mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

ぶらり遍路の旅(7)諸々の断片(b)

2022-05-20 08:13:52 | 日記

(*5)生き心地が良い関係への視線
 岡真弓の著書に触発された《「生き心地が良い」とはどういうことか》を読んでみると、日頃私が綴るよしなしごとの神髄が足下にあったことがわかります。でも「生き心地が良い」関係を「おへんろ」というかたちで受け容れ、軽々とこなすように日常に取り入れている徳島や高知の人たちの振る舞いは、なかなか大したものです。
 でもその関係が紙一重であることも忘れてはなりません。自殺率が全国平均の3分の1という(旧)海部町と、その隣町の自殺率は全国平均と変わらなかったという統計的事実は、簡単に概念化してはならないことを意味しています。その町の気風(エートスと岡檀は呼んでいますが)は、どんな人々がどのように往き来して関わり合ってきたかという微細な関わり方によって出来上がってきたものと言えます。大坂夏の陣で焼き払われ必要になった材木の切り出しがきっかけと岡檀は海部町の人の往来を記しています。
 そういう人たちの往来が(そのときの)成り行きによって「生き心地の良い」関係を紡ぐという似たようなことを、私は今住んでいる首都圏の団地の住まいに感じています。似たようなことというのは、「病、市に出す」という点だけがまだまだ届かないところにあります。たとえばこの団地でコロナウィルスの感染者が発生したときにそれを住民に知らせるかが話題になったとき、団地理事会は内密にすることを選びました。そこにはまだ、見知らぬ他者を信頼する(旧)海部町的気風が行き渡っていない(というか、見知らぬ人を信用するなという気風さえ常識化している)ことが現れています。
 それでも、戦後の経済的な豊潤と上昇によって人々の往来が盛んになり、謂わば西欧社会的な他者が市民として共に暮らすようになることによって、多様な他者が協同して生活する社会関係を築いていかねばならない。そういう社会意識を共有できる条件は出来上がっています。そのとき、どうやったら(旧)海部町の人たちのような「生き心地の良い」関係を紡ぐことができるのか、ひとつひとつの社会ネットワークで考えていく必要があると思います。
 岡檀の著書の最後に記されていたこと、「自殺はそんなに悪いことですか」という訴えは、「病、市に出す」というセンスが行き渡っていないことと同じ社会ベースで生じています。「病」を共有して「あんた鬱になっとんのとちがう?」と声を掛けるような開放性があれば、それでも自殺した人を「悪くいう」ことは起こらないと思うからだ。人生の運不運はつきまとう。それは、不運な人の所為ではない。そういった感性までかかわってくる。つまり、心を開く関係が築けるかどうかは、関わりの緩急を人と場に応じて受け止めていく、微細なことへの心配りを必要としているのです。
 お遍路として通過するだけの町ではあったが、そういう気風を感じることができたのは、民宿大砂とか民宿椎名のお接待があったからだ。もちろんそればかりではない。道に迷ったときに声を掛け、ときにはちゃんと行けたかを見守るように(ひょいと顔を出して)「あ、さっきの人やな」と挨拶をする自転車の年寄りの振る舞いは、なんともやわらかい関係がしみ出してくるようであった。


ぶらり遍路の旅(6)諸々の断片(a)

2022-05-19 13:51:45 | 日記

(1)隠れた自己承認欲求
 遍路道の所々が山道になっていると記した。一日中そういう山道を歩くこともあれば、ほんの2時間ほどとか、遍路参詣登山口からお寺さんまでの1時間足らずのところもあった。振り返って考えて見ると、明らかに私は、山道に心惹かれていた。荷が重くても、山歩きならこうやってゆっくりと歩くのが基本、ここでへこたれて何が登山だと思うと、自ずから力が湧いてくるように感じていた。
 ところが、国道や県道歩きが長く続くと、それだけで気力が削がれていくように感じるのは、なぜか。google-mapの「経路案内」が優れているのは、「歩行」をマークしておくと、本当に狭い道でも(近ければなのかどうかはわからないが)案内する。あることろでは、家屋と脇の田んぼの間の、細い畦のような草ぼうぼうの道へ入るところで「左へ0㍍」と表示が出た。これは如何に何でも間違いだろうと、20㍍先の車道までいってみたら、大きく回り込む道は、件の畦道と合流して川を越える橋へと向かっていた。なるほどgoogle-mapの「歩行」はこういう芸当をやるんだと感心したことがある。それが逆に災いして、何処へ行っても「*分遅い」と表示付きでルートは示してくれるから、ぶらりが何とも大回りになってしまうこともあったことは、すでにご報告したことである。でも、少々遠回りになっても、当初の歩行距離を1日20㌔程度にしていたから、4㌔や5㌔余計に歩いても構わない気分であった。すでに田植えの終わった水路沿いの、車の滅多に通らない田舎道は、山のアプローチ同様、好ましく感じられた。これはどうしてなのか。田舎の風景が私の子どもの頃の原体験として身に染みこんでいて、自然の溶け込んでいる感触を湛えているからなのだろうか。身が悦んでいるのを感じていた。
 なぜ山へゆくのかと問われたとき、歩いているときに瞑想状態になるのが良いからと応えてきた。無念無想というか、意識は明晰なのに足下のディテールしか目に留めていない。その状態が素敵だからと思っていたが、なぜ素敵に感じられるのか。
 その根柢にわが身に何時知らず刻んできた空間的景観の記憶が甦っているのかも知れない。つまり山へ行ったり遍路道を歩いたりすることで、わが身がいまなお経験的に積み上げてきた人類史的堆積を現実に確証し続けてくれている。そう思うようになった。
 こうも言えようか。そうやって繰り返し自己承認を求めているのかも知れない。私の心持ちが落ち着く根源に、そういう隠れた欲求があり、それに気づかないままお遍路している。そう感じたことがあった。

