mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

江戸を想う

2020-02-08 22:03:52 | 日記
 
 「新型コロナ」騒ぎで、横浜の港に豪華客船が足止めされています。医薬品や食料を補給しているのを見ていて、ふと、江戸末期に来航して、薪と水の補給を許可してくれと頼みこんでいた、アメリカの捕鯨船やオロシアの舟のことを思い出しました。国際的な交通が頻繁になると、このような事態になる。規模こそ違えど、国民国家の国境管理というのは、こういうことだと思い知らせるような事態ですね。
 
 もっとも江戸末期は、国際関係の交通がはじまった初期段階だから、閉じてしまえばそれでコトは半ば片づいたわけだが、今は逆。グローバル化といって部品生産も完成品の生産などの経済関係も世界各国に相互依存してるから、単に中国の悲劇ではすまない。日常的に国際交通が保たれてこそ、国内社会も成り立っている。閉じればそれはそれで、国内経済や諸関係に影響が出てくる。世界的な不況が襲ってきているとみることもできる。
 
  グローバル化が、資本家社会の論理に従って運ばれたために、生産コストの安いところで作った部品を調達し、消費地に近いところで組み立て販売するということが、文字通り地球規模で行われるようになった結果、国民国家の壁で「防疫」をしようと出入り禁止にすることと衝突している。もしこれが資源国の出入り禁止だったりしたら、今度は違った国々との衝突になるが、国民国家と経済規模の関係範囲が大きくずれるために生じているモンダイである。経済の都合を優先すると「防疫」に不都合が生じる。14世紀のヨーロッパで発生した黒死病(ペスト)の大流行になぞらえていいかどうかわからないが、ヨーロッパの人口の3分の1が死亡したという疫病の大流行も、百年戦争というイギリス王家とフランス王家の対立が絡む戦争という盛んな交通があった時代だ。それがいきなり、地球規模に広がって展開している事態ともいえる。
 
  歴史家に言わせると、黒死病は、百年戦争や百姓一揆の頻発とも相俟って、ヨーロッパの封建制度の大転換を迫る出来事であったそうだ。そういう目で見てみると、中国の「新型コロナ」に関する情報統制を意図した国家権力の隠蔽工作が、中国の一党独裁という共産党支配の仕組みを、見直すきっかけになるのかもしれない。中国の大陸権力にとては香港どころではないし、台湾などにかまっていられない。また機を見て敏なる謀略家たちのなかには、地政学的な視点ではかりごとを巡らすものいることだろう。もちろん、それの逆の動きも、蠢いてくるかもしれない。
 
 とすると、私たち庶民は、どう考えたらいいだろうか。防疫の専門家たちの話を聞いていると、もうすでに今度の「新型コロナ」を外国から入ってくる感染症ととらえるのではなく、国内の感染源が入っているものとして「防疫体制」を作る必要があると考えて、構えを作りつつあるそうだ。また、中国人とか湖北省人という出自による感染源ではなく、社会全体の感染症として考えて取り組む段階に来ているとみている。ここでも、ナショナリズムにとらわれることなく、社会全体として防疫対策を施すことを考えなければならない。不安をあおることではなく、基本的な感染症を防ぐ挙措動作とともに、ほかの人に移さない振る舞いをこころえなければならない。
 
 それにしても国内に発生した感染症と考えると、日本の人口12600万人の規模で一斉に対応するのは、多すぎると思う。地方分権ではないが、都道府県規模での細かい大作を考えなければならないと思うが、今日のTVで専門家が話しているのを聞くと、大阪府だけが「新型コロナ」の発見を視野に入れた保健所への通告対応をとっているそうだ。ほかの都道府県では「規定にない」として、受け付けていないという。厚生労働省が特段の指示をしていないと、動かないという「お役所仕事」だ。
 こういう緊急事態になると、その社会の「弱いところ」へモンダイが噴き出る。よくそういうことをかみしめて、見ていたい。どうせ自分の「防疫」くらいしかできない傍観者なのだ。しっかりと「傍観」することだけはやっておきたいと思う。

