mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

ぶらり遍路の旅(5)空海の合理性と悟達

2022-05-15 10:23:26 | 日記

四国の地勢は、4県を二つ分ける東西に走る四国山脈を背骨と、その南へ延びる支脈の山並みが海にまで迫っている。その山並みがつくる谷と川とその堆積物が長年掛けてかたちづくってきた谷地と三角州が水の湧き出ずるところとなり、人の耕し住まうところとして開かれてきた。
 そう考えて西日本列島を眺めてみると、阿蘇山地から大分県を貫いて豊後水道を抜け海を渡り、愛媛と高知の端境にある四国カルストや石鎚山・瓶ヶ森・笹ヶ峰を経て大歩危小歩危の当たりから吉野川の流れに沿って海に出合い、紀伊水道を通り紀ノ川から吉野熊野に抜ける、地質学でいう中央構造線は、日本列島の西側の一体性を象徴する。そう言えば吉野川と紀ノ川の半ばに位置する沼島は記紀神話の国生みの舞台ではなかったか。
 おっと話が逸れそうだ。19番札所立江寺から始めた今回のお遍路の、20番札所鶴林寺から22番札所平等寺までの遍路道は、標高500㍍ほどの山を2つ越えさらに200㍍ほどの峠を越えて歩いた28.6km。鶴風亭ご亭主の尺八の音に送られてすぐに山道に入る。
「国指定史跡・阿波遍路道」として南北朝時代からつかわれていたとある。簡易舗装をしていたり階段状に整備したりしているが、ゴロゴロしている石を踏み歩くところもある。休憩所もおかれ水呑大師などの謂れの地も残っている。その途中に、再び標高520㍍の21番札所太龍寺へ下り上るルートの一望できるところがあった。主尾根と支尾根の流れ具合を見ると、これが遍路道として選ばれたワケがわかるように思えた。もっとも上りやすく且つ短い距離が選び取られている。一度標高500㍍から川筋まで下る道は「へんろころがし」と名づけられているがそれほどの急傾斜ではない。ふだん山歩きとは縁のない人たちが歩いてきたんだと思う。
 鶴林寺や太龍寺に参詣する道は、自動車道も含めて他にもある。太龍寺は山頂にあるからロープウェイであがってくる人たちもいる。古い道を辿っていると、後から老若3人がやってくる。今日同じ宿を出発してきたのであろう。挨拶をして追い越していった。このうちの40代の女性は、この日あとで同じ宿になるのだが、デイパックにスニーカーという軽装。明るく挨拶をして、軽々と先へゆく。太龍寺の山頂でも会い、平等寺への山道を辿っているときにも、その日の最後の札所・平等寺でも出逢った。また、そのうちの年寄りの1人とは翌日も途中で出合い、4日目には宿が一緒になって5日目に分かれるまで、お遍路についていろいろと教わった先達であった。「お遍路」という同じ舞台を歩いていることから来る共通感覚がベースになるからであろうか。先になり後になり、顔を合わせ言葉を交わす毎に、言葉がほぐれ、関わりが開かれていく。
 この太龍寺から平等寺へ至る遍路道の途中に孟宗竹の竹林がしばらく続くところがあった。よく踏まれた道に、つい先ほど剝いたと思われるタケノコの皮が捨てられ、やわらかいタケノコを生のまま食べたと思われる痕跡があった。あとで聞くと、先行したこの人たちの仕業。「だって道に生えてきたタケノコは採ってやらないとお遍路道が塞がれてしまうから」という言い訳が可笑しかった。
 こうしたお遍路道は、翌日もあり、国道から逸れて「旧土佐街道上り口」「歴史の道土佐街道」「遍路道」という表示が置かれた山道への入口があった。雨だったが、中岡慎太郎と坂本龍馬が(江戸剣術修行のあとだったろうか)土佐に戻るときにつかったとあった説明に惹かれてそちらへ踏み込んだ。4キロほどではなかったか。国道をショートカットするルートであり、途中の峠越えから見下ろす阿南市の由岐漁港は雨に煙ってひっそりとしていた。それが近道であったと分かるのは、先行した同宿の40歳代の大阪のおばちゃんや遍路旅何度もという70代はじめの先達が田井ヶ浜の遍路休憩所で、雨を凌ぎ昼食を取っているところで出逢ったからだ。