(2)重い荷と郵便局
 これくらいの重さで音を上げてどうすると自分に言い聞かせながら歩いたのは、4日目までであった。まず、つかわないものを捨てることにした。山と溪谷社の『四国八十八カ所05』と古い(友人から貰った)『へんろみち地図』を宿のゴミ箱に入れておいた。ついで衣類の半分ほどを帰りに立ち寄ることにしていた兄の家へ送った。洗濯ができ、ほぼ二組あれば困らない。私は山歩き同様、雨でびしょ濡れになったときのことを考え、しかも行き帰りの電車の中を考えて3組のほかに宿での内着を用意していたのだが、宿の浴衣と衣類の乾燥も含めて無用なものを送ってしまった。ザックそのものが大きいものだったから、見かけは変わらなかったが、気分も含めてずいぶん楽になった。
 これには、何処へ行っても郵便局があることがありがたかった。実際荷物ばかりでなく、手持ちの現金もそう多くは持たなかった。カード決済できるものはそうした。遍路宿は現金だろうが、持ち歩くわけにはいかない。そこで郵便局の口座を用いることにして、途中で一度貯金をおろしたが、その後の買い物などはほとんどカードで済ませることができたから、余計な心配ではあった。

(3)お遍路という共同体への組み込み方
 菅笠を被り白装束をして歩く年寄りが「おへんろ」であることは一目瞭然。それが道をうろうろしていると「*番札所は・・・」と教えてくれたと、どこかで報告した。また、山へ入るような遍路道がそのまま牧野植物園の中を通り、植物園の入口に向かっていることにも驚いた。ちょうど大型連休とぶつかる朝9時頃であったから、たくさんの人たちが入ってくるのと逆向きに歩くことになった。私の姿を見た植物園の職員がさっとやってきて、こちらへどうぞと外へと案内してくれた。もちろん料金はとらない。これも、遍路姿はこうやって受け容れられているのだと感じたあしらいであった。
 もっともこのときは、外へ出てみると、植物園の中の牧野記念館で牧野富太郎の生涯展をやっていたので、引き返して料金を支払いもう一度入園した。NHKの朝ドラで生誕160年の牧野富太郎が取り上げられることになったので、記念館でも生涯展を企画したらしい。これは面白かった。植物分類学の父といわれる牧野富太郎が、金銭に構わない大らかなというか、大雑把な性格だったとか、当時のアカデミズムの権威階梯を踏まえず自説を貫いて体系化を図ったというのは、面白い人生であったろうなと思えた。もちろん同時に、周りにいた人たちにはそう単純に喜べない迷惑な存在であったろうが、何かを成し遂げるというのは、そういう周りの迷惑に構わない無神経さがいるのかも知れないと思った。
 それと同時に、その後の植物学の成果を盛り込んで生物の99%が死滅したとする氷河期や彗星の衝突など5度の災厄を経てきた生命の歴史一覧をみると、ヒトの小ささと幸運さとが感じられ、現在の地球の危機的な状況さえも、6度目の災厄に向かっているだけのことと「一切皆空」とみえて、気が楽になる。ヒトだって、こうやって滅びていくのだと、まるで予言を見るようで、面白かった。
 ああ、そういう話しではなかった。四国において「お遍路」は見事に日常に組み込まれている。道に迷っているというのも、何処へ行くかを周囲の人たちが知っているからだ。もし菅笠もなく白衣も着ていなければ、ただの徘徊老人だとみなされたかも知れない。いやそうじゃないか。そうとすらみなされず、ほとんど存在していないウォーキング・シャドウであったかもしれない。そういう意味でも「おへんろ」は実存が承認され、四国の地に受け容れられている。ただの観光客とも違う。この受け入れのかたちが、なにかヒトの実存の確かさに通じているように感じたが、それ以上は分からない。

(4)海部の町という気風
 徳島県最後の札所から室戸岬へ向けて歩いているときに海部郡海陽町を通過した。最初の鶴風亭のご亭主が海陽町の名を口にした。その入口辺りに海部刀という日本刀の名刀がつくられていた、ぜひその資料館があるから寄って行けと奨めてくれた。そのとき「海部町」のことが記憶の底からぷかりと浮かび上がってきた。ボンヤリとした記憶であったが、そこかで社会学者が何かを調査した町というところまでは想い出した。はて何だったろう。想い出した。日本一自殺が少ない町として社会学者が調査に入ったという記録だった。
 お遍路から帰ってきてから古いブログの記録を探してみたら、2015年3月に、その記事があった。これを読み直して、お遍路全体を通して海部町の気風にひたってきたのだと感じる。お遍路を受け容れる気風には「生き心地が良い」関係をつくる人と人の向き合い方が、長年に亘って積み重ねられてきたと腑に落ちる思いがする。参考のために、再掲する
 
