mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

ユメとウツツを分かつ「匂い」

2020-02-17 17:56:17 | 日記
 
 第72回カンヌ国際映画祭では韓国映画初となるパルム・ドールの受賞をしたと評判を聞いて、映画『パラサイト 半地下の家族』(韓国、2019年)を観てきた。ミーハーだ。面白かった。
 上流階級を嗤うわけでもなく、下層階級を蔑むわけでもなく、その違いを軽々と越境して上流の味わいに身を浸すユメをみる。ユメとウツツの分節点を分かつのは「匂い」だ。上流には上流の匂いがあり、下層には下層の匂いがある。軽々と越境しているように見えるのはフィクションの世界、と。
 そうだからか、この映画は、「ブラック・コメディ」と分類されている。「パラサイト」というタイトルは(上流階級に寄生するという)自虐なのか。
 
  思い出すのは去年同じくカンヌ映画祭の最高賞を受賞した『万引き家族』(日本、2018年)。しかしこれは、「ブラック・コメディ」ではない。(日本という共同性を物語り化した「くに」の)「内部告発」だとまで言われたほどの、リアリティを湛えていた。上記の韓国映画との違いは、国家権力が(画面に)顔を出すか出さないかによる。「万引き家族」は、ほぼ全面に法的言語で覆われてしまった社会の悲憤を浮き彫りにしていた。
 「パラサイト」では北朝鮮という外圧が歴然と見えているがゆえに、(韓国内では)国家権力が眼前に浮かび上がらないことを暗示しているのか。痛めつけられている、より下層の人が金正恩の核に模して、自分たちを脅す下層の人たちとの立場を逆転させるネタを「これ一つですべてがおしまいになる」と宣告する。上流階級は、その場面では審級者という、第三者の立場を保っている。そのフィクションを一挙に覆すのが「匂い」だ。覆して上流階級をも巻き込む騒動へと展開して行ってユメに戻る。
 
 「万引き家族」は映画を見終わっても、地続きのウツツが彷彿と浮かび上がる。では「パラサイト」を観終わった(韓国の)人たちはアハハハと笑って、席を立つのだろうか。上流階級をいてこましている下層階級のフィクションの巧みさに酔うだろうか。それとも「匂い」の強烈さに、ウツツを取り戻すのだろうか。
 「ブラック・コメディ」のブラックというところが、どれほど韓国社会に食い込む力を持つのかどうか、興味が湧く。反日の運動などを見ていると、内部的な「匂い」に敏感とは思えない。いつも「外」と「内」がひと固まりになってとらえられているような感じがするからだ。これぞ、スティグマ、だね。

霞に取り囲まれてボーっと生きて「幸せ」

2020-02-16 12:58:54 | 日記
 
 平野啓一郎『ある男』(文藝春秋、2018年)を、旅の往き帰りに読んだ。この作家が芥川賞をもらった作品を読んだとき、ずいぶん衒学的というか、メンドクサイ作家だと思った印象がある。フランス哲学に通暁していることがそのまんま前面に露出しているような生硬さではなかったか。ところがこの作品、この作家の文体が日常の暮らしの地面に足をつけて歩き始めたような、落ち着きと平明さをもっている。いや、作品中の主人公の語りにも、ルネ・ジラールの言葉を引用して話をした後に、その硬さを自ら揶揄するような書き込みがあった。最初の作品から二十数年を経ているこの作家の変遷があったに違いない。
 
  面白かった。一人の男の生き方を、ごく自然な語り口で、このように多面的な切り口を見せつけつつ描き出すというのは、なかなかの手練れ。何度か読み返すごとに新しい感興が心裡に湧いてくるに違いないという確信が、浮かび上がってきた。
 それは、「わたし」を解体し、その身につけて生きている「かんけい」のことごとを解きほぐしてみせるに似て、つかみどころがなく、しかし、間違いなく受け継いでいっている「なにがしか」の手ごたえを感じさせる、そこまでたどり着こうと深く深くへ潜り込み、ふっと呼吸をするために水面に顔を出したような、手堅さとでも言おうか。
 