出遭いと出逢いの凡々たるミステリー

2020-02-07 09:40:36 | 日記
 
 つい先日訃報を聞いて手に取ったのがこの本、藤田宜永『大雪物語』(講談社、2016年)。大雪に包まれたK町を舞台にした6話の連作短編にまとめている。そのうち三つは、見知らぬ人と人とが思いがけぬ出遭いを、この大雪の中でする。あとの3話は縁のあった人と人とが思いがけず出逢い、縁に思いを馳せ、離れていた間の人の移ろいを浮かび上がらせ、落ち着いた心もちを醸している。その出遭いも出逢いのミステリアスも凡々たるもの。これは「落ち着いた心もちを醸す」物語の予定調和的な結末が結ぶ印象かもしれない。日常に足をつけて落ち着いてしまった作家の、辿る宿命なのかもしれない。
 
 図書館の推理小説作家の書架で、この作家の名前は見ていた。しかしこの作品は、ミステリーとは趣を異にする。吉川英治文学賞を受賞した作品とあったから手に取ったのではあったが、ふ~む、吉川英治ってこんな感じの作家だったっけ。もう半世紀も前に読んだ私の読後感がぼやけているのかもしれないが、「宮本武蔵」は、人物像への踏み込みの哲学性も深く、大作だったという印象が強い。「大雪物語」は一晩で読み終わった。読後の印象にも、これといったものが残らない。お茶漬けサラサラという感じがした。もっとも60代半ばになったら、誰でもそういう世界観をもつものだから、それはそれで成熟してたどり着いた地点とみても、悪くはない。
 視点を変えてみると、お茶漬けサラサラというのは、私自身のものの見方がそうなっているからでもある。吉川英治の「宮本武蔵」を読んだのは20代。勝手に深読みしていたのかもしれない。
 つねづね私を超える超越的視点は(仏教文化の風土にあっては)、遠近法的消失点にあると考えているせいもあるが、世の暮らしに追い込まれて犯罪者となって逃げ延びるときの出遭いのミステリーも、亡くなった母親の遺体を葬儀のために引き取って運ぶ途次に遭遇するデキゴトも、あるいはふだん暮らしている土地に大雪が降ったために遭難してしまって偶然にも救助される話も、すんなりと心裡に滑りこんでしまう。何の違和感ももたらさない。私の思い描く「せかい」というパッチワークの一片になって、その一角にぴったりと収まるタペストリーのように感じられる。
 
  つまり私自身が求めている「物語り」は、明らかに私の「せかい」に槍を突き立てるような切っ先の鋭さを求めているのかもしれない。崖から転げ落ちる恐怖。血が噴き出す恐さ。平地にいて鈍くなり、何事にも脅威を感じることなく、平々凡々と暮らしている自分への、ちょっとした嫌悪。傷つけられて痛みを感じるほどのものに出合えなくなっているわが身のだらしなさを叱咤するものを、求めているようにも思う。
 つまりこれは、年寄りの冷や水。年を取った自分の経てきた径庭を巻き戻したいという儚い願望の現れかもしれない。バカだねえ、この歳になってまだ、刺激的なことを求めて身もだえしているよと、嗤うようなことだ。
 ここまで生きてきたこと自体がミステリーなんだよ。凡々たるミステリーが人生なんだねと、すでに先立った方たちから告げ知らされているように感じる。

1年先への贈り物

2020-02-06 20:11:48 | 日記
 
愚民社会か選良の条件か(再掲)

  4年半前に記したこの欄の記事が目に止まった。いまも思いが変わらないなあと、読み返して思った。再掲します。 何かの本を読んでいて、宮台真司×大塚英志『愚民社会』(太田出版......
 