 ★ 「生き心地の良い」とはどういうことか(1)鷹揚な自立主義

 岡檀『生き心地の良い町――この自殺率の低さには理由がある』(講談社、2013年)を読む。こういう調査をしている社会学者がいるんだと感心した。視点もいい。平成の大合併以前の市区町村区分で自殺率を調べ、その一段と低い町の何が率の高いところと違うのかを調べている。
 全国平均の「人口十万人自殺率」は「25.2」、ところが(旧)海部町は「8.7」。自殺率の低いベスト10の8位に入る。ちなみにベスト10のほかの九つはすべて離島である。さらにまた、海部町と隣接する2町の自殺率平均値は、「26.6」と「29.7」。これは何かある、とみるのも当然な差異である。
 この三分の一という数値の差異には何かあると睨んでアンケートやインタビューを行い、あるいは地理的な立地条件を比べて、自殺の少ないワケを解析している。視点がいいとは、平成の大合併によってできた広い行政区画では決して明らかにならない地域社会のエートス(一般的規範感覚の気配)を浮き彫りにしている。それに実際、「自殺率」という統計自体が、大きな行政単位に集計されると、いわゆる「平均値」になって、海部町のような特異点が消失してしまう。そういう意味では、今でしか解析することのできなかった研究だともいえる。
 まず、研究のデータや対象を取り扱っているしかるべき役所・機関に趣旨を説いて理解してもらうとともに、援けを得ながら、どうしたらいいかを探る。その上でコミュニティに移り住み、インタビューやアンケートの面談調査を行う。通常行われる社会学アンケート調査手法の「欠点」をカバーするべく、調査担当の人たちに調査趣旨を説明するところから、すでに回収の意味が深いところに届いている。何しろ1900件に近いアンケートの回収率が2回調査の平均値で93%になる。ふつうは回収率が6割を超えれば有効と言われている。調査協力者自体が、その調査の意味を十分咀嚼していなければ、かなわない数字だ。
 だがアンケート調査はこの研究のメインではない。しばらくそこに暮らし、その土地の人たちと言葉を交わし、その立ち居振る舞いから他の地域と気配が違うことを感じとる。そうして5つの差異を剔出している(以下の記述に付した番号は引用者がつけた便宜上のもの)。

(1)いろんな人がいてもよい、いろんな人がいた方がよい
 地域のエートスが他の地域と違う、とまとめる。「赤い羽根の募金の集まりが悪い」ということに気づき、なぜかと聞いてみる。「何に使こうとるかわからんもんに寄付するより、街のお祭りに出す方がええ」ということばから、出す人は出せばいいし嫌な人は出さんでもええ、当たり前のことじゃと、人との違いを気にしない自律性を見て取っている。それはすなわち他の地域では、他の人たちは出しているのに自分が出さないのは風が悪いというエートスと対照的である。
 それはさらに、「朋輩組」の運びにも関係する。他の地域ではほとんど消滅した「若集組」(若集宿)は、かつて地域社会の通過儀礼組織であった。年寄りから、(徴兵でいった)軍隊の方が緩やかだったと評されるほど先輩格からの「しごき」などがあって、戦後ほとんど消えていった。だが海部町では「朋輩組」という年齢階梯型共同体組織として今でも残っているそうだ。「しごき」などは、「なんのこっちゃ。そりゃ野暮じゃ」と、その影も見えないという。つまり、先輩・後輩という序列が因習的な権力関係ではなく、協同的な共同関係にある。そのことを証だてる一つのアンケート調査結果がある。
 排他的傾向の度合い――①「あなたは一般的に人を信用できますか」、②「相手が見知らぬ人であっても信用できますか」という調査である。自殺率の低い海部町と【自殺率の高いA町】の比較である。
 まず、①「あなたは一般的に人を信用できますか」という問いに対して、
 [肯定]35.1【18.9】、[どちらともいえない]31.1【49.8】、[否定]33.8【31.3】とある。
  歴然たる違いだ。海部町の方が、楽天的というか能天気というか、おおらかである。
 ついで、②「相手が見知らぬ人であっても信用できますか」に対して、
 [肯定]27.0【12.8】、[どちらともいえない]28.3【42.8】、[否定]44.1【44.4】とある。
 このデータを読み取るとき、(アンケート結果を読むとき一般的に言えることだが)気をつけたいことがある。この地域にこれだけ%の人たちが散らばっているという読み方をしてはいけない。たとえば①に関して、海部町の人たちの胸中は、「35.1%が肯定」気分、「33.8%が否定」気分、「31.1%がどちらともいえない」気分と読むと、わりと地域のエートスが分かる。実体的な人数と考えると、人柄がぼやける。それほど截然とモノゴトを私たちは明快にしていないからだ。あれもこれもあり、でも1つ選ぶとすれば、まあこっちかなというふうに、回答している。つまり海部町の人たちは、「見知らぬ人」という他者を受け入れる許容度が(そうでないA地域に比べて)高いとみると分かりやすい。

