mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

ぶらり遍路の旅(5)空海の合理性と悟達

2022-05-15 10:23:26 | 日記

四国の地勢は、4県を二つ分ける東西に走る四国山脈を背骨と、その南へ延びる支脈の山並みが海にまで迫っている。その山並みがつくる谷と川とその堆積物が長年掛けてかたちづくってきた谷地と三角州が水の湧き出ずるところとなり、人の耕し住まうところとして開かれてきた。
 そう考えて西日本列島を眺めてみると、阿蘇山地から大分県を貫いて豊後水道を抜け海を渡り、愛媛と高知の端境にある四国カルストや石鎚山・瓶ヶ森・笹ヶ峰を経て大歩危小歩危の当たりから吉野川の流れに沿って海に出合い、紀伊水道を通り紀ノ川から吉野熊野に抜ける、地質学でいう中央構造線は、日本列島の西側の一体性を象徴する。そう言えば吉野川と紀ノ川の半ばに位置する沼島は記紀神話の国生みの舞台ではなかったか。
 おっと話が逸れそうだ。19番札所立江寺から始めた今回のお遍路の、20番札所鶴林寺から22番札所平等寺までの遍路道は、標高500㍍ほどの山を2つ越えさらに200㍍ほどの峠を越えて歩いた28.6km。鶴風亭ご亭主の尺八の音に送られてすぐに山道に入る。
「国指定史跡・阿波遍路道」として南北朝時代からつかわれていたとある。簡易舗装をしていたり階段状に整備したりしているが、ゴロゴロしている石を踏み歩くところもある。休憩所もおかれ水呑大師などの謂れの地も残っている。その途中に、再び標高520㍍の21番札所太龍寺へ下り上るルートの一望できるところがあった。主尾根と支尾根の流れ具合を見ると、これが遍路道として選ばれたワケがわかるように思えた。もっとも上りやすく且つ短い距離が選び取られている。一度標高500㍍から川筋まで下る道は「へんろころがし」と名づけられているがそれほどの急傾斜ではない。ふだん山歩きとは縁のない人たちが歩いてきたんだと思う。
 鶴林寺や太龍寺に参詣する道は、自動車道も含めて他にもある。太龍寺は山頂にあるからロープウェイであがってくる人たちもいる。古い道を辿っていると、後から老若3人がやってくる。今日同じ宿を出発してきたのであろう。挨拶をして追い越していった。このうちの40代の女性は、この日あとで同じ宿になるのだが、デイパックにスニーカーという軽装。明るく挨拶をして、軽々と先へゆく。太龍寺の山頂でも会い、平等寺への山道を辿っているときにも、その日の最後の札所・平等寺でも出逢った。また、そのうちの年寄りの1人とは翌日も途中で出合い、4日目には宿が一緒になって5日目に分かれるまで、お遍路についていろいろと教わった先達であった。「お遍路」という同じ舞台を歩いていることから来る共通感覚がベースになるからであろうか。先になり後になり、顔を合わせ言葉を交わす毎に、言葉がほぐれ、関わりが開かれていく。
 この太龍寺から平等寺へ至る遍路道の途中に孟宗竹の竹林がしばらく続くところがあった。よく踏まれた道に、つい先ほど剝いたと思われるタケノコの皮が捨てられ、やわらかいタケノコを生のまま食べたと思われる痕跡があった。あとで聞くと、先行したこの人たちの仕業。「だって道に生えてきたタケノコは採ってやらないとお遍路道が塞がれてしまうから」という言い訳が可笑しかった。
 こうしたお遍路道は、翌日もあり、国道から逸れて「旧土佐街道上り口」「歴史の道土佐街道」「遍路道」という表示が置かれた山道への入口があった。雨だったが、中岡慎太郎と坂本龍馬が(江戸剣術修行のあとだったろうか)土佐に戻るときにつかったとあった説明に惹かれてそちらへ踏み込んだ。4キロほどではなかったか。国道をショートカットするルートであり、途中の峠越えから見下ろす阿南市の由岐漁港は雨に煙ってひっそりとしていた。それが近道であったと分かるのは、先行した同宿の40歳代の大阪のおばちゃんや遍路旅何度もという70代はじめの先達が田井ヶ浜の遍路休憩所で、雨を凌ぎ昼食を取っているところで出逢ったからだ。