 ボーっと生きているのが人生とつねづね私は思ってきたが、それはいつも水面に顔を出して泳いでいるからだ。水面に顔を出すこと自体がムツカシイ状況に置かれたとき人は、呼吸を止めてひっそりと水面下に潜る。その潜っているときにボーっと生きているわけではない「人生」に思いをいたし、ふと、「名前」ってなんだろう、それに取り付いている「万世一系」とも称される先祖代々ってことの「現在」って何だろうと考えると、私たちの取り結ぶ「かんけい」の実態が霞みはじめる。「わたし」一人がボーっと生きてるだけではなく、「わたし」と「かんけい」を取り結ぶ相手も組み込んで考えてみると、まさしく私たちは霞に取り囲まれてボーっと生きてる「幸せ」を感じるばかりではないかと、この作品は呟いている。
 
 この作品中に「スティグマ」という言葉が飛び出す。殺人犯の家族とか、在日といったかたちで貼られてつかわれている。汚名とか汚辱というニュアンスをもって貼られた「レッテル」である。広辞苑では「社会における多数者の側が、自分たちとは異なる特徴を持つ個人や集団に押し付ける否定的な評価」とスティグマのことを記している。
 しかしじつは、善悪の価値的な物言いを抜きにして言うと、私たちヒトは「スティグマ」を抜きにしてはモノゴトを観ることはできないのではないか。栄誉とか名声という肯定的評価も、レッテル貼りである。つまりヒトは、「概念化すること」によってモノゴトを安定的に「わがもの」にする。たまたま日常的に通用している「スティグマ」は否定的な評価を意味しているけれども、肯定的な評価もまた、「わたしのせかい」をかたちづくるうえで欠かせない「概念化」に作業である。
 
 先ほどとりあげた「名前」もまた、「概念化」することによってわが胸中の「ひと」としてイメージが定着する。とすると、善悪の価値的な評価が付け加わるのは、「社会的な多数者の側」があってこその表現である。だから「名前」は通常、その個人を特定する人の価値意識の反映であって、それが名声であるのか汚名であるのかは、社会的な多数派の価値意識に乗じて自らの「わたし」を「正当化する」個体の傾きといえる。
 なぜ、この「わたし」の「正当化」が必要なのであろうか。「名前」もそうだが、「わたし」はどのような「万世一系」に連なっているのかという「証」が、自己存立の根拠となるからだ。逆にいうと、霞にとり囲まれてボーと生きていて「幸せ」ということの「不安」が根拠を求めるからである。ボーっと生きているわけじゃないことを、つねに繰り返し自らの輪郭を描くことによって明かす以外にないと思えるのだが……。

Mwさんの野鳥園

2020-02-15 21:28:50 | 日記
 
 4日間、最果ての島へ鳥を観に行ってきた。与那国島、日本の最西端。同緯度にある対岸の台湾まで111kmという海のなか。その反対側、東に西表島や竹富島、石垣島などの八重山群島が点在する。
 たいして疲れているとは思えなかったのに、今日の午前中にブログの書き込みをするのが、なとなくカッタルクなり、茫茫と時間を過ごしてしまった。この程度の旅が身に堪えているのかもしれない。
 
 旅は、面白いものであった。与那国島を訪れたのは二度目だが、鳥観のやり方によってこれほどに違うのかと思うほど、新鮮な驚きの連続であった。まるでガイド・Mw さんの野鳥園かと思うほど、何処に行けばナニがいるとわかっているかのような、運び方。掌を指すという常套句があるが、まさにそれを地で行くようなMw さんの案内は、目を瞠るようであった。
 しかし彼は、この地の人ではない。石垣島に住んでいる方。与那国島のガイドも引き受けてやっているそうだ。それも、聞くとただのガイドではない。与那国のガイドを初めて引き受けるときには、あらかじめ台湾の鳥を観に足を運び、ほぼ全部観るべきものは観てきて、与那国に現れる鳥の同定に迷うことがないように準備したという。つまり、鳥がどのように動くかということを想定して、それを先回りしてこそガイドが務まると考えているようだ。いや、その通りだと、案内される側の私も思う。彼はそれを、「生態的」と表現していた。
 