(2)人物本位主義を貫く
 「地域リーダーを選ぶ際の基準」についての調査結果もある。
 二つの地域について、③「問題解決能力を重視」、④「学歴を重視」に関する肯定-否定の度合いを尋ねている。
 「ここでいう人物本位主義とは、職業上の地位や学歴、家柄や財力などにとらわれることなく、その人の問題解決能力や人柄をみて評価することを指している」と、まず岡は解説する。そうして、海部町と自発多発A地域と比較すると、以下のような違いが明らかになった。
 ③「問題解決能力を重視」について  海部町【A町】
 [肯定]76.7【67.3】、[どちらともいえない]17.9【23.6】、[否定]5.3【9.2】とある。
 ④「学歴を重視」については、
 [肯定]6.8【13.3】、[どちらともいえない]24.6【17.6】、[否定]68.6【69.1】という結果だ。
 それぞれの項目に関する両地域の差異はそれほど大きいとは思えないが、社会学的には「有意の差」だと岡は解説している。このデータも、前と同様、その地域の人の胸中で、その要素がどれほどの割合を占めているかと読み取ると、我が身と重ねて了解しやすい。
 ふだん私は、「学歴重視」の要素を権威主義と呼んでいる。有名人やブランド物、世間の評判に価値の重心を置く「権威主義」的な人はけっこう多い。それはそれで根拠もないわけではない。有名大学の卒業者は、一般に学力においては優秀なのが多い。商品を選ぶときにブランド物の方が品質の心配をする必要がないことが多い。だが地域の暮らしに必要な能力となると、学力と比例するものではないし、会社などでの地位と相関するとも限らない。所詮人柄を見極めるのが一番いいと、私も思う。
 つまり、人物本位主義的に向き合う関係と権威主義的に向き合う関係では、後者の方が関係の硬直性が高い。人物本位主義的な場合、人は変わるし変わりうることが前提にある。人と人との「かんけい」は硬直的でない方が自由である。(つづく)

★ 「生き心地の良い」とはどういうことか(2)「朋輩」という関係

(3)どうせ自分なんてと考えない
 「有能感(自己効力感)の度合い」の調査もしている。「自分のような者に政府を動かす力はない」と問うて「肯定-否定」聞いている。自殺率の低い海部町と【自殺率の高いA町】との比較である。
 [肯定]26.3【51.2】、[どちらともいえない]31.9【21.6】、「否定」41.8【27.2】
 私がもしそう問われたら、私は「肯定」するだろう。だが「政府」というのが、自分の暮らすこの小さな地域のことだとすると、「否定」すると思う。代議制民主主義という制度をどうとらえているかの違いが表出すると思うからだ。国政と地方の町村とは、明らかに違う。
 自分の属する集団を主体的に担う心づもりを問うているのであれば、むろん「否定」である。そのときに「どうせ自分なんて」と考えるのは、養老孟がいうところの「バカの壁」だ。心理学でいう「有能感(自己効力感)」というのと少しずれがあると思うが、とりあえずそれを脇に置いておこう。しかし、この両地域のずれは、どうだ。「バカの壁」が倍にもなっている。
 面白かったのは、「極道もんになった」ということばと、この項目を岡が結び付けて考察していることだ。「この地域では、働きもせずぶらぶらしている人、遊び人、怠け者のこと」を「極道者」というそうだ。それで思い出した。「極道もんの頭に最初に雨がおちる」という慣用句があると高知の山奥に育ったカミサンが話していた。私はそのとき、「極道者」をヤクザやテキヤというか、悪行を働いたり博徒のような暮らしをする人のことだと思っていた。だが、この徳島県の海部町の用法と同じだとすると、面白い。つまり、自分の暮らしを基本的に自分で切り回していこうという気概をもつか、人に頼ってたべていこうとしているかを問題にしているのだ。そういう気概をもたなくなったものを「極道もんになった」と言っている。さしずめ年金生活をしている私は、はや立派な極道もんである。自律の精神と根本においては同じである。