 この歴史の道・土佐街道は土佐東街道と名称を変えて室戸岬の方へずっと続いている遍路道と重なる。山を抜いてトンネルを国道が抜け、古い道は忘れられている。わずかに「へんろ協会」と称する団体(?)が「へんろマーク」に「↑」をつけて、ところどころに置いているのだが、うっかり見落とすと道に迷うことになり、結局国道や県道に戻ってしまうしかないところもある。あるいは、「へんろみち・土佐街道」の表示はあるが、通行禁止と書いてあったり、ただロープを張って入らないように標しているところもあった。
 4日目以降は徳島県最後の23番札所薬王寺から室戸岬の24番札所最御崎寺までの間、適当なところで宿を取りながら75kmを歩かなければならない。普通にgoogle-mapの「経路案内」に掛けると国道ばかりを歩くことになる。昔日の遍路道は山を越え海辺を歩いてトンネルをくぐらない。その道はしかし、道路に現れる表示だけを辿っていては、分からない。途中で、一昨日山越えで顔見知りになった先達と60歳代半ば夫婦に声を掛けられ、のちに同じ宿に泊まることがわかったのだが、この方たちは先達の案内で、途中昔の遍路道へ姿を消し、何本もあるトンネルを回避して山を越え、海辺の浜を歩く昔日の「遍路道」を歩いて面白かったと話をしてくれた。彼らが宿に着いたのは私の1時間ほど後であった。この遍路宿も、早く着いた私のために早めに風呂をたて、食事も同宿者が一緒に話をしながら会食するかたちであったから、そういう言葉を交わす機会があった。
 のちに私はできるだけ昔日の「へんろみち」を取るように考えはしたが、5日目頃までは躰に残る疲れが歯茎の痛みや肩に響き、できるだけ早く宿に着くようにしたこともあった。そうして気づいたのが、ぶらり遍路の旅(2)で記した「お大師さんとの同行二人」であった。
 いろいろな宿に泊まって、様々な感懐を抱いてお遍路をしているうちに、野宿をして歩く空海に思いを馳せることが多くあった。1200年前の彼にとって、お遍路とは修行であったという。たぶん人口は、今の十分の一ほどしかなかったろうから、本当にぽつりぽつりと点在する集落をたどり、暮らしに必要な水の湧き出ずるところを発見して水利を施し、あるいは病を癒やして旅をしていたのであろう。山を抜ける遍路道の合理性から感じるのだが、いまからみると謂わば合理的な知恵と技法を存分に発揮し、(その証明しようのないことを人々には)「密教」として伝えていたのではないか。そんな思いが、わが胸中に湧き起こってくる。
 どうやって食料を手に入れていたのだろうか。食べることのできる野草や根茎類の掘り出し方、調理の仕方も知っていたであろう。地蔵尊やお大師伝説のかたちを見ると、空海の知恵知識は、いまで謂う合理性に徹していて、ただなぜそれが分かるかを証明する必要があったわけではないから、彼自身は、数多の書物から汲み上げた知恵と技法を、壮大な宇宙観と共に「密教」として体系化した。そう感じた。
 札所毎に、お大師堂と本堂で「般若心経」を詠唱しているうちに、「無無明亦無無明尽」は、ことの根源を解き明かそうとするよりも、実際に知恵と技法を用いて暮らしに必要なことごとを実現すること、つまり暮らしそのもののために「密教」を用いて行くことが不可欠であり、その知恵と技法を体得するのが修行者のなるべきことといっているように感じたのであった。突き放していえば、向き合っている大自然からするとヒトはいかにもちっぽけ、その大自然とちっぽけなミクロの「わたし」とを総合的にみてとると「無無明亦無無明尽」というほかない。空海は、そう悟醒し達観したのではないかと思った。