 到着して荷を置くとすぐに探鳥に出発する。レンタカーで島のそちらこちらを観て回る。
 長径10km、短径4kmほどの、つぶれた楕円形をしている島を周回する道路は20kmあるという。集落はおおよそ三カ所に固まり、島の1/3を占める南東側は、深い原生林と牧場になっている。標高にして200mほどの山が背骨をなして連なる。道が縦横にできている。それを熟知しているように自在に走る。何処に樹林が密生しており、何処に草原が広がっており、何処に田や畑があるか。何処に馬が、あるいは牛が放牧されているか。それらを知り尽くしてこそ、そのどこにどのような鳥が餌をもとめ、身を隠し、集まっているかを知り尽くし、なおかつ、風や雨やの天候と明るさと草草の生育状況とを推し量って、鳥が次にどこにどのように現れるかを推察し、私たちを案内する。
 まことに見事な手際のガイドぶりであった。
 
 翌朝は、夜明けの40分前に宿を出る。こんな暗いときにどうしてと、私は思う。ところが、山にかかる林道に入ると、時速4km以下でのろのろと車をすすめる。ライトのなかに、鳥が飛び交う。シロハラだとかヤマシギだとか車内の声がささやく。窓を開ける。ガイドの彼には声が聞こえるらしい。私には、何も聞こえない。やがて明るくなり、鳥の姿も見えるようになる。それまでの30分間の暗闇ガイドは、なかなかスリリングであった。鳥がどのように生きているかを目の当たりにする醍醐味を味わった。
 
 いったん朝食を取りに宿に戻り、その後にまた出発。午后1時までの4時間近くを観て回り、空港のレストランで昼食。レストランの壁には、与那国島から台湾の山並みが見えるおおきな写真が掛けてある。女将は「台湾が見えるのはね、台風がくる前よ。直前の3日間だけ、雲も霧も晴れて向こう岸が見えるのよ」と熱を入れて話す。こればかりはわが家の自慢と謂わんばかりだ。ガイドのMw さんは、この写真を撮るためにここに来たいと、レストランの女将と「見えたら飛んでくるから電話で知らせて」と頼んでいる。そのはずみで、ガイドのMw さんと女将とが遠縁であることがわかる。面白い。
 
 午後も、夜の6時20分まで探鳥の限りを尽くし、一度観たものも、もう一度しっかり観ようと同じところに繰り出して、目を凝らす。あるいは、広い草地の一角に姿をあらわした鳥を観るために、その近くに車を寄せ、構えたカメラの角度が定まるようにと向きを変え、撮影を促す。いや、これほどに至れり尽くせりの鳥観に出会ったのは、はじめてのことであった。
 
 翌朝はさらに20分早く出て鳥を観ようと、案内される方もますます意欲的。朝5時半に起きて出かける用意をする。しかもそれが都合4日間。私のようなずぶの素人にはもったいないほどの鳥観の旅であった。本当に鳥狂いとしか言いようがないほど、取り付かれている。その人たちの夢中になっている姿が、また、なんとも麗しく思える。私などの過ごしてきた人生が、どこかで道を踏み外しているような気がする。
 
 
  まず、与那国島の道を、こまごまと知っている。何処を行けば行き止まりだが、Uターンをする余地があると知っている。
 ほぼ4年前の3月に初めて訪ねたときの与那国島は、羽田と同じような低い気温に雨、北風が強く、寒い島という印象であった。今回の三日間は、三日目に雨らしい雨になったが、曇り空。最高気温26℃、最低気温23℃と、ほどよい夏の暖かさ。半袖姿もずいぶん見かけた。風も涼しく心地よい。3月は雨期というのが普通だそうだから、今年の気象が異常というわけか。石垣島に住むMwさんは、最低気温16℃で「寒かった」と愚痴をこぼしていた。
 那覇から乗り継いで到着した石垣島は、すでに田植えの終わった田圃もあれば、これから水をいれようと田起こしをしているところもある。二期作だからどの農家もが同じように田植えをするわけではなさそうであった。いつもなら雨期になる与那国島は水が少ないようであった。渡りのシーズンになると与那国島に立ち寄る鳥も増える。「台湾の鳥がくるから」とMw さんは、
 
 
 