  5年前のコメントが、今も私の気持ちを引き締める。年に1回くらいこれを読んで、自省するのは、とても大切なことと思える。「庶民」という言葉に居直ったり、「プチ=インテリ」自戒することを忘れるなという意味でもあるが、同時に、「学者」にただ単にひれ伏す権威主義者でもないことを、ほんとうにそうなのかと自問自答するためでもある。そう思って、また一年先へ、このブログを送る。


春立ちぬ三浦アルプス山歩き

2020-02-06 13:12:49 | 日記
 
 晴れて暖かい昨日(2/5)、逗子駅東口前は、明るい陽ざしに包まれて通勤客でにぎわっている。着ていた羽毛服をザックに収めてバスを待つ。山歩講・日和見山歩の参加者が顔をそろえる。今日のCL・Stさんが地図を配り、今日の行程を説明する。
 ここから三浦半島をさらに南下するバスは混んでいない。わずか7分ほどで下車して、木の下登山口へ向かう。海から立ち上がって風雨に削られて残された半島だから、いきなりの急斜面。舗装されている。
「車が上るんだ」
「雨で濡れていたら大変だわね」
 とおしゃべりしながら上る。9時23分。
 
「あの建物のあるところが仙元山よ」
 と、Stさんが指さす。今日のルートの最初のピークが登山口からも見える。斜面の突き当りにある教会の左脇から登山道に入る。常緑照葉樹と大きなシダ、ヤツデ、シュロなどの、いかにも温暖地の植生が、朝日に照らされて「春」を感じさせる。15分ほどで仙元山に着く。
「富士山よ!」
 と誰かが声を上げる。振り返ると、相模湾が広がり、その向こうに雪をかぶった富士山がすっきりと姿を見せている。手前の江の島が、まるで海に浮かぶひょっこりひょうたん島のようにみえる。相模湾を仕切るように、対岸に長く南へ山並みが延びる。伊豆半島だ。
 手前には、海辺まで街並みがびっしり埋めている。この町の人は毎日この風景を見て暮らしていると思うと、住宅が密集するわけが分かるように感じる。
 
 カンノン塚へ向かう。冬枯れの木立を背の低い笹薮が取り囲む明るい道、やがて樹林帯に入り、木の根が剥き出しになって山肌を這い、その脇を避けるように山道がつづく。朽ち始めたような大木が、幾本も立ち並ぶ。なかにはねじれにねじれて強い風に耐えて成長し、何本かが支え合っているうちに一本になってしまったような大木もある。この木が言葉をもてば、何百年かのこの地の気象の定点観測を告げてくれるかもしれない。
「これって、危ないよね。台風でも来たら、倒れちゃうんじゃない」
 と先を歩く人の声が聞こえる。いかにも、いまにも、という風情の木が何本もある。
 標高200メートルほどの稜線を少しばかり上り下りしてくねくねと歩く。木立の間から、下の住宅の屋根が見える。と、斜面に根こそぎ倒れ落ちて、土をつけた根をこちらに向けている大木が、そちらこちらにみえる。いかにも昨年の台風というのもあれば、根に着いた土が年数を経て古びてみえるのもある。そう言えばここは、日本列島の南岸を通過したり、南の海から吹く風当たりの強い土地だ。近年、それがひどくなってきているから、ここに暮らすのも、いつも風光明媚というわけにはいかないかもしれない。
 「←カンノン塚」の分岐に来る。周りの木に、「木に直接ペンキを塗らないでください。葉山町産業振興課」と書いた張り紙をつけている。この地点で大きく左折するのがわかりにくくて、以前ペンキで方向指示をしていたから、業を煮やしてこんな張り紙をしたんですねと、CLのStさんが言葉を添える。そう言えば90度左折する「←カンノン塚」の標識は新しそうだが、「←仙元山・実教寺→」の標識は古びている。
 「はぜの木」と標識がつけられた木の幹に、左右に長く削り込まれた傷が、何本もついている。Stさんが「これって、リスがかじった跡です」という。「ハゼってかぶれるんじゃなかった?」とmsさんがつぶやく。やがて、かじり跡のついた木がいくつもあるのに気づく。古い傷跡もあれば、今日かじったんじゃない? というような生々しいのもある。ハゼの木ばかりじゃなく、サクラも、それ以外の大木もかじられている。リスが前を走ったとokdさんが声を上げる。リスが飛び込んだと思われる茂みをのぞき込んでいるが、とどまっているわけがない。
 
