mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

ふらっと遍路の旅(5)お接待

2023-04-01 08:49:47 | 日記
 お遍路といえば、お接待。帰ってからも、「どんなお接待うけた?」と何人かから訊ねられた。もちろんあれこれをあげることはできるが、振り返って考えてみると、「歩き遍路」という放浪者の姿が、しっかりと四国の人々の暮らしに組み込まれていて、違和感なく受け容れられているのが、なによりの「お接待」に思えた。
 受け容れてくれる宿がある。それが先ず有難いと思いった。風呂を立て、洗濯ができ、布団に寝ることができる。疲れを取り清潔に身を保つ。もう野宿する力はない。それに加えて食事まで用意して下さる、片付けもしなくていい宿というのは、「お遍路」というより「旅」であった。二箇所では、お弁当まで用意してくれた。
 民宿からペンションや観光ホテルまで、また素泊まりからBB、即ち朝食とベッド付きから二食付きまである。素泊まりは、夕食と朝食を自分で持っていかねばならないが、ご馳走ばかりよりは、レトルトのお粥とか、ヨーグルト/牛乳とパンという質素な食事が胃腸を休める為にも良かったと思う。
 また、暖かいお茶のサービスが、歩いて乾いた身体に何よりの活性剤になった。歩いているときにはアクエリアスとかポカリスウェットとか水を摂るようにした。でもスポーツ飲料も甘くて喉に引っかかるようになり、水も力が抜けるようで美味しく感じなくなってくる。その時の喉越しの温かいお茶は、ほうじ茶や麦茶の方が緑茶よりもじわじわと細胞の隅々に行き渡って、疲れから恢復していく感触を味わうことになった。
 お昼が取れないことが多く、歩いている途中で頂戴した栗饅頭やどら焼きを食べたり、飴をなめてカロリー補給して済ますことが多くなった。朝夕をしっかり摂っていればお昼はその程度で済ませても何でもないと感じていた。一度だけ、歩き始めた所の「道の駅」でお弁当を買ったら、支払い担当の方が「浅漬け」のパック(200円)を同封してくれていたのが、後でわかった。お遍路傘を被っていたからであろう。ああ、こういう気遣いがさらりと為されるんだと食べながら感嘆したことを思い出す。
 お接待カフェがあるのも分かった。足摺岬から竜串の方へ海沿いに歩いて松尾の古い遍路道へ踏み込んだ五日目、声をかけられ振り返ると道沿いの家から顔を出した古希世代の方が「コーヒーでも飲んでいかんかい」という。まだ9時頃だったと思う。扉が開けられ、かつては食堂でも営んでいたのか、土間にテーブルと椅子が置かれ、ご近所の方も座っている。コーヒーをご馳走になり、どこから来たか、なぜお遍路に出たかあれこれ訊ねられ応えていると、また一人若いお遍路が入ってきた。先程から私の先になり後になり、歩いていた方だ。このカフェの方とは顔見知りらしく、「あんた何回目かな」と声をかけている。8回目だそうだ。へえ、こんな若い方が8回目となると病膏肓にいるってところだな、何か深いわけがあるんだろうなと思う。被り物をとると彼は、頭を丸めている。何だお坊さんか。「あんたまた今度も剃ってきてるんか。感心やな」とカフェの亭主は口にする。お坊さんではないらしい。重い荷を背負って野宿をして歩いている。コーヒーをご馳走になり、じゃあこれも持っていき、足しになるやろと、お菓子のパックをあげている。私にもどうぞといったが、荷物になるからと丁重に断った。このとき私のルートは高い峠を越える、難儀やでといろんな「遍路情報」をくれた。野宿の彼は、峠を越えない東側へ戻る道を取るといっていた。なるほど地図を見ると、海に突き出した半島がくびれていて距離的にも短くなるとわかる。
 今治の古い素泊まりホテルのご亭主も、手書きの、今治市内のお遍路概念地図をつくって、道を教えてくれた。これは新しい道が作られ入り組んでしまった道筋を朴訥にまっすぐ行くと次の札所に行けるという極意を秘めていて、面白かった。こういうお接待もあるのだと、後になって気づいた。
 呼び止められてお接待を受けることは何度かあった。軽トラが止まり、水のペットボトルを貰ったこともある。ダンプを止め、缶コーヒーを手渡し、気をつけてねと言葉を掛けてくれた運転手もいた。13日目に久万高原の山中を歩いていたときには25トントレーラーを路肩に止めアラフォーの運転手が温かい缶コーヒーを手渡し、暫くおしゃべりをしたこともあった。コロナ禍やロシアのウクライナ侵攻があって木材の国際的流通が妨げられ、国内の木材需要が急増し、バイヤーはウハウハだと笑っている。大型のトレーラーの数が足りず、彼は仕事に追われているとか、この25トンの木材チップは製紙工場の原料だとか、原料の買い入れは水分を取った実重量、10トンになってしまう。水を運んでいるようなものだと、自嘲的に笑う。四国山脈の山奥にもこうして世界情勢がビンビン響いているのだ。
