも出たという。6千万円余で手にしたものが9千万円余で売れる。こういうものが「平均」を押し上げている。
 何でこんなに高くなるのか。誰がこんなお金を持っているのか。そういう問いは、戦中生まれ戦後育ち・末期高齢者世代の金銭感覚。金融機関がお金を貸し、値上がりをも込んで転売することを目論めば、高いかどうかは「金利」の問題に見える。
 なにしろ金利は安い。政府の財布・日銀は金利をマイナスにまで持っていった。政府も景気刺激を意図して国債を発行し、日銀がその半数ほどを購入する。つまり市中にジャブジャブと紙幣を流してそれを「投資に」と誘いを掛ける。だが実体経済の中心である製造業は労働賃金の安さを目指して海外へ流れていく。日銀紙幣は不動産か株式への投資、あるいは外貨に換えて海外へ向かうしかない。米欧の景気と通貨の変動に不安を抱く欧米の投資家は円を逃避通貨と考えているのか、円を買って日本でやはり株式と不動産に投資する。株価が実体経済を反映していないといわれて久しい。東京の不動産バブルも、三十数年前のバブルの崩壊を再現するかのように、引き起こされている。短期的な視野のグローバル経済の成長論者は、実体経済がどうなっていようとも株価が上がっている間はほくほくとして資産の増加を喜んでいる。
 ところがこれが、日本だけの話ではない。欧米でもこうした金融バブルの到来が始まっている。シリコンバレーバンクやクレディスイス銀行の倒産がその始まりの予兆のように聞こえる。そこへ持ってきてコロナウイルス禍だ。政府はワクチンを買いあさる。医薬品業界は湯水の如く流れ込む世界大の資金集中に笑いが止まらない。日本も何百兆円を注ぎ込んだ。アメリカは景気刺激を含めて4千兆円規模の市場へのドル供給をしてしまった。それがまた、4年ごとの大統領選まで持ち越すことを時間的目安にするから、とどめを知らない。FRBが金利引き上げをしても一向に気にせずにアメリカの株価は上昇気分を崩さない。
 そこへまた、ロシアのウクライナ侵攻が始まった。医薬品業界ばかりか軍産複合体も勢いを取り戻した。アメリカの石油などエネルギー産業界も、ロシアを封じ込め中東と手を組んで行こうとした。だが、細く長くでもいいから石油資源を上手に用いて石油以外の産業基盤へ移行しようとしていたサウジアラビアは、ロシア締め出しによって高騰する石油価格を好機とみて、ウクライナ戦争=ロシアへの経済制裁状態の継続を歓迎した。さらにアメリカの凋落を見越して、サウジアラビアはオイルダラーを中国元に切り替えて行こうとしている。当然中国もそれを歓迎してスイスの金融機関を舞台にそれをすすめる。それにお灸を据えたのがクレディスイスの破綻だったともっぱらの噂である。中東の中央銀行がバックボーンであるクレディスイス銀行が半値で買い取られたということは、オイルマネーの価値が半減したことを意味する。中東の資金がドルを見放して中国元にリンクされるのも潰す。それによって、中東のオイルマネーの存在感を一旦白紙に戻して目を覚まさせてやろうとするアメリカの陰謀だという論調がまことしやかに流れている。事実はそうなっているから、その情報が後付けの物語なのか、そうシナリオを書いて運ぶ手立てがアメリカにあるのかと、リテラシーのない私などはなるほどそうだったかと、ついつい腑に落としそうになる。
 不動産売買価格の高騰だけではない。IRの許認可によって世界の資金を集めようという大阪の発想は、まさしく有り余って浮遊する世界中の資金の落とし場所をつくろうという狙い。岸田政権が防衛予算の極大化を口にしはじめたことも、アメリカの軍産複合体の再興と無関係ではない。また日本の武器輸出を策定し、軍事研究を進めて独自の軍需産業を成長させようとするのも、その先鞭として有無をいさわず日本学術会議を席捲しようとするのも、防衛のためというイデオロギーに引きずられてではない。それよりも軍需産業を引き鉄として成長経済を何としてでも延命しようと「すがる懸命の藁」なのである。バブルの夢よ再びというか、すでにバブルに向かっている泡(あぶく)のような経済政策は、庶民の実態生活とはかけ離れ、中味はスカスカになってきている。
 GDPの成長と庶民の暮らしがかけ離れていて、どのような経済政策がいいのか悪いのか、もうワカラナイくらい次元を異にする話になっている。それを紐付けて話すとすれば、わたしたちの暮らしの実体が何であるのか。その実態はどう展開しているのか。そこから話し始めなければならない。経世済民は、随分遠くなってしまった。