 カンノン塚に着く。歩き始めて1時間20分ほど。ここにも大きな木が撓み、寄り集まり、枝をいっぱいに広げている。この木にもリスのかじった跡がついていた。その根方に小さな石塔がある。これが「カンノン」の謂れだろうか。
 「←乳頭山3.4km」と標識にある。常緑照葉樹の尾根道はつづく。道を塞ぐように大木の枝がぽっきり折れている。自重の重さに耐えきれなかったか、台風のせいか、その両方のせいか。すごいねえといいながら通る。幹の途中が奇妙に360度ねじれたきもあった。どうしてこんなふうになったんだろう。
 椿の花が咲いている。上り口の方では花のまゝ落ちていたが、ここでは今満開という風情だ。
 あっ、これは侘助ですよとmsさんが指さす。ワビスケという名に、なかなか風情が漂う。お茶につかう花ではなかったか。
 
 小さな上り下りを繰り返し、「乳頭山2.3km」と標識がある。なのに、駅でもらったマップはこの周辺一帯を「道迷いエリア」と記している。
 道には「葉12」とか「D17」という地点表示の記号が記されている。「葉」というのは葉山町が設置したもの、「D」というのはダイワハウスが設置したもの、とある。ほかに逗子市設置の「ず23」とか逗子消防が用いる「ふ」(ふたごやま)とか、「ぬ」(ぬまま)というのがあった。「ぬまま」というのが逗子消防とかかわっているとはあったが何であるかは、とうとうわからなかった。消防署設置の地点標識は、もし遭難でもして助けが必要なときは、この番号を知らせろというのだろう。
 何しろこの一帯を「三浦アルプス」と称している。単なる地元の名称と思っていたら、YAMAPというアプリの地図でも「三浦アルプス」でこの一帯の地図が表示された。全国区で用いられている名称のようだ。
 「沼津アルプス」「皆野アルプス」「都留アルプス」「宇都宮アルプス」と、歩いたアルプスもずいぶんな数になる。日本語のアルプスというのは、「山並み」という程度の意味のようだ。
 
 背丈が高く密生した竹藪がある。道は刈り込まれているから難なく歩けるが、これが自然のままだと、行き止まりになる。途中の11時ころ、若い女性のトレイルランナーとすれ違う。もし彼女が田浦駅から来たのだとすると、この辺りが中間点か。向こうさんの方が足が速そうだから、4割地点か。その先の木に「乳頭山→」と手書きの表示が2枚縛り付けてある。そのうちの1枚はだらりと垂れ落ちている。それがいかにも、「迷い道」の核心部という風情で面白い。11時40分。「大桜」に着く。「←観音塚1.7km・1.7km乳頭山→」、ちょうど中央地点とわかる。ここでお昼にする。
 お昼タイムに、4月から12月までの山行計画を話す。日和見山歩の担当者も、帰るまでに決めてくれればと投げかける。八ヶ岳の縦走とか、日本の2位、3位の標高3000メートルの大縦走の話や大台ヶ原や八経ヶ岳の話もする。
 いつしか「蒜山て、すごいのよ、お花といい、周りの高原といいすばらしいの」という話が出る。TVでやっていたらしい。私が育った岡山県の北部の山だ。「行ったこと、あります?」と問われ、あるよ、いい山だね、(皆さんで)計画して行けば……、とそっけなく言う。蒜山だけ取り出していこうと言ったって、それより手前にまだっていない、いくつもの面白い山はある。中国山地の山にしたって、氷ノ山や那岐山も、六甲山もなかなか面白い。適度にピックアップして、その方面に旅する機会を見つけて歩かなければ、いけないものだ。
 
 35分の昼食タイムを取って、再び歩き始める。身体が重いと、食べた自分に愚痴りながら歩いているのが、可笑しい。また若い女性のトレイルランナーがやってきた。
 ツバキはいよいよ爛漫となる。また風で倒れて道を塞ぐ大木があった。その向こうには折れているのも見える。手入れはされているが、取り除くほどの力はいれていないということか。ね
 やっとここに来て、木々の間から乳頭山がみえた。なるほどこんもりと盛り上がっている。回り込まないと近づけないらしい。
 大桜から50分ほどで乳頭山に着いた。視界は開けない。わずかに木の間から横須賀港が見える。二子山からのルートとの合流点に来る。小さな表示が「田浦→」と見える。
 その先に5メートルほどの岩場があった。ロープを張ってある。Stさんはロープを使わずに右側を下る。okdさんはロープにつかまって左側を下る。mrさんは「どっちがいいの?」と聞きながら、左のロープをつかみ、msさんはさかさかと右の岩に足を置いて、身を降ろしていく。
 おっかなびっくりで下ってきたmrさんに「これがなくちゃあ、アルプスっていえないから」というと、ワハハと笑って、「これで終わり?」とSt さんに訊ねている。
 