(4)病、市に出せ
 これは、隠さず周りに相談せよということらしい。「援助希求への抵抗感」の調査である。
「悩みを抱えたとき、誰かに相談したり助けを求めたりすることに抵抗感はある」かと質問している。やはり、海部町と【自殺率の大きいA町】の回答比率は次のようである。
 [肯定]20.2【27.0】、[どちらともいえない]17.0【25.7】、[否定]62.8【47.3】
 「悩み」というのを(自殺に結びつくので)うつ病受診率の高さを取り上げて説明している。海部町では「あんた、うつんなっとんのと違うん。はよ病院へ行て、薬もらい」と周りが気遣うし、声をかける。「どうも私はうつになってきているみたい」と相談するらしい。むろん病院に行くことにためらいはないし、うつ病と診断されたことをひた隠しに隠すこともない。ところが、自殺率の高い地域では、精神病だというと恥ずかしいし、孫子や親戚のもんに顔向けできないと考えるらしい。海部町では「あんた、うつんなっとんのと違うん」と周りが声をかけると、自殺率の高い地域で紹介をすると、どよめきが起きると記している。
 この「どよめく」感覚は、見栄を張ることにもつながる。だが、見栄が一概に悪いと言えないのは、見栄を張ってそれに見合うように自分を鍛えていくというやり方が、ひとつの方法としてあるからだ。私はそのようなやり方を好まないが、実力以上に自分を大きく見せ、ウソから出たマコトのようにして力をつけていくのも、アリだとは思う。あるいは「我慢をする」とか「できるだけ自分で何とかしようと考える」というのも(岡は後で記しているが)、傾斜の急峻な山間部の土地で暮らしている人の気性は、自ずとこのようなものになるらしい。それは、基本的に自分で成し遂げる、人の援けをあてにしないという自律の構えであろう。それはそれで大切であるが、「市に出す」ことによって人と人とのかんけいも屈託のないやわらかいものになると、言っているようである。
 隠し事をせず、自分を飾らず、腹蔵なく付き合うのは、そのような付き合いをする人の存在を承認するという意味でも、コミュニティの緊張感を緩める効果を持つ。開かれた関係には欠かせないと思うのだが、どうだろうか。

(5)ゆるやかにつながる
 隣人の「うつ」にまで気遣うというと、おせっかいが過ぎると思うであろう。ところが岡は、そういう「粘質な」印象はないという。「基本は放任主義で必要があれば過不足なく援助するというような、どちらかというと淡白なコミュニケーションの様子が窺える」とみる。
 「隣人との付き合い方」という調査結果にまとめている。やはり、海部町と【自殺率の高いA町】の比較。次の5項目それぞれについての%。
 「日常的に生活面で協力」………………16.5【44.0】
 「立ち話程度のつきあい」………………49.9【37.4】
 「あいさつ程度の最小限のつきあい」…31.3【15.9】
 「つきあいはまったくしていない」…… 2.4【2.6】
 隣人間のコミュニケーションが切れているわけではないが、「立ち話程度」「あいさつ程度」とかなりあっさりしている様子とみている。気遣いは、親密な共同体のそれのようであるが、人と人との距離はほどほどに保たれている。そこでは、人間関係が固定していない。加入も大会も自由な「朋輩組」の互助活動もある。子どもたちの放課後の遊びも、家に帰ってきてからの仲間で一緒に遊ぶこともある。出入り自由な関係が、付き合い方の柔軟さを生み出している。

★ 「生き心地の良い」とはどういうことか(3)悲しみに向き合い視界を広げる

 自殺率が低いコミュニティの特徴を岡は以下の5つにまとめた。
(1)いろんな人がいてもよい、いろんな人がいた方がよい
(2)人物本位主義を貫く
(3)どうせ自分なんてと考えない
(4)病、市に出せ
(5)ゆるやかにつながる
 これらのエートスはどのようにして生まれてきたのであろうか。岡は海部町の地理的な立地条件を歴史的に追っている。海部町というのは徳島県、四国の南西部、紀伊半島に突き出すように伸びた蒲生田岬から室戸岬まですっきりした海岸線をつくる太平洋岸のほぼ中央部に位置する。海部川の下流に開かれた港町である。川のあるせいで、江戸時代には大坂相手に木材を商って賑やかであったらしい。ことに大坂夏の陣で大坂の街が焼き払われたときには、上流域から川を通じて材木が切り出され、流通加工の拠点になったようだ。岡の説明では、そのときに海部の町に(たぶん四国各地からだろうが)多くの人がやってきて、職人として仕事に従事し住み着いたという。つまり、習わしの固着した共同体ではなく、いろんな才覚・習俗を持った人たちが寄り集って町をなしたがゆえに、ここまで記してきたコミュニティの規範感覚を培ってきたのだろうと推測している。
 5つの「自殺予防因子」とそれから派生する規範感覚を表すいろんな言葉を、岡は拾っている。
 (1)について「ああ、こういう考え方、物の見方があったのか。世の中は自分と同じ考え方の人ばかりではない。いろいろな人がいるものだ」と、多様性のもたらすカルチャーショックを吸収していると。それによる弾力性と順応性を指摘する。
  あるいは、同調的に話題が進行しているときにそこに異質な視点を投げ込んで、一方向に過度に進行することを切り替える「スウィッチャー」がいると分節する。つまり、他者への関心が不要というのではなく、関心は置くが監視はしないという「かんけい」の微妙な要点を掘り出す。
 それは「状況可変」を念頭に置いている。社会関係にせよ人間関係にせよ、不変を前提にしていると「関係」は固着する。たぶんそれは、人を概念化してとらえ、我が心中にバカの壁をつくることを意味しているといいたいようだ。つまり別の言葉にすれば、「人は変わる」と海部町の人たちは思っているということである。
 だから「やり直しのきく生き方」をしていると、「一度はこらえたれ」という「朋輩組」の事例などを取り出している。そのようにして紡がれた「かんけい」が「弱音を吐かせる」術にもなるとみる。「病、市に出せ」につながる。しかも、「援助希求」に対して言葉ではなく態度で反応することが、さらに「情報開示」の心理的負担を軽くしていると、個別的かかわりの大切さを見て取っている。
 総じて「賢い人が多い町」という町の人の言葉にも目を留める。「人の性や業を良く知る人たち」というわけである。
 岡は「自殺予防因子」を探る過程で、こうしたコミュニティの「かんけい」を拾い出したのであるが、これは同時に、家族や家庭や学校などの「かんけい」にも当てはまる在り様を示している。もちろんそれらが同質のかかわりを意味するわけではなく、コミュニティが上記のような「かんけい」を持っていれば、それに対応して変化する「かんけい」の位置取りをすることもみえてくるように思う。それが、「生き心地が良い」ことへつながっている。
 だが私が、この人は信用できると思ったのは、最後の「結びにかえて」のところで、「自殺はそれほど悪いことなんでしょうか」というある母親の問いに言葉を失ったことを率直に述べている。娘を自殺によって失った母親に対して、周りの人たちがきつく責める言葉と視線がその問いを紡ぎ出したのだ。「自殺予防因子」を探るのが岡の研究テーマではあったが、このことが転機となって「生き心地が良い」コミュニティの探求へと拓いていったと考えられる。
 人は、ひとつの哀しみに向き合い、それを深く受け止めることを通じて、一歩ずつ視界を広げていくのだと思った。(2015/3/22)