 この歴史の道・土佐街道は土佐東街道と名称を変えて室戸岬の方へずっと続いている遍路道と重なる。山を抜いてトンネルを国道が抜け、古い道は忘れられている。わずかに「へんろ協会」と称する団体(?)が「へんろマーク」に「↑」をつけて、ところどころに置いているのだが、うっかり見落とすと道に迷うことになり、結局国道や県道に戻ってしまうしかないところもある。あるいは、「へんろみち・土佐街道」の表示はあるが、通行禁止と書いてあったり、ただロープを張って入らないように標しているところもあった。
 4日目以降は徳島県最後の23番札所薬王寺から室戸岬の24番札所最御崎寺までの間、適当なところで宿を取りながら75kmを歩かなければならない。普通にgoogle-mapの「経路案内」に掛けると国道ばかりを歩くことになる。昔日の遍路道は山を越え海辺を歩いてトンネルをくぐらない。その道はしかし、道路に現れる表示だけを辿っていては、分からない。途中で、一昨日山越えで顔見知りになった先達と60歳代半ば夫婦に声を掛けられ、のちに同じ宿に泊まることがわかったのだが、この方たちは先達の案内で、途中昔の遍路道へ姿を消し、何本もあるトンネルを回避して山を越え、海辺の浜を歩く昔日の「遍路道」を歩いて面白かったと話をしてくれた。彼らが宿に着いたのは私の1時間ほど後であった。この遍路宿も、早く着いた私のために早めに風呂をたて、食事も同宿者が一緒に話をしながら会食するかたちであったから、そういう言葉を交わす機会があった。
 のちに私はできるだけ昔日の「へんろみち」を取るように考えはしたが、5日目頃までは躰に残る疲れが歯茎の痛みや肩に響き、できるだけ早く宿に着くようにしたこともあった。そうして気づいたのが、ぶらり遍路の旅(2)で記した「お大師さんとの同行二人」であった。
 いろいろな宿に泊まって、様々な感懐を抱いてお遍路をしているうちに、野宿をして歩く空海に思いを馳せることが多くあった。1200年前の彼にとって、お遍路とは修行であったという。たぶん人口は、今の十分の一ほどしかなかったろうから、本当にぽつりぽつりと点在する集落をたどり、暮らしに必要な水の湧き出ずるところを発見して水利を施し、あるいは病を癒やして旅をしていたのであろう。山を抜ける遍路道の合理性から感じるのだが、いまからみると謂わば合理的な知恵と技法を存分に発揮し、(その証明しようのないことを人々には)「密教」として伝えていたのではないか。そんな思いが、わが胸中に湧き起こってくる。
 どうやって食料を手に入れていたのだろうか。食べることのできる野草や根茎類の掘り出し方、調理の仕方も知っていたであろう。地蔵尊やお大師伝説のかたちを見ると、空海の知恵知識は、いまで謂う合理性に徹していて、ただなぜそれが分かるかを証明する必要があったわけではないから、彼自身は、数多の書物から汲み上げた知恵と技法を、壮大な宇宙観と共に「密教」として体系化した。そう感じた。
 札所毎に、お大師堂と本堂で「般若心経」を詠唱しているうちに、「無無明亦無無明尽」は、ことの根源を解き明かそうとするよりも、実際に知恵と技法を用いて暮らしに必要なことごとを実現すること、つまり暮らしそのもののために「密教」を用いて行くことが不可欠であり、その知恵と技法を体得するのが修行者のなるべきことといっているように感じたのであった。突き放していえば、向き合っている大自然からするとヒトはいかにもちっぽけ、その大自然とちっぽけなミクロの「わたし」とを総合的にみてとると「無無明亦無無明尽」というほかない。空海は、そう悟醒し達観したのではないかと思った。