 「田浦の梅林」につく。白梅が見事に花開いて、香りが漂う。下方に大きな横須賀港と海が広がる。遠方の山体には紅梅もみえて、春の三浦半島が暖かさにう~んと背伸びをしている感触が伝わってくる。
 梅林の中央に展望塔が立っている。そのらせん階段を上る。東京湾の中央部が一望できる。去年大楠山に上った時は、房総半島の尖端がみえたが、今回それは、前方南の高台に阻まれて陰に隠れる。遠方に左側を丸く切り落とした高層ビルがみえる。横浜港のランドマークだ。
 上陸禁止で停泊している「豪華客船はみえる?」とmsさんが身を乗り出す。だが、そんなには近くない。
 「あれ、東京湾アクアライン?」と誰かが指さしていう。
 ええっ、だったらその右の方に目につくビル群はどこなんだと思って、木更津と君津や富津の位置関係を私はすっかり間違えていることに気づいた。木更津の方が北にあるのだ。となると、そうだ、アクアラインの海に接するところは、海ほたるだ。しばらく、東京湾の賑わいを眺めていた。
 
 田浦駅近くの住宅地を歩く。標高差50メートルほどの崖に防壁を施して、上にも下にも住宅がある。「こわいわねえ」といいながら、St さんがokdさんと見ている。
 梅林から20分ほどで田浦駅に着いた。14時18分の電車が出たところであった。今日の行動時間は、ほぼ5時間。お昼を除くと、4時間半足らずだ。
 スマホの「機内モード」を直すと、びびー、びびーと何件かニュースが入る。ふとみると「逗子で崖崩れ」とある。下を歩いていた女性が巻き込まれた、とも。
 どこだろう。いま歩いて来たルートの際立つ急斜面と、つい先ほど歩きながらみた住宅地の「こわいわねえ」という声を思い出していた。

文化的・平和的に「防衛」を考えよう(4)人口減少時代の社会イメージ

2020-02-04 08:36:41 | 日記
 
 さてグローバル化が相当進展してしまった現在、日本の人口減少が経済衰退の動かぬ証拠と息巻いている経済学者もいます。その通りかもしれません。だがその論議には「現状を維持するには」という前提が、いつもついて廻っています。
 ですが、明治維新の頃の人口は3000万人。1945年敗戦時の人口は7700万人。2050年の人口予測が9700万人、2100年のそれが4700万人となったとしても、「かつて経験したことのない人口」というわけではありません。人口減少をなんだか、「日本沈没」のように取り沙汰されると、ちょっと違うんじゃないかと、思ってしまいます。
 
 このシリーズの(1)の末尾で、「私見をいえば」と断って、「ポルトガルのような国にしていってもいいんじゃないか」と夢想を記しました。
 ポルトガルがいまどのような国であると承知して夢想したわけではありません。ただぼんやりとかつて世界進出において「先進国」であったこと、その過去の栄光を振りかざすわけでもなく、ヨーロッパの(文字通り)片隅で、それなりにゆとりのある暮らしををしている人たちと思い、地勢的な位置のひっそり感といい、日本のそれなりの「先進性」といい、似たようなイメージを重ねてみたにすぎません。
 ポルトガルの面積は日本の4分の1、人口は11分の1(神奈川県の人口より1割程度多い)という小国。一人当たりのGDPは$23437USDですから、日本の$39303USDの約6割です。
 むろん数字で簡単に比較して人口減少の将来イメージを描いても、それで産業構造や社会構成が見えてくるわけではありません。まして、その国の人々がどれほどの「充足感」を抱いて暮らしているかとなると、文化も含めて考えなければなりません。
 数値的な比較だけでイメージしても、ゲンジツ的ではないですネ。
 