 石垣島の空港が2013年に新しくなり、那覇で乗り換えることなく羽田から直行できるようになった。約1900km、わずか2時間半。そこで乗り換えて、さらに西120kmほどにある与那国島へ向かう。40人も乗れば満席になるプロペラ機がぶるぶると機体を震わせて飛び立つ。「天候によっては引き返してきます」と表示してある。島の北側にある滑走路に西側から回り込んで向かう。荒れる波が島の断崖にぶつかって高いしぶきを上げる。北西風が強いのだ。車輪がそろりと出てきて、ドンと軽い響きを伝えて滑走路に降り立つ。「離島便の機長って、うまい人が多いんだ」と誰かが話している。
 羽田を飛び立つときと気温が変わらない。雨具を着てちょうど良い。湿度の高さがじとっと感じられる。原野にぽつんと開かれたような空港の南側には標高にして200mほどの山が、滑走路に並行して尾根を連ねる。 長径が10km、短径が4kmほどの、つぶれた楕円形をしている島を周回する道路は20kmあるという。集落はおおよそ三カ所に固まり、島の1/3を占める南東側は、深い原生林と牧場になっている。
 探鳥というのは、森林原野や谷合いや田んぼのあるところを経めぐることが多い。港や海辺なども、砂浜の見える干潟が好適地だ。街中の公園や神社仏閣の森にも群れる鳥はいるから覗いてみるが、どちらかというと、「ふるさと」の感触を残しているところを観て回る。私などは名前を知らない初見の鳥が多いから、「ふるさと発見」というところだ。遠くに出かけてみるというのも、遠くにありて思うそれと似ている。優れた探鳥家たちの後にくっついてみているのだが、彼らの眼はただものではない。樹木のあいだ、枯れた草原の隙間から覗くちょっとした影をとらえて「いたっ!」と目を凝らす。たちまち周りの皆さんの双眼鏡やスコープがそちらに向き、「あっ、いた。ギンムク」と一人が言う。「カラムクもいるっ」と別の一人が言う。「足が赤いのが見えた。ギンムクだね」とさらに別の一人。「コムクもいるんじゃないか」とさらに目を凝らすという具合。もちろん場数が違うから、彼らの眼がいいのにはそれなりに熟練が加わっているのだろうけれども、何百メートルも先の田んぼの畔に隠れるようにしているシギチドリの類、一つひとつに目を凝らして吟味する。コチドリ、シロチドリ、タカブシギ、イソシギ、ツルシギ、アカアシシギ……、と見分けていく。その丹念さ、吟味の厳しさ、わからないときはわからないと棚上げにする潔さ。見かけるごとに、さすが、なるほどと、感嘆する。彼らはみているのに、いくら探しても私には見つからないことも、しばしばあった。
 与那国島は滞在した3日間とも雨、曇。陽ざしはなく、風が強く吹いていた。レンタカーを借りて回って気づいたのだが、苗床は十分に育っていて、水田は水がいっぱいに満たされて、もう田植えに取りかかっているところもある。二期作のようだ。思えば台湾と100㎞ほどしか離れておらず、同じ緯度。泊まったホテルのフロントには、9月の晴れた日に撮ったとされる台湾の遠景が画面いっぱいに海を隔てて横たわっている。自衛隊が大掛かりな工事を進めている。ダンプカーがひっきりなしに往来している。尖閣諸島のことなどもあって、自衛隊の基地を整備しているのだ。それによって何百人かの自衛隊員と90名余の家族と17人の小学生が移住してくるので複式学級が解消されると、活気づくニュースもあった。自衛隊の移駐に伴い、「生活物資の低価格化」をすすめるための補助金という記事もあったから、島の人に暮らしは自給自足のほかは島外からの物資によって支えられているのであろう。食べ物が豊かという印象は、あまりなかった。「自衛隊反対」の横断幕も掲げられている。「八重山毎日新聞」には与那国につくる自衛隊の基地によって自然環境が壊されるという論調も掲載されていた。にわかに緊張感に包まれているのかもしれないが、考えてみると中国との地勢的関係では、台湾の影に隠れるように与那国は位置している。尖閣というより、台湾問題の「国際支援」バックアップという趣が大きいのではないかと思った。
 私の初見は、シロガシラ、ホオジロハクセキレイ、ムネアカタヒバリ、シマアカモズ、ギンムクドリ、コホオアカ、オサハシブトガラス。二度目というのが、オガワコマドリ、シマアジ。スコープに入れたのをしっかりと見させてもらった。
 「どなん」という泡盛が地元の特産だという。ほかに「与那国」というのもある。「どなん」ってどういう意味? と、空港の売店のオバサンに尋ねたら、「この島の地元の呼び名。与那国というのは地図に載ってる名前よ」という。アルコール度数が60度もある。国内ではここだけで作っている度数、だそうだ。43度も30度もあるが、「水で薄めただけだから」と度数の高い方をすすめられた。お湯で割ると甘い味が口中に広がる。野菜が少ない。お魚も、刺身のような生ものが出なかった。私たちの泊まったホテルだけのことなのか、与那国島全般がそうなのかはわからない。
 