同行二人

2022-05-18 09:08:56 | 日記

 19番札所へまず立ち寄り、菅笠を被り「南無大師遍照金剛」と書かれた白衣を身につけ「同行二人」と記した頭陀袋を首から提げる。輪袈裟や数珠、金剛杖はもたない。信仰心がないことを隠さない、金剛杖は重すぎるから軽いストックにする。つまり我執である。
 着替えると、すこしお遍路気分になる。お大師堂に蝋燭と線香を献げ、「般若心経」を詠み上げる。暗唱するのではなく詠むのが正しいと、後の遍路宿で何度もお遍路をしている方から聞いた。私は何度詠んでも覚えることがないから、なぜかは聞かなかったが、その後ずうっとなぜだろうと考えている。暗唱するとリズムが心地よく響き、意味を考えなくなるからではないかというのが、とりあえずの私の結論。ついで本堂に行って同じように灯明と線香を献げて般若心経を詠唱する。
 そのとき、左片隅の方から訴えるような、泣くような声が聞こえてきた。本堂の両片隅にお大師さんの座像が鎮座している。その前で老婦人が泣き崩れるように声を忍びつつ振り絞っている。それはまるで、亡き人に詫びているようであり、縋っているようであり、お大師さんに訴えかけているようであった。そう言えばお釈迦さんに亡くなった我が子を呼び戻してほしいと訴え願う母親の説話があったと思い起こしていた。
 そうか、この方には「願」がある。願を掛けて八十八カ所を経巡ったときを「結願」という。こういうことが同行二人なのか。「願を掛ける」のは、「一切皆苦」という「苦」に向き合っていなければならない。それはよく分かる。そもそも社会的な施策は、人々の「苦」をどう始末するかを考えて建てられる。だから政策立案者や為政者は、基本的に人が生きる「苦」に向き合う「無知のベール」を被った地点で立案しなければならないというアメリカの哲学者の提案に、私は直感的に同意している。
 でも、私はこうした人生の悲嘆に向き合ったろうか。確かに戦中生まれ戦後育ちということは、社会的な混沌や悲嘆、貧窮を経験している。それは「苦」と呼んでもよいことだったが、いま、もう一歩根柢に降り立って振り返ってみると、「苦」というより逆に「希望」感じる。悲嘆・貧窮・混沌の中にいたからこそ、そこから暮らしを立て直し、新しい社会を再生する希望にあふれた立ち位置を感じることができていたのではないか。しかも日頃顔を合わせる同年代の人たちと共に、何を目指し何処へゆくのかを考える必要もないほど、社会的な共通感覚を抱いていた。「無知のベール」を被るも何も共通体験としてそれを知っていたとも言える。
 むしろアフター・バブルの「失われた*十年」と呼ばれるここ何十年かの方が、若い人たちにとって「苦」なのではないか。なぜ、なにをするのかさえ、一様でない。またその意味を、社会的にばかりか友人たちと共有することもできない。世の中の共通感覚さえも失われて、人一人ひとりの「本体」が確かなものとしてつかみ取れなければ、「我思う」という確信さえ確かなものとして感じられない。「わたし」って何かと自らの問いかけて茫洋呆ひとり然とするほかない苦難の中に放り込まれている。それこそが「苦」ではないか。
 この、人の世を認知する原点ともいうべき「一切皆苦」を共感することこそがお大師様との同行二人かもしれないと、立江寺の老婦人の嘆きを見て考え始めた歩きはじめたのであった。私の発心である。札所を参詣し般若心経を詠む。そうしながらどれほど般若心経の神髄を感じ取ることができるか。空海の足跡を踏み歩くのは、1200年前の空海の時代と今の社会空間がひと繋がりになっているという舞台の共通性と、その間に生じた大きな差異とを同時に感じ取りことではないのか。そう感じ取る最低限の共通性とは「歩くこと」に他ならない。空海が何を考え、どう始末しつつ、何をしてきたか。なぜそうしたのか。その土台は何であったかを、彼と共有しているのは四国お遍路という場と般若心経という言葉。それを、一寺一寺経巡り、その都度2回詠み上げながら感じ取ろうと、考えるともなく思いながら、歩き出したのではなかったか。
 じつは当初、参詣という心持ちをしていたわけではなかった。まして「願を掛ける」気心はもっていない。ただ、人生の「苦」に、周りのあれやこれやに扶けられて気づかぬままに過ごしてきたのだろうか。あるいは、これから、向き合うことになるのだろうか。もしそうなら、これまで苦に向き合わなかったことは私の全くの幸運であり、その感謝を(何か大きなもの)天に伝えるのが「わたし」のお遍路だと内心のどこかで思っていたのだ。
 今思うとこの感懐は、歳をとったからの忘却が作用して苦しかったコトゴトをほぼすっかり忘れ、いろいろなことを能天気にやり過ごすちゃらんぽらんなわが気性に起因しているのかもしれないと、もう一人の「わたし」が呟いている。ま、それはそれで構わない。お遍路と、歩きながら胸中に浮かんできたよしなしごとや、身の程に堪えるように積み重なってくる「疲れ」をもう一度撮りだし、意識的に言葉にすることが「わたし」の愉しみに他ならないと感じつつ、書き進めている。