ぶらり遍路の旅(4)文化が受け継がれるまだら模様

2022-05-14 09:41:43 | 日記

 遍路宿の話しを続けます。
 第3日目と連休中の第11日目、第13日目はいわゆる観光ホテルに泊まった。いずれも天然温泉付き。
 3日目は朝から雨。雨具のズボンにポンチョ風の雨具を着て、ザックにも雨カバーを付けて歩いた。行程は19キロくらいと見ていたが(たぶんGPS計測の)歩数計は26.7キロをはじき出した。雨と汗で濡れて到着した遍路宿はホテル白い灯台。2時過ぎには到着。チェックインは3時とあったが部屋には早く入れてくれ、天然温泉風呂の開始4時以前に部屋のバスは使っても良いというので湯を溜めて汗を流し、濡れた衣類を全部、コインを用いる洗濯機で洗い乾燥機で乾かすことができた。夕食も朝食も坦々と機能的な関係で貫かれ、これはこれでさっぱりとしていた。後2者は時節もあって賑わっていたが(お遍路さんだから何と感じさせることもなく)実務的に手続きをして洗濯・乾燥もできた。
 あとの11泊は(名称でいえば)「民宿」7泊と「旅館」4泊。そのうち「民宿」のひとつは「ビジネスホテル」と称する別館の方で素泊まりになったが、要は一室を借用するというだけの素っ気ないものであったから、清潔感や心地よさを別とすると実務的には上記観光ホテルと変わらない。
 「旅館」4軒のうち1軒は素泊まり。何度もお遍路をしている方がその旅館の名を聞いて「檜風呂があるよ」と話していたから、老舗なのだろう。部屋は床の間も欄間もある十畳間。次の間も付いている。建物入口の壁には「**旅館」のエンブレムが掲げられている。女将が高齢となり、子どもが後を継がず食事接待ができなくなったと(その後の人の動きを見て)推察された。女将が洗濯・乾燥もまとめてやってくれた。
 他の3軒も(気分的な差異はあるが)おおむね実務的にテキパキとかかわり、食事も給仕をすることなく、民宿同様、自前であった。観光ホテルは旅館と異なり建物に手を入れているが、旅館は古い建付のまま。湧き水を中庭の小川に流して風情のある雰囲気を醸し出している旅館もあった。値段も料理も上等な接遇をする民宿とさして変わるところはない。建物が(当然ながら)旅館仕様というか、客室と従業員のそれとがきっちりと分けられていて、その土地の人々の暮らしに踏み込んだという感触はない。
 「民宿」はそこが違った。最初の2泊したところ同様、もてなす方も旅する人を受け容れて言葉を交わす気風を残し、交歓している気配がある。やってきた旅する相手の気配を身計らいながら、気遣いをする。旅する方は、地元の人たちの暮らしの佇まいが醸し出す気風を感じ、それを受けとって次へ旅立つ。そんな感じだ。ことに良質な文化と人の暮らしを強く感じさせたのが、徳島県の海部郡の民宿大砂であり、高知県に入って室戸岬へ至る港の入口に位置する民宿椎名であった。
 ところが「民宿」も一様ではない。品の良い個人宅もあれば、かつての商人宿のように何室かが連なり、食堂もトイレや風呂もそれなりに大きいのが用意されているところもある。ぶらり遍路の旅(2)で、「何でその宿にしたの?」と訝しげな声の響きを感じた「民宿***」は国道に面した食堂を兼ねていた。