 与那国島はMw さんの野鳥園のような楽園に思えた。4年前とは180度違う印象を抱いて帰ってきた。

統治の歴史観と暮らしの歴史観

2020-02-10 14:40:58 | 日記
 
 断捨離の入口でうろうろしていたら、古い新聞の切り抜きに小浜逸郎がJICC出版から出ていた「ザ・中学教師」シリーズの変遷に触れて、私たちの活動を評している記事があった。当時の埼玉教育塾(のちのプロ教師の会)が「反動的」ともいえる言説を展開しているのは、世に蔓延るリベラルな人たちの「教育論」が「教育の核心」になることを欠いていることに苛立っているからだ、とみている。小浜自身も、埼玉教育塾の言いたいことには賛同するが、しかし彼らが現行システムを前提にしているスタンスが「反動的」だと言い、小浜自身はもっと改革をすすめる視点を組み入れると結論的に主張している。今から30年ほども前、1991年頃のことだ。
 
 これを読んで思い出したのは、現象学哲学者として当時知られていた竹田青嗣が、埼玉教育塾の諏訪哲二に「教育改革にそれほど提起したいことを持っているなら、どうして文部官僚にならなかったのか」と問うたことであった。やはりJICC宝島社の何周年かの記念行事で同席したときであったと思うから、30年程前の話だ。そのとき私は、ああ、この人は統治的に社会をみているのだと思ったことを憶えている。
 だがいま振り返ってみると、国家社会を考えている知識人とかエリートというのは、統治的に社会をとらえるしかないのかもしれないと、思う。それに対比していうと私などは、社会を変えるということも「下々の方からどう変えるか」と考えていることが浮き彫りになる。
 つまり国家権力をつかって法国家の統治システムを変えるという発想を持っていないのだ。当然それは、竹田青嗣が考えるような「上からの改革」をする立場にないのだから当然である。だが、「上からの改革」「下からの改革」という違いの持つ意味は、立ち位置の違いだけなのであろうか。
 
 つまり社会改革をしようとするとき、「上からの改革」というのは法制度の変更であり、それによって人々がどう動くかを予測して立案される。そこには、人々の動きを想定したり、あるいは操作したりする意思が働く。ところが人々は、阿諛追従することもあれば、さぼり反抗することもある。「上からの改革」は、文化的な齟齬や落差や違いを想定することができないから、動きにばらつきが出てしまう。それを避けようとすると、たとえば国旗国歌法のように、起立斉唱を要求して、口パクも処分するなどという、おかしな子細処方を現場に提示し、職務命令で実施するような破目になる。これは「改革」といえるだろうか。
 「下からの改革」というのは、その「改革者」のいる現場だけで通用する「改革提案」である。いうまでもなく、その現場で起きている事態に対して、その現場に居合わせる者たちが、その現場に作用する「振る舞いの論理」にしたがって、行われたり、抵抗を受けたり、うまく運んだり、頓挫したりする。つまり全国区の普遍性は持たない。だが逆に、法で決まっているからやるんじゃない、この私たちの現場に必要なことだから行うのだという、切迫感を居合わせる人たちが共有する。それを実現するためには、居合わせる人々の了解が必要であり、合意とまではいかなくとも、せめて邪魔しないという遠慮を得る必要がある。
 そのベースになっているのが、日々の働き方であり、教師としての信頼を寄せられるに足る人柄や文化性や実行力量であり、それ以上に自分たちで決定して実行しているという独立不羈の自尊心である。つまり、「改革者」たる現場教師は、その全存在において、力を発揮していなければならないのだ。実効性をともなわない単なる「提案」は、簡単にすり抜けられて、店晒しになってしまう。
 