 そんなことを考えていたら、先週末(2/1)の朝日新聞で「フィンランド 理想郷?」という企画記事が掲載されたのが目に止まりました。フィンランドは「幸福度」調査でしばしば「世界1位」となって話題にされる国です。
 「?」がつけられているところが、この企画の面白いところと見受けました。こういう、疑問符をつけて世に蔓延るコトを検証しようというのは、批判的精神が起ちあがっているようで、興味を惹きます。
 なにより目を引いたのは、右上に大きくスペースを取って掲載している「データ」です。フィンランドの面積は「日本とほぼ同じ」ですが、人口が「日本の23分の1」とあります。何と、551万人。なんだ、3000万人の江戸末期を考えて、「まだ大丈夫です」って言っている私が、恥ずかしくなります。
 フィンランドの人口規模は、たとえば、現在の四国の人口(414万人)が18万人というのと、同じです。北海道の人口(528万人)が21万人でやっているようなものです。人口減少が、経済規模の現象であり、すなわち国力の衰退だとワイワイやりあっている経済学者たちを嗤うような小規模です。もちろん経済学者たちは「規模が小さいのは参考にならない」というに違いありません。でも、それだけの(国土の大きさをもっていて)小規模の人口で「世界1位の幸福度」を持っているって、すごいじゃないですか。なにか私たちの日本とは違う秘密を持っているのかもしれません。そう思ってフィンランドをみてみると、私たち(日本)自身の大きな考え違いが見えてくるかもしれません。
 
 じつはこのとき、パッとひらめいたのが、SeminarにおけるHさんの「国民投票」に関する発言でした。
 HさんはSeminarのとき、憲法改正にかかわる「国民投票」をどうして野党はやろうとしないのかと提起していました。ギリシャの「直接民主主義」に触れて、俺の意見も聞いてくれるってのはこれしかないのに、「国民投票法」そのものにどうして反対するんだよと、憤懣を野党に向けていたのです。Hさんは、今の政治に対する不満を「代議制」にぶつけたのだと思います。そのときは、しかし、憲法改正の国民投票というのが、「一括審議」のようになされて、結局一つひとつの項目に対する「国民の意思」を聞くことにならないという(今の政府与党に対する)「不信感」があるから、「国民投票法」そのものが遅滞しているのではないかと私は思ったし、Iskさんははっきりそう口にしていました。
 だが、このときのHさんの「俺の意見も聞いてくれ」という思いは「独立的自治」の思いだったのではないか。そう、今、考えています。
 1億2600万人という大人口の日本が、ほとんど中央集権的な政治体制とそれに依存する社会感覚のもとにおかれています。選挙が公正に行われている民主主義体制とは言え、代議制は政治そのものを「わがこと」という実感から遠ざけてしまっています。総選挙の投票だって、半分そこそこ。地方議会や首長選挙のときは3割にも満たないことがしばしばです。それは「無関心」といもいえますが、「わがこと」として感じることができないからです。
 
 この企画記事そのものは触れていないのですが、私が直観的に感じたのは、「独立的自治の実感」でした。フィンランドがそうだというのではないのです。
 日本の人口が500万人ほどだったら、政策課題の一つひとつについて、具体的イメージが湧きます。今、私が暮らす埼玉県は734万人。なるほど、これが一国であって、ここに住む人たちがどうやったら(皆さんが)安定して安心できる将来設計をし、混沌とした世界情勢の海をわたっていけるかと思案するのなら、私のような一介の市民にも何か云々(うんぬん)出来そうに思えます。国土の広さじゃないのです。まして、視野に収める面積が狭ければ、もっと具体的にあれもこれもと、考えることができます。
 ちょっと国土面積と人口とをフィンランドに比定すると、たとえばHさんや私の育った岡山県(現在の人口は200万人弱)の広さに棲んでいる人口はわずか4万人になります。もちろんフィンランドの冬季は氷に閉ざされた針葉樹の森が大部分を占めているのかもしれませんから、温暖な岡山県とは比べものにならないでしょう。だが、わずか4万人が「我が国」の将来をどうするか考えるのだとしたら、「俺の意見も聞いてくれ」などと悲鳴を上げる機会があろうとは思えません。また政治家たちも、口先だけのやりとりで問題を隠蔽したり先送りしたりするとは、とうてい考えられません。わずか34歳の女性首相が国を取り仕切っているというのも、容易に納得できます。
 