 訝しげな声が何を意味していたかは、泊まってみて分かった。建物が古いまま。トイレも段差のある落とし便所に便座を据えて軽水洗の装置を付けただけ。廊下も歩くと軋んできゅうきゅうと音を出す。部屋の鍵もドアに打ち付けた金具に柱に付けた留め具を引っかけるだけの簡便なもの。風呂も裸コンクリートを打っただけの(昔の田舎の)洗い場にステンレスの箱形風呂が置かれているというぶっきらぼうなもの。多くの民宿が、例えばトイレは最新のお尻洗浄便座に切り替えているのに、そうした快適居住空間への投資を全くしないで、ハードをそのまま宿として、まさしく「民宿」にしている素朴さ丸出しの様子であった。
 訝しげな声を発した翌日の民宿の女将の話では、以前この「民宿***」に泊まった女性客から夜中に電話があった。他の客が部屋へ入ってくるんじゃないかと心配で寝られない、悪いがぜひ迎えに来てほしいという願いであった。残念ながら迎えに行くことは出来ないので、「朝一番のバスで家へお出で。ゆっくり休めるようにしてあげるから」と応対し、実際にその子は(寝不足の青ざめた顔で)やってきたという。そうだよな。私のような敗戦直後の貧窮生活を田舎で味わってきたものにとっては、むしろ身に染みこんだ懐かしさを覚えるような佇まいも、今様の快適な生活空間に馴染んできた人たちにとっては、恐怖を覚えるものなのかもしれない。加えて女性の本源的に持つ脅威もあったろうと思った。
 いや、もうひとつある。「民宿***」の夕食は玄関の食堂のテーブルに用意されていた。鰹のたたき、煮付け、エビや野菜の天ぷら、昆布の佃煮、たくわんなどのほかにおでんが盛り付けられていた。ちくわや(関西でいう)てんぷら、ゆで卵などなど。前日の民宿大砂の、手の込んだタケノコづくしの料理を味わってみた者からすると、なんだこのコンセプトは? と思うような食卓。ともかくたくさん提供するのが一番、コンセプトもへったくれもないというもてなし。私は、あまり料理が得意ではなかったわが母親のことを思い浮かべていた。つまりこの女将が吝嗇というわけでもないし、もてなす心持ちを持っていないわけでもない。だが、時代に取り残された接遇のセンスをそのまま保って提示している。それが(えっ、そんなところへ泊まるの? という)訝しげな響きの大元なのだろうと思った。つまりまだら模様に受け継がれ広まっていく文化のちぐはぐさが、お遍路の「情報紐帯」の話題として知れ渡っているのであろう。
 もう1軒、食堂を兼ねている「民宿」があった。こちらは土産物も並べていて商売っ気たっぷり。建物はそれなりに清潔感があったが料理はごくごくシンプル。いかにもいつもの家庭料理をそのまま提供している風情だが、別にこちらは「おもてなし」を期待しているわけでもないから、他に較べてさっぱりしているなという感懐をもっただけで訝しさを感じるようではなかった。これもまだら伝承文化のもたらすものといっていいかもしれない。
 そういう意味では今回のお遍路中、大型連休とぶつかって「民宿」へ泊まることになったのは、幸いであったと言えるかも知れない。まさしく県民性も含めた、綿々と受け継がれて形を成してきた文化の差異を(私自身の敗戦後体験と重ねて)振り返ることになった。「同行」するもう一人の「わたし」がいつも目の当たりに出現したような心持ちであった。


