mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

お伊勢Seminar (3)七五さんの奏上をする

2017-11-29 15:37:57 | 日記
 
 11月28日。薄暗いうちに目が覚めた。カーテン越しに外を見ていた一人が「星が見えるよ」という。窓の正面に黒々と稜線をみせているのが、内宮の背にしている山。その右、東の方の空が少し明るくなってそちらから陽が昇るとわかる。
 
 朝食を済ませ、準正装をして内宮に向かう。正装に準ずる服装として、ジャケットはだめ背広上下にネクタイと、事前に案内役から知らせがあった。女性もそれに準じて「リクルートスーツのような……」と例示があり、まさか後期高齢者がリクルートスーツなんてねと不評であった。また、「退職したときに背広は始末してしまった。礼服しかないけど、まさか燕尾服をもっていくほどじゃないだろ」と慌てふためく人もいた。未だ現役自営業の一人は「昔の背広を引っ張りだしたら、腰回りがだぶだぶ、結局直してもらった」とぼやいていた。服が合わないというより、わが身の変貌が大きいと慨嘆していたのだ。
 
 内宮に入る手前の宇治橋に立つと、正面から朝陽が差している。鳥居に入る手前に、外宮同様、由緒書きが掲示してある。「天照大神は皇室の氏神であり……歴代天皇が崇敬しておられます」とある。だがこれまでにお参りした天皇は二人、持統天皇と明治天皇だけだという。「崇敬」にしては足が遠のいているのではないか。しかも、持統天皇は天照大神の鎮座することにした「初発の天皇」というから仕方がないとして、あとは明治天皇までないとすると、むしろ明治天皇の方に「何かがあった」と考える方が真っ当だ。明治以降の天皇制を薩長政府が最大限に利用したと言われていることから推察すると、天皇制国家(近代)日本を再生しようとお伊勢さんをも動員したと考えた方がいいのかもしれない。由緒書きの「私たちの総氏神でもあります」というのが、語るに落ちる。国民国家に氏神様が必要なのか、と。
 
 宇治橋を渡って五十鈴川を越える。外宮でも火除橋を渡って川を越えた。外宮も内宮も「彼岸」とされていることからすると、さしづめ三途の川ということか。五十鈴川の橋のたもとには桜が白い花をつけている。四季桜と聞いた。十月桜とか冬桜と言われるのと同じであろうか。冬のような寒さのあとの小春日和に誘われて花開いた風情が、この三途の川にもあるのか。そう思うと、地獄か天国かはどちらでもいいが、四季はあってほしいなと思った。
 
 橋を渡り右へ曲がる。大きく開けた両側の木々はきちんと整えられ、まるでイギリス庭園のようにみえる。右側の広葉樹が色づき赤と黄色と常緑の緑が交雑し、陽ざしを受けて美しい。山でみる紅葉とひときわ違って、人手が入り整えられているように思える。いやむしろ、それが過ぎて、「かたじけなさに涙あふるる」と思う感懐が湧いてこない。西行のころの伊勢内宮はどうだったのだろうと、思いが古に飛ぶ。
 
 火除橋を渡って第一鳥居をくぐる。道なりに進むと五十鈴川へ下ってしまう。ここが御手洗場だという。対岸の紅葉が、陽ざしを受けてひときわ際立つ。手を洗うのを忘れて見取れる。先へすすむと第二鳥居をくぐる。その先にお神札授与所があるところで、Oくんがわたしに「玉串料」と「お神楽初穂料」と「三六会」の名を記した熨斗袋を手渡す。代表にしてあると聞いていたから、回り込んで「受付所」で所用事項を書き込み、熨斗袋を収め、その収納証明のカードを二通いただく。ひとつは正宮で渡し、あとのひとつは戻ってきて、神楽殿に入るときに提示する。
 
 正宮に向かうときの針葉樹が森をなす参道に朝靄が立ち、そこへ朝陽が差し込んで幻想的な雰囲気を醸す。この清冽さと幻想的な深遠さに「かたじけなさ」を感じたのかもしれないと、澄んでいくような心持を味わいながら、歩を進める。行き止まりに蕃がありその裏に御贄調舎(おにえちょうしゃ)がある。ここで調理をして蕃の表側の(いまは遷宮前の跡地になっている)正宮に運ぶ次第だ。いま正宮は左へ移ってそちらの石段から上がるようになっている。
 
 正宮に入る。「特別拝観」のチケットを渡すと、二十歳代半ばと思われる痩せぎすの神官が案内して、コートや手荷物を片隅の置台にまとめて、玉垣の途切れたところに横二列に並ぶよう指示する。そのとき私は、神官から小さい声で「今度お越しになるときは、黒い靴をご用意ください」と注意を受けた。背広にネクタイは悪くなかったのだが、靴が軽い山靴だったせいだろう。これは帰りの電車の中で、皆さんにからかわれた。じゃあ、草鞋ならいいのかなどと言ってはみたが、昔の庶民はどうしたのだろうとあらぬ方に気持ちが動いた。伊勢神宮も、近代の習わしをパターン化して、すっかり伝統にしちゃってるなと可笑しかった。それはさておき、その後に、正宮内陣の左側を回って御正殿の前に進み、代表の私だけが白い石の上に立って向かい、他の人たちは黒い石の上に立って横二列に並ぶ。そして代表の二礼二拍手一礼に合わせて皆さんも拝礼をしてくださいと、神官が伝え、そのように拝礼をした。そのとき、背筋を伸ばし、一つひとつの所作にメリハリをつけて行うようにしたのは、やはり内宮の醸し出した空気のせいだろうかと、思った。
 