〈動物になること〉を待ち構える

2022-05-17 07:08:17 | 日記

 2021-05-16のブログ記事「ご報告(第16回)  脳裏に焼きついた記憶」が、いま読んでいる国分功一郎『暇と退屈の倫理学』と見事にリンクしていると分かる。
 国分は今昔の哲学者の文献を渉猟し延々整理してきた後に次のような結論を導き出す。
《人間がその他の動物と全く同じかといえば、そういう訳でもなかった。人間は他の動物に比べ、相対的に、しかし相当に高い環世界間移動能力を持っている。そしてその事実こそ、人間であることのつらさの原因でもあった。なぜならそれは、人間が1つの環世界にひたっていることができず、容易に退屈してしまうことを意味しているからだ。》
 ここで国分が言う「退屈」は、私が「(お遍路に)飽きちゃった」ということと同じ感触を讃えている。と同時に国分は、〈動物になることの日常性〉も指摘する。
《だが、人間はその環世界間移動能力を著しく低下させる時がある。どういう時かといえば、それは、何かについて思考せざるを得なくなったときである。人は、自らが生きる世界に何かが「不法侵入」し、それが崩壊するとき、その何かについての対応を迫られ、思考し始めるのだった。人は思考の対象によってとりさらわれる。〈動物になること〉が起こっている。「なんとなく退屈だ」の声が鳴り響くことはない。》
 国分が言う「とりさらわれる」思考状態を、私は「ヒトのクセ」と呼んできた。
 国分の論脈はこうだ。
 人間の環世界を支配しているのは習慣というルールである。その環世界の崩壊と再創造は日常的に起こっている。人が思考にとりさらわれること=〈動物になること〉は「ありふれている」。それは動物としてのヒトの環世界の再創造なのだ、と。つまり、その再創造した環世界を「楽しむことは思考することにつながる」。
《人は楽しむことを知っているとき、思考に対して開かれている》
 と結論づけて、
《……楽しむためには訓練が必要なのだった。(思考を促すものを)受けとる訓練となる。人は楽しみ、楽しむことを学びながら、ものを考えることができるようになっていくのだ》
 と、365頁までの渉猟の後に記している。
 この国分の著書が面白いのは、暇と退屈に関する古今の哲学者の著作を縦横に往来し整理して行く過程そのものを読み取ってほしいから、いわば一気通貫で読み進めてほしいと冒頭に記述している。気になることはあとにまとめる註記を参照して振り返って貰いたいと述べるのは、彼自身の身の裡に堆積している(人類史的な痕跡に)問いかけながら解き明かしていく航跡を、謂わば同時体験して貰いたい。その(読書)体験こそが、じつは、思考を促すものを受けとる訓練であり、かつ「暇と退屈の倫理学」であるという実践構造を持っている。そういう著作物としては希有な構成を試みている。
 というよりお遍路にかこつけていえば、じつはそういう追走というか、併走というか、いわば一緒に追体験してみようというのが「お遍路の(お大師さんとの)同行二人」ではなかったか。そう、振り返って考えている。
 私が飽きちゃったというのは、お大師さんとの同行二人を感じ取ることがどこかで薄れ、折角場を変えて四国まで足を運んだのに、いつの間にか(私の)近代の日常世界の「暇と退屈」が露出するような「お偏路」になっていた。そういう感触を受け止めたことを「飽きちゃった」と言葉にしたのではなかったか。もっと私に引きつけていえば、私が動物としてのヒトのクセにとりさらわれるには、日々(あるいは間欠的に)PCの前に座ってよしなしごとを書き付ける(緩るやかな)具体的作法が欠かせないことも意味している。
 国分功一郎はこう述べる。
《(思考は強制されるものだと述べた)ドゥルーズは(映画館や美術館に足を運んで)自分がとりさらわれる瞬間を待ち構えている。〈動物になること〉が発生する瞬間を待っている。》
 つまりジル・ドゥルーズにしてから、思考したくないのが人間であると考えており、「世界は思考を強いる物や出来事であふれている」とみている。その「思考の強制を体験することで、人はそれを受けとることができるようになる」。
《〈人間であること〉を楽しむことで、〈動物になること〉を待ち構えることができるようになる。これが本書『暇と退屈の倫理学』の結論だ》
 と、晴れ晴れとした気分を誇らしそうに差し出しながら、締めくくっている。「楽しむ」という言葉を(中動態を明快に提起した国分が)差し挟むことに私はちょっと抵抗を感じるが、ま、それはそれで世代的な表現の好みの差異が現れているのであろう。
 これは、去年4月の山での遭難事故以来、事故の顛末を記憶を遡って考え、リハビリを含めて「わたし」自身を対象にして「考えること」を楽しみながら、この1年間に私が過ごしてきた行程を総括する感触と重なる言葉である。
 国分功一郎は1974年生まれ。私の子どもの世代であるのに、違った経路を歩いて、似たような人間観と世界観を持っている。それを知って、面白いと思っている。私は全く市井の暮らしを歩いてきて、ここにいる。国分功一郎は西欧の言語と古今の哲学書を読み込んできて、似たような感懐を抱いている。その、学者としてではなく、立論の起点に同じ社会を生きる市井の民をおくことに、なにがしかの時代的な共通感覚が培われているように感じ、嬉しく思っている。