ぶらり遍路の旅(3)生活文化の気風

2022-05-13 07:58:12 | 日記

 遍路宿の話をしましょう。
 振り返ってみると私にとって今回最初の遍路宿・鶴風亭は、「わたし」を日常と切断する恰好の舞台でした。家はごく普通の民家。入口に「鶴風亭」と厚い板に深い彫り込みを入れた手作りの看板を掛けている。ご亭主が迎えてくれ、女将が果てを案内する。一階の部屋にはすでに1人先客がいる。私は二階。風呂をたて洗濯物を入れる網袋を渡してくれる。夕食を待つ間、下から尺八の音が聞こえてくる。1970年代の歌謡曲なのだが、尺八の音色に乗るとまるであがた森魚の昭和エレジーのように哀調を帯びて響いてくる。予約電話を受けた女将は「野菜ばかりの料理ですが大丈夫ですか?」と付け加えた。その通りであった。山菜に手を加えた品々が、たくさん並ぶ。同宿は2人。食卓を囲む。はじめ女将が、後にご亭主が傍らに座って、あれこれと言葉を交わす。
 言葉少ない先客は86歳、来る途中で私が追い越し、私が道の駅でひと休みしてその後に道に迷っている間に到着した。何度もお遍路をしている常連のようであった。翌日の朝食は6時半。先客は食事が終わるとすぐに出発した。その備えといい手際といい、山歩きの先達を見るよう。彼の出発の時私は二階で荷造りをしていたのだが、尺八が響く。先客への送別の調べであった。
 同様に私も尺八の音に見送られ、100㍍ほど先の角を曲がるときに振り返ると女将がまだ立っている。私も丁寧にお辞儀をして、そうかこれがお遍路のおもてなしかと感じ入った。こうして、ここから私のぶらり遍路の旅が始まったのだったと、あらためて思う。
 この遍路宿、朝の朝食の他にお昼の弁当も作ってくれた。これはありがたかった。第二日の遍路道は、標高500㍍ほどの高さを2度上り下りしてのちに、もう一度標高200㍍ほどの峠を越えてゆく「へんろころがし」と呼ばれている山道。あとでみると28.6kmの行程を歩いている。おにぎりにバナナ、蜜柑、飴二つ、ペットボトルもついて万全だと思った。
 二日目に泊まったパンダ屋の遍路客は6人もいた。私と70歳ほどの男性客以外は若い人たちばかり。20歳代の男性客とアラサーの女性2人、40歳代半ばの女性が1人。若い女性お遍路たちは前日の宿泊が一緒だったらしく、賑やかに言葉を交わしていた。20歳代の1人は「遍路フリーク」を自称する。何度も歩いていて、今回はどこそこの何を狙っていると、何やら遍路道途中にある食べ物の話をしている。40歳代の女性は今日の行程で私を追い越していった方。途中にあるお地蔵さん毎に立ち止まって手を合わせているのが目を留まった。そのワケを訊ねると、子どもの頃育った大阪・道頓堀からお地蔵さんを祖父が取り出して祀っていたという文字通り大阪のおばちゃん。40日間のお休みがとれたので、何処まで行けるかチャレンジやという。磊落闊達。この人たちのおしゃべりを聞きながらの夕食は2時間近くになった。パンダ屋という宿の名前が若い人を呼び込むのだろうか。ここのご亭主は食事を出すと「皆さんでどうぞ。私は晩酌をしますので」といって引っ込んでしまった。洗濯も乾燥機も備えていて、文字通りお遍路仕様。おにぎりもバナナも注文に応じて50円払って持ってけという感じ。こういうあっけらかんな感触が若い人に受けるのかも知れない。
 おしゃべりの中で、前日同じ宿に泊まった人たちが出発するとき靴を間違えられた騒ぎがあり、それが収まったかどうかわいわいと遣り取りが交わされた。このとき20歳代の男性が四国4県の県民気質を話題にした。彼は愛媛の生まれ、靴間違いにまつわる徳島の人たちの動きがこんなにお遍路に優しいのが気になって、県民気質を考え始めたらしい。そうか、私は香川県高松の生まれ、9年そこで育った。カミサンは高知の生まれ、18年そこで育った。でも県民気質という風に考えたことはなかった。いや、県民気質と考えるかどうかは別として、人が受け継いでいく気風は暮らしの文化として人の肌に染みこんでいく。それが人柄となってことあるごとに滲み出てきて、その、ある種の地域的な共通性を「県民性」として分節化して理解するのかもしれない。じゃあ、逆にとらえることも可能なのではないか。地域的な切り取り方を生活文化の気風の違いを取り出す方法としてみると、案外見えるものがあるような気が掠めた。それが、後に泊まる遍路宿のもてなしで明らかになってきたと思えたのでした。