  このような「現場における日々の実践」を行っていたから、私はときどき、お前のやっていることはアナルコ・サンジカリズムだと、政治活動の達者から批判されたこともある。あるいは、アナキズムと一緒だと非難を受けたこともある。だが、おまえのやり方は、この現場にしか通用しないサンジカリズムだと批判した人は、全国区に通用する普遍的な「改革」を夢見ていたのであろう。でも、一つひとつの「改革」は、そのひとつひとつが大切なものであって、それがほかで通用するかどうかが評価の尺度になるのはオカシイと居直ってきた。
 また、アナキズムだという非難には、レッテルはなんと貼られても構わない。もしそれが混沌を導くものであったら、混沌こそが、いまここに必要なことだったに違いないと、腰を据えた。
 
 そんなことを、古い「記事」を読みながら思い、そうか「上からの改革」というのは統治的歴史観と同じで、人びとが「暮らし」を紡いできたフィールドとは次元の違うものなんだと思い当たった。国家の歴史なのだ。
 翻って私は、「暮らしの歴史観」とでもいうような、人々が紡いでいた「暮らし」をしようとしていたのだと思った。それが国家統治者の目から見て、ふさわしくないというのなら、勝手に言うがいいさ。統治目線に屈せず、独立不羈の旗を掲げて面白く突っ走ってきたわが前半生も、面白かったなあと、いまや無責任に世の中を眺めている。

断捨離は遅々として進まず

2020-02-09 21:05:51 | 日記
 
 古稀を過ぎて身辺整理をしようと思ったはいいが、まとめた本を売り払うのが躊躇され、結局部屋の隅に積んでおいて7年が過ぎた。自分の身のまわりの品々に沁みついている「かんけい」の匂いが、なかなか断ち切れない。本だけではない。
 仕事をしていたときにやりとりした手紙や書きつけ、あるいは、誰かのレポートやその片隅に書きつけてある私自身のメモ、生徒や学生や保護者向けや同僚の教師向けに印刷した「通信」や「週刊紙」なども、ちょっと目を通すと、その当時の情景が浮かび上がり、彼や彼女がそういうふうにものを考えていたのかと、今の目で読み取りながら、しかしたぶん、そうは読み取らなかったであろう当時の目の至らなさに思いが及んで、臍を噛む。そんなことをしていたら、断捨離は遅々として進まない。
 
 ちょうど正月、息子が新居を手に入れ、近々引っ越しをすると知らせてきた。そうか、ちょうどいい機会だ、私の本棚を一つ、譲ってやろう。そうなれば、いやでも書架ひとつ分を始末しなくてはならない。そう思った。どちらがいいか、持ち掛けた。後に、小さい方がいいと返答があった。1月のちゅうじゅんであったろうか。
 どうやって片付けようかと思案しているうちに、だんだん手を付けるのがめんどくさくなり、放ったままにしていた。3月に関西へ行く用があり、ならばそのついでに車で名古屋まで届けてるのがいいかなどと算段しているうちに、もう上旬が過ぎようとしている。
 
 とうとう今日、手を付けた。まず本をいくつかまとめる。始末するつもりで7年間も放り出しておいた本の束を、別室へ運ぶ。7年間のあいだに本棚はまたいっぱいになっている。それをまとめる段ボール箱をご近所のスーパーからもらってきて、詰める。CDや録音テープ、録画テープ、フロッピーディスクなどが、ずいぶんとある。カメラやプリンタやスキャナーやあれやこれやの機器類とその取扱説明書が、溜まっている。もう使っていないものばかりだが、棄てられないんだね、これが。
 印刷物を見ていると、それを書いた人の顔が目に浮かんで、どうしているだろう、ヤツは、と思ったりする。あるいはこちらの書いたものを批評している雑誌や新聞記事の切り抜きなども目に止まると、一通り全部読んで、当時この批評をいま読んでいるように読み取ったろうかと、当時の「わたし」に思いが飛ぶ。こうなると、もういけない。結局捨てるところは手を付けられず、とりあえず、段ボールに移して本棚を片付けられるようにする。
 
 解体してみて気づいたのだが、二列仕立ての本棚は、6つの部品に分けることができる。一番大きいのが、180cm×90cm×40cmほどになる。これを車に積みこんで運べるかどうか、心配になってきた。車の助手席を倒して計ってみると、長さは心配ないが、厚さの90cmというのが、ちょっとぎりぎり。そこへ180cm×40cm×40cmというのが3つもあるから、積みこめないかもしれない。参ったなあと、分けた本棚をみて思案投げ首だ。結局、配送業者にお願いするのが、一番いいかもしれない。今日一日が、それで暮れた。