「わたし」の世界が狭まってきている

2022-05-16 05:42:25 | 日記
 
1年前と同じ「状態」

 まだ、わからない外出の仕方 緊急事態宣言が解除されるところが出てきた。首都圏は、相変わらず、「外出自粛要請」がつづく。最初の発表のときから、よくわからないことがあ......
 

 こうして、1年前、2年前と今年とを較べてみると、「わたし」の佇まいが浮かび上がる。今年は「お遍路帰り」である。コロナに関していえば、遍路宿で若い人たちを交えて夕食を楽しんでいるときに「濃厚接触者」になっていても不思議ではないが、幸いにもその後感染した形跡がないから、こうして無事に戻ってきている。振り返ってみると、夕食の時にマスクは外しているし、若い人たちはお遍路をどうやっている、何が面白いとおしゃべりに興じていた。全く警戒はしていない。つまり「自助」によるwith-コロナが日常化していたということだ。

 お遍路帰りの私は、こうしてPCの前に座って、日長よしなしごとを綴る。それはそれで身の振る舞いとして定着しているが、ひとつ大きな変化が起きていることを感じている。集中力がガクンと落ちた。本を読み続けられない。疲れを引きずっているのかもしれないが、読み始めて半時もすると飽きてしまう。一冊、興味津々の本を手にして118頁ほど読んでいる。国分功一郎『暇と退屈の倫理学』(太田出版、2015年)。お遍路から帰ってきたら(出発前に)予約していた図書館から「届いています」とメールが来ていた。

 お遍路に飽きちゃったという気分が、一体どういうことなのかを合わせ考えるのに恰好の本。全部で437頁もあるのに、一週間経ってまだ四分の一しか読み進めていない。ほかにも『いのちの政治学』とか『生物はなぜ死ぬのか』などの面白そうな本も届いているのに、積んだまま。なぜだ、これは?

 86歳の方が老衰で亡くなったと友人が話している。彼は「高齢化のために身体機能が劣化してなくなる場合が老衰なんだね」と笑っていたが、そうか、経年劣化のために躰が思うようにならないのを老衰と呼ぶとしたら、「わたし」の集中力がなくなって本が読めなくなったというのも、老衰の徴候と見た方が良さそうだ。本が読めないだけではない。TVも観つづけることができない。面白くないと、なぜかすぐ分かる。ドキュメンタリーとか、自然の記録とかはそうでもないが、それでも興味関心が持続しない。なんだか、「わたし」の世界が狭まってきている。

 お遍路で身体能力が数え80歳になっていると痛感した。だがじつは、骨や筋肉や運動能力が劣化しているだけでなく、もっと本源的な内臓の力が衰えている。呼吸器系や循環器系、消化器系の衰えが身の奥深くから「状況」を伝えてくる気配を受け止めている。それが歩いている気分に響いていると感じ続けていた。疲れというのが、骨や筋肉の衰弱と快復力のなさというだけでなく、もっと奥深い躰の機能不全が始まっていることに起因すると、ひたひたと感じられてきたのだ。

 それが「飽きちゃった」ことと関係があるのかどうかは、わからない。「わたし」がそういう言葉しか持っていないから「飽きちゃった」と表現してるかだけなのか。「飽きちゃった」というのは、「わたし」と外部との「関心の緊張関係」が希薄になっている表現である。だが外部との関係ではなく、「わたし」の内奥の劣化が「緊張関係」の感受を希薄にしているとしたら、劣化とか老衰というのは、「わたし」が「せかい」から退出しようとするわが身の裡側からの発信ではないのか。そう思ってわが身の「状況」と「寿命」ということを考えてみると、「せかい」が狭まることと彼岸に渡ることとの関係もみえてくるように思った。