ぶらり遍路の旅(2)お大師さんとの同行二人

2022-05-12 08:06:08 | 日記

 お遍路の宿は遅くとも当日の昼までには予約しましょうと、何時、誰から教わったか忘れてしまったが、そういうものだと17年前の初回のお遍路の旅で覚えた。
 今回は用心して、歩き始める前日の夕方に予約の電話を入れた。ところがお目当ての宿は「ご主人が入院して営業していない」という。そうか、そういうこともあるんだとはじめて宿の移り変わりを勘定にいれることになった。
 このときは紹介して貰った3軒の別の宿に当たる。一つは満室、一つは応答なし。ちょっと慌てた。最後の一つ「かくふうてい」が「どうぞ」と受け入れてくれた。これが営業していない宿の近くということもあって、ちょっと安堵したのであった。
 そのせいもあって、二日目の宿にも早々と電話を掛けた。お目当ての宿は満室。そこで紹介された「ぱんだや」に予約したら、ご主人が「前日の宿は何処だ」と聞く。「かくふうてい」だと応えると、「ああ、尺八の名人だよ。よろしく言っといて」と気安くいう。そうか、そういう付き合いもあるんだと、またひとつ遍路宿の「情報紐帯」のようなものを感じた。こういった感触が味わえるのがぶらり遍路の醍醐味になるか。
 宿の予約の話しに戻ろう。「3月から4月は季節が良くてお遍路さんが増えるからね」と最初の泊まった鶴風亭のご亭主が言う。「ぱんだや」に泊まるのが土曜日ということもあったかもしれない。ならば日曜日のも早く予約しなきゃあと電話を入れたのは、23番札所薬王院。「宿坊は止めました」という。地図にある近場の民宿などに電話をすると「満室」。その先は17キロも離れている。手前2キロほどのホテル白い灯台に電話をする。「お遍路ですが」と前置きしなさいと誰にだったか教わっていたからそう言ったら、シングルの値段は9千なにがしかするが良いかと念を押す。いやも応もない。鶴風亭やパンダ屋は7千円ベースだったからちょっと高いとは思ったが、ホッとしたのであった。ところが私が白い灯台に泊まると知ったお遍路の人たちは、「いいねえ、温泉ですよ。それも海がみえる絶景」とか「私も泊まりたかった」と絶賛する。何度も歩いている人がひとり「かつては8千円台だった」と話した。細かい数字は忘れたが、支払いの時1割の消費税と入湯税を加えて9千なにがし。つまり8300円だと計算して、「お遍路です」といったのが利いていると思った。だが更に後で、他の民宿や旅館は税込みで6000円~7000円でやってるんだと気づいたが、消費税をどうしているんだろうとまでは考えもしなかった。
 そういうことがあったから、宿に着き、草臥れ具合を推しはかり、早め早めに宿の予約を取るようにした。7日目の宿を予約したとき、電話に出た女将が「前日は何処?」と聞く。「民宿***です」と応じると、何でそこを予約したのと言ったろうか、何か含むような物言いを感じた。泊まってみて分かった。明らかに他の遍路宿とは違う。何がどう違うかは、またひとつ、暮らしにおける文化の違いにかかわるように思うから後に取り上げて述べるが、こうした遍路宿の「情報紐帯」は、お遍路さんと遍路宿のご亭主とがとり交わす遣り取りや出来事を通じて、つくられていっているんだと思った。
 宿の予約でもう一つ難題があることに気づいた。大型連休である。連休に(休暇の取れた)お遍路さんが押し寄せるということもあろうが、家族連れが観光にやってくる。殊に今年は、コロナ禍自粛が続いたのが解除されたから、よほどの混雑になるだろう。更に早めに予約を取った。それが正解であったかどうかは、終わってみても分からない。だが、その距離を歩ききったこととか、疲れ具合を考えると、まあ、そこそこ良い線行ったのではないかと振り返っている。他のお遍路さんは前泊したところで、次の宿の情報を聞いて予約を取るようにしたという方と、そもそも出発前に(休暇の取れた何日間かの)宿情報をネットでチェックし予約を取ってからやってきたという。なるほど、デジタル世代の強みがよく現れている。差し詰め前者はアナログ世代だなと思った。
 大型連休といえば、ホテルなどには特別料金があることも分かった。高知市の中心部に近いホテルはシングルが19000円、また別の土佐市のホテルは素泊まり13200円であった。こういうときにお遍路さんは動くなということなのかも知れない。それでも値段が変わらない遍路宿はあったから、事前によく調べて繰り出せということかも知れない。もっとも私は、山小屋の宿泊料金と比較していたから、じつは、それほど高いとは思っていない。山小屋は2食付きだが1万円前後する。むしろ6000円とか7000円でやっている遍路宿の方を、大丈夫かなと気遣ったほどだ。
 そうだ、も一つ触れておかねばならない大事なことがあった。
 学生風の若いお遍路が大きいザックを背負って、前になり後になりしばらく一緒になり、休憩所で話すこともあった。第8日目の朝私が歩いていると、高いところから「おはようございます」と声がかかる。見上げると、3㍍ほどの高い櫓の上にある遍路休憩所の東屋から昨日一緒になった学生風が笑っている。室戸世界ジオパークの入口。23番札所から24番札所までの75キロ、左に海を見ながら歩き続けるところだ。彼はここで泊まったという。「遍路休憩所」を辿って泊まりながらお遍路を続ける。トイレがあり、水が出て、雨が凌げるところ。ツエルトをもっている。そうだ、若い頃はこうやって山を歩いていたと身の裡の何かが共振する。これこそが、お大師さんとの同行二人だと感じ入った。お遍路の原点だ。大型連休であたふた、スマホで宿を予約をしてホッとしているなんて何やってんだお前、と天から叱る声が聞こえたようであった。