 それこそ、どこに誰がいて、どんな才能をもっているということまで、熟知することもできるでしょう。いや、逆か。そもそもそこに住む人の顔が見えていると、この人たちの今の暮らし、この子どもたちの将来が見えるから、政府の政策も具体的に思案できる。今の日本にそれができないのは、規模が大きくなりすぎているからではないかとも思うのです。
 そもそも江戸の時代は人口3000万人といいますが、当時の人がイメージする規模は藩でした。おおよそ300の藩に分かれていたわけだから、平均するとひと藩が10万人ていど。となると、藩主も家老も武家たちも、狭い領地もさることながら、そこに棲む人々を視界に収めるとき、具体的でないわけがありません。ま、その時代に民主主義はなかったとはいえ、村落は村落として(連帯責任を負わされながらも)ひとつの「行政単位」でもあったわけです。「お上」からの手配書も、村落の名主・庄屋に届けられ、それを書写して次の村落に廻すという仕組みだったようです。それゆえに、名主・庄屋など主な民百姓も読み書きが出来なくてはなりませんでした。
 因みに、その村に奇特な方がいて、村落の青年たちに読み書きを教えたと記した「顕彰碑」が私のいま棲んでいるさいたま市のご近所にもあります。それがあったから18世紀中ごろ(明治維新のとき)に、当時世界でも有数といわれる識字率50%があったのでしょう。自治と識字率とは、強い相関関係にあります。
 単に人口規模が大きくなりすぎているだけではありません。徳川中央政府と明治以降に引き継いで強化された(拠らしむべし知らしむべからずという)中央集権的なエリート統治体制が、しっかり国民性をつくってしまっていて、それが民主主義体制の下では機能しなくなっているのではないでしょうか。明治以降の中央集権体制は、農村解体として村落の自治的な関係も解体し、廃藩置県として中央統治を強め、官僚を中心軸としたエリート統治の仕組みを強固につくったと言えます。それは、第二次大戦の敗戦によっても解体されることなく、現在に至り、いまご覧のように日本のエリートは腐ってきているのです。
 となると、今私たちに提示されているフィンランドの教訓とは、私たちの暮らしにかかわることを自分たちが決定する自治の実現とみることができます。
 自治を保障するに足る財源の徴収権も中央政府から移譲してもらわねばなりません。自治実現のひとつの根拠です。それらができてやっと「防衛」を文化的・平和的に考えることのできるベースが整ったといえるのではないでしょうか。
 HさんがSeminarで「国を守る」と言っていた「くに」が「俺の意見も聞いてくれ」る「くに」であることは、間違いありません。それはまた、ひらがな書きのくに」にすると、「子や孫を守る」ことと同義にもなります。ことに近隣国からの、自由な「くに」を脅かす「脅威」を取り払うべく思案する具体的な根拠にもなります。国民皆兵だって、厭わない(コトの)重さが感じられます。
 
 グローバル化時代の「防衛」は、単に国民国家の境界線を死守するという意味では考えられなくなっています。まず、護るに値する「わがくに」を、国際関係の中においてつくりあげることです。そして同時にそれが、「俺の意見も聞いてくれる」社会関係と組み合わさっている。そこに戦後の私たち世代が歩んできた「価値」があると思います。
 「わがくに」がこれほどに魅惑的な仕組みのもとに運営され、人々の落ち着いたたたずまいをつくり、このような日々の営みがあるますよということこそが、近隣国に、あるいは世界の他の国々に向けて発信する文化的・平和的防衛力として、「ちから」になるのではないでしょうか。今だって、日本を訪れる中国人観光客に、それなりの文化的なメッセージは、伝わっているに違いありません。武力的防衛に費やす費用を、「くに」づくりに差し向けて、それを「防衛費」と呼んでもいいくらいです。
 そんなことを考えさせてくれたSeminarでした。皆さんはどうお考えでしょうか。