mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「ささらほうさら」の源流(2)遊びという感性

2023-04-22 09:50:45 | 日記
 ささらほうさらは、実によく遊んだ。むろん遊ぶために集まったのではなかったから、「機関紙」の発行作業をメインに据え「作業変格活用」と称して「遊び」に変えたと前回述べた。そのときどきの「論題」に上がったのは、教育問題であり、学校現場の教師と生徒であり、教育行政であり、それらは政治経済情勢や文化状況と地続きであったから、1970年の頃の世相を反映して、ほぼすべての世界の問題が意識の上では主題となった。それを初代編集長は「学事」と名付けた。砂浜での三角ベースボールもソフトボールも「運事」となり、麻雀その他のゲームは「遊事」と呼ばれ、宴会・食事などと並んで集まりに欠かせないイベントとなった。
 いわば「ささらほうさら」の源流となる集まりがすべて「遊び」として受け止める気風が生まれていた。「機関紙」の発行というといかにもいかめしい集団のように思えよう。だがそこでは実務手配的な編集方針が提示されるだけ。せいぜい百号記念などの「特集タイトル」振るが、何を書くかは執筆者の勝手というちゃらんぽらん。殊に初代編集長のエクリチュールの「遊び」は際立っていた。初期の一ページ一文一千字の、最末尾に句点が一つあるだけ、読点なしでビッシリと書き連ねられたり、見開き2ページ分すべてを四字熟語で埋め尽くし、評論家の中森明菜氏をして「エクリチュールの剰余」と絶賛せしめるという「遊び」の境地を体現して見せた。これは、文字を書くという人の行為そのものを「遊び」として突き放し、大真面目に何かを論じることを根源に於いて揶揄うアナーキーな所業でもあった。つまりそれによって、ありきたりのコトをありきたりに書き記すのが如何に馬鹿馬鹿しいことか、世の中の論題としていることが狭い世界のこざかしい料簡に満ちあふれて如何に滑稽であるかを反省せしめるほどの皮肉に満ち満ちていた。
 それはつまり、ものを書いていること、考えている主体であるワタシは一体何者かを恒に常に問い続ける呼びかけにもなった。そういう意味で、作業変格活用に集う人たちの全人格的な交わりになる作風を形づくっていくことになったのである。
 遊びの精神は、しかし、それにとどまらない。いまや畢生の作品『〈戯作〉郁之亮江戸遊学始末録』の作家・鈴木正興となった初代編集長は、その「後始末記」において、こう述べている。
《……左様な文字密集軍団を速やかに行進させる上で心したのが一種自律性を帯びた文体、身体性を有した文体と言い換えてもいいかもしれない。その律動乃至諧調が調子こいたテンポ感で以て密集文字軍団を丸ごと前進せしめたと思うのだが、その際助っ人として任務を果たしたのが所謂だじゃれ、うがち、もじり、なぞらえ等の言葉遊びでもうこれはふんだんに挿し入れられている》
 つまり「遊び」は、その場に魂を釘付けにして味わう一発勝負。余計な解釈を寄せ付けないで笑い、愉しみ、悲しみ、鬱勃たる気分を味わい、ホッと安堵する設えと先行きどうなるのかという開かれた心地にさせる。それだけでいいのだと、この作家は述べる。これは、それ自体が近代批判である。近代は、集積された過去を未来に向けて組み立て直す人の営みを現在のワタシの視点を主体として描こうとする思考法である。遠近法的視野が、人の数だけ入り乱れ、ドイツ観念論哲学はそれを精神世界の普遍理性として描き出そうとした。唯物論哲学もまた理性の罠から自由ではなく、唯一絶対神に代わる権威を科学と人に求めて、特殊・個別性を捨象して人間を単純化してしまった。その結果「神は微細に宿る」を普遍化しようと文化的には、イマ、ココのコトゴトを大切に感じ取り大事にしようと、取って付けたような人生訓に変換してしまっている。八百万の神という自然信仰の土壌で育ったわたしたちは、近代先進欧米の圧倒的な力に押されて「普遍」が統合されている唯一絶対神を知らないままに、人生訓を解釈して「普遍」に辿り着こうともがいている。私のワタシも、その一人であった。
 それを鈴木正興の「遊び」は笑い飛ばす。彼は音楽を聴くように、ものを書き落とす。彼の「戯作」も「近代小説」ではない、読んで面白ければいい、「立ち止まって考えては作者の本意に反する」とまで懇願して、「無近代小説」と自称する。
 だが、「遊び人」でない門前の小僧近代人(プチ・ブルジョワ)であるワタシは、これをアナーキーと受け止めることによって欧米近代との端境を明確にし、八百万の神・自然信仰への橋渡しを試みようとしている。普遍はワタシの遠近法的消失点にある。そこまでは八百万の神の如く、ありとあるコトがワタシの普遍である。ありとあるコトが普遍というのは、つまり「混沌」である。ありとあることを混沌/アナーキーと捉えることによって、絶対矛盾的自己同一という西田幾多郎の足場としようとしたことを、門前の小僧の身の裡に築けるかなと思っているのである。
 遊びという感性が、欧米的近代の鋳型に嵌められて育ってきたワタシの脱出口に見えている。そのために私は、まだまだ「立ち止まって考える」ことによって着てきた殻を脱がねばならないのである。(つづく)