ぶらり遍路の旅(1)へんろみちの変遷をぶらり

2022-05-11 10:20:54 | 日記

 遍路の旅に出る前、ある種の不安に襲われていた。行程を組んでみたら、5月末に岡山で開かれる予定の「同窓会」までに歩ききるには、毎日平均30kmの行程を組まなければならない。宿があるかどうかを考慮すると25km~35kmの幅が必要になる。たぶん山の事故を起こす前ならば、これくらいは大丈夫と踏んだと思う。そこで日々平均25kmで行程を組み直した。「同窓会」までに善通寺辺りまで行けそうと分かる。善通寺は岡山へ出るのにちょうど良いし、弘法大師の生まれ故郷でもあるし、何より私の生まれた香川県に入っている。そうだこれで行こうと一旦安堵した。
 ところが出発が近づくにつれて、計算上の行程と実際の行程が違うことも気になる。なにより毎日25kmを何十日も続けるということができるかと自問自答することがあった。これまで山へ入った最長期間は、30日。インドヒマラヤの無名峰へ向かったとき。一週間ばかりの停滞を挟んで、ほぼ毎日山を歩いた。体重も7キロくらい落ちただろうか。下山したときは、ぜんそく気味になって、インドの医者に診てもらうこともあった。それ以外、二週間を越える山歩きをしたことがない。若い頃は回復力があった。だが今は間違いなくそれが衰えている。そういう不安が昂じてきた。もう一度組み直し、日々平均20キロ程度に設定し直して、やっと心穏やかに出発を迎えた。
 これは、結果的に見ると正解であった。実際に歩いてみると、「遍路道」はこれと決まっているわけではなく、何処を通っても「目的の札所」へは行ける。車で行く人もいれば、自転車の人もいる。昔の「遍路道」がはっきりしているところもあれば、トンネルを抜けたりショートカットして新しい道路が設けられているところもある。プランニングの時に私が参考にしたのは、2005年頃に編輯された「へんろみち地図」とネットで手に入れた「四国遍路巡礼マップ2020」であった。前者は地図自体の(情報量の多い)描写が複雑さを増していてルートを見て取るのが難しく、結局つかわないままであった。後者は山の地形図の5万図のような感じで大雑把に見るにはいいが、子細はずいぶんズレが出るようであった。
 プランニングでは後者をつかい、実際に歩くときにはgoogle-mapの「経路ガイド」を用いた。これは出発前にスマホの購入店へ行って使い方を教わり、使いながら、その「経路ガイド」の見方を知り使い方に慣れるという馴染み方をした。「目的地」へ行くルートはいくつも選ぶことができる。複数のルートを示す点線が表示される。ルートの一つには「*分遅れ」などと表示がつく。なんだコイツは、歩く速度にまで標準を押しつけてくるのかと最初思った。違った。ある一つのルートが最短、それとは違うルートをとると「*分遅れ」と時間がかかることを示しているのだと分かったのは、5日ほど経ってからであった。また私が好んで主要な自動車道路を外れて田舎道を歩くことを察知して示すのかと思ったほど、回り道をする。どこにいても経路を示し「*分遅れ」は大きくなり、すっかり違う方向へ進んでいたこともあった。つまり私の「ぶらり」がどんどん道を外してしまっていたのだ。
 結果的に今回歩いた全行程の、当初計画355km行程が実歩行422kmであったという、25%増しの歩行距離になっていた。それは前回の報告に記したとおりである。この25%増がぶらり遍路のぶらり部分、そう考えると、最短距離を歩くよりも面白いルートを歩いたなあという感懐が、ひときわ増してくる。
 実を言うと、昔の遍路道を記した「へんろみち地図2019年版」が見やすい印刷物となって刊行されていることも分かった。ほとんどの歩き遍路の方々はそれを見ていたのだが、それに記されたルートは私の歩いたルートよりも更に長く、道路が新設されてトンネルを抜けるところも、山を越え海辺に降りて砂浜を歩くというように、昔日の経路を丁寧に記しているようであった。
 こうして不安の中でスタートしたぶらり遍路の旅は、出会う人、出逢う場所によっていろいろなことを教わりながら始まったのです。