 宇和島の車道を歩いていたお昼を少し過ぎた時間、うどん屋を見つけた。入ると一人女性が食事をしている。その人の向こうの席に背を向けて座りきつねうどんを注文した。5時間ほど歩き続けていたから私もすっかり草臥れている。うどん屋の女将がどちらからと話しかけ、背中の女性も「わたしも仕事に区切りがついて回りはじめたんよ」と話しかけ、「はあそうですか」と力の無い返事を交わしたが、背中の方が「お接待させていただきます」といい、女将があの方が支払ってくれましたと言うのを聞いて、えっ、そういうのってあるのかと、初めて自分の迂闊に気づいた。女将に聞くとその女の方は最近退職してお遍路を(区切りながら)はじめたらしい。如何に世間話が苦手とは言え、背中の方へ向かって「ありがとうございます」という言葉だけを返して済ませたのは、いかにも粗忽。どうして回っているのかと聞くべきじゃなかったのかとワタシの粗末さに、あらためて気づかされた。
 松山市内の52番札所・太山寺の傍で車を止めた60歳くらいの女性から、お接待を受けた。300円と飴三つ。53番札所の本堂天井にある龍の一木作りを見ていけという。本堂の正面にそれを写真に撮った「案内」は目にしたが、覗き込んでも暗いところに不自由するようになった私の目には、見つからなかった。
 松山市の北端、北条の町に近い宿の手前5キロくらいで、床屋に入り髪を切り髭を剃ってもらった。6時間ほど歩き続けすっかり疲れていたのであろう、散髪をしている間の1時間ほどウトウトと休み、気力を恢復したこともあった。髭をあたり肩をもみほぐして散髪が終わった後、缶コーヒーでもとお接待を受け、ソファに座らせて貰って飲ませて貰った。その時の柔らかな応対も「お接待だったなあ」といま思い出す。
 歩いているときにポンカンを貰ったり、文旦やデコポンをいくら食べてもいいよと出してくれた宿もあった。高知も愛媛も、柑橘類の栽培は盛ん。ことに商品として出すものを仕分けした後の大量の規格外品は、大きすぎたり小さすぎたりするだけ。味に問題はないのに捨てられるのかもしれない。歩いている途中で「いくつでも持っていって」と言われても、荷になるから三つが精一杯だったが、美味しかった。
 道に迷っているのに気づいて教えて貰ったことも二度あった。というか、基本的に歩き遍路は(どこのルートを取っているか勝手だから)放っておかれるのだが、明らかにうろうろしているとわかるのであろう、次の札所の寺を口にして「こっちだよ」と指さしてくれることもあった。一度は、「お遍路道→」が、古いトンネルを抜ける最短距離を取っていないと思い、車道沿いに歩いていたのだが、飲み物を買おうと入った雑貨屋の主人が「そのお遍路道なら山越えで7㌔だが、こちらは山裾を回り込むから14㌔になるね、ははは」と笑っていた。いまさら戻るわけにも行かず、歩き通して41㌔/日と言う最高記録を出した日のことだ。
 そうそう、一つ不思議に思うことがあった。コロナ禍に振る舞われる「地元クーポン」。「ワクチン接種3回以上してますか」と聞かれ、照明を見せると宿泊料は2割引になり、地元で使えるクーポン券を2000円分もらえるというもの。高知県で2回、愛媛県で2回もらった。ところが予約のときに「ワクチン接種」のことを聞かれ「証明は持ってます」と応えたのに、フロントでは「電話予約の方には適用していない」といわれたことがあった。「えっ。どうして?」と私が聞いたものだからフロントの女性は裏方へ姿を消し相談したのだろう、「特例」としてクーポン適用してくれたことがあった。また、「じゃらんとかJTBとか業者を通して、インターネットで申し込んで貰わないと適用しない」というホテルは複数あった。どうしてなんだろう。何も言わないのに、クーポンを出してくれたところが、民宿もホテルでも(19日のうちの)4回あったことも逆に、不思議といえば不思議になる。この旅支援制度は一体どういう風に運用されているのだろう。いちいち調べる気にもならないが、旅行業界の大手支援制度かいなとか、デジタル世代のみが利用できる制度かいと思ったりもしたのであった。アナログ傘寿の愚痴である。