 内宮の拝礼を終わって表参道から、高床式の御稲御倉(みしねのみくら)や外幣殿(げへいでん)脇を通って正宮の裏側に回り、荒祭宮に向かう。荒魂(あらみたま)を祀ってあるから、いうならば元気をもらいたい人はお参りをというわけだ。「なにをお願いした?」と言葉が交わされる。そういえば、内宮の拝礼のときに私は何も考えていなかった。ものの本を読むと、「なにも願わないのが清浄なこころです」とあった。穢れを落とし、「彼岸」に擬せられたところで「浄化」することが祈りであり、拝礼だというのは、素直にわかる気がする。神様から恩恵を被るのは「願う」ことによって施されるものではなく、「自然(じねん)」に浴することだと考える方が、好ましい。つまり人と神とが「願い」を聞く/聞かないというコミュニケーションを図ることなどできるはずもなく、現世利益というのは「自然」の幸運に浴することを感謝することでしかない。自然(しぜん)との向き合い方は、いつもそうしてきたのだと、私の身の裡のアニミズムがうごうごしている。
 
 来年初孫が生まれることになったhmdくんとkmkさんが「無事の出産」を願ったというので、案内役のIさんが、その二人をあとで、内宮の内側にある子安神社へ案内することになった。そこは木華咲耶姫(このはなさくやひめ)を祀っていて安産の神様だと言われている。
 
 ひとわたり経めぐってから神楽殿に行く。靴を脱いで奥へと上がる。待合所では伊勢神宮を紹介するビデオをやっており、遷宮のことや稲を育てていること、御饌を捧げる儀式など、ちょっと来ただけでは見ることの出来ない習俗を見せてもらった。聞けば二十年ごとの遷宮は62回目になるという。4年前に終わったばかりだのに、もう木曾の山奥で次の遷宮に必要な樹木の選定が行われはじめているそうだ。そうして8年前から本格的に作業が始められ、何とその総費用は550億円もかかるそうだ。これは、観光業も含めて一大産業というべきであって、伊勢市ばかりか近在の市町村にとってはお伊勢さんを欠いては(おそらく)何も考えられないのではなかろうか。元バンカーのOくんは直近の伊勢市の百五銀行などの銀行口座には何百億というお金が振り込まれてくると話していた。
 
 神楽殿に参内する。前半分が一段高い板敷の拝礼祭壇の間、後ろ半分が広い畳の間で、私たちは後ろの畳の上に、やはり横二列に座る。これはお寺などの拝礼と同じだが、祭壇に何にもないところが神宮のすばらしいところだ。御饌を置く木製の台があるだけ。基本は空っぽ。これは偶像崇拝を禁ずるイスラムの信仰心に通じるところがある。神というのは(人には)みえない。見えないことに思いを致すというのが信仰心の第一歩だとすると、偶像崇拝はすでにその初歩から人の原罪を抜け出さない宣言のように思えるのであろう。神道に「原罪」という感覚があるのかどうか知らないが、人間には必ずと言っていいほどついて廻る「クセ」がある。ものを考え、理屈をつけ、目的や意図や目標を定めないと落ち着かないという「クセ」は、人間らしさとか、道徳とかいう「しばり」を堅持するかたちで、重荷を私たちに背負わせている。そういう次元で考えれば、神道の空っぽさは、好ましく思われる。
 
 神楽がはじまる。神に奉納するのであるから、私たちはひたすら拝礼するばかり。両サイドに二人ずつ笙・篳篥(ひちりき)の奏者。その脇にやはり二人ずつの巫女。そこへ御饌を運ぶ巫女が二人、裏方の巫女が一人と、祝詞をあげる神官が一人登場する。約三十分間、御饌を捧げ、祝詞をあげ、舞を踊り、御饌を下げるまでの一つひとつの振る舞いが、ていねいに、厳かに執り行われた。いうまでもなく私たち「三六会」の名も読み上げられて奉納されたが、何よりも、笙・篳篥の演奏と巫女さんの、ほんとうに祈りを形にしたような単純質朴な踊りとが、空っぽの祭壇に似つかわしく、いい感じであった。あとで「七五三の奏上と同じだよ」と誰かが話していて、そういえば私たちは、ちょうど「七五」の後期高齢者。七五さんの奏上に間違いない、とおもったものであった。
 
 そうそう、お伊勢さんには何人の神職がいるの? と誰かが聞いていた。約二千人ほどいるという。それだけの人が日々、1300年間の間、古式にのっとった儀式的振舞いを、木を擦り合わせて火を熾すことからすべて行い続けているというのは、それだけで無形文化財ものだと思うが、世界遺産にもなっていないし、無形文化財にもなっていない。やはり皇室の氏神という肩書が邪魔をしているのだろうか。それを支える財政もどうなっているのか興味は湧くが、詮索はしない。
 
 帰りながら、人出が多くなっていることに気づいた。宇治橋の向こうからやってくる人の数は、朝の比ではない。神宮会館に戻って、正装をきちんとしていた人は着替えをする。荷物を預かってくれるから、お昼を済ませてまたここに立ち戻ることにして、おかげ町とかおはらい横丁という、門宮町のにぎやかな土産物などの町歩きに出かけた。
 
 お昼もここで済ませることにしている。案内役のIさんは「お昼があるので、ものを食べないでください」と念を押す。皆さん素直にうなずいている、と思ったら大間違い。すぐそばの「赤福本店」というのに入って、早速お茶にしている。おはらい横丁というのが、古い町並みを残した造り。神宮道場というのがあるかと思えば、その向かいには立派な漆喰塗りの壁がある。「あれ、これ五線壁だよ」とstさんがつぶやく。「なに、それ」と私。「壁に何本かの線が引いてあって、それが家格を表すのよ」とstさん。あとで分かったが、お寺ではなく「祭主職舎」。伊勢神宮の神官のお家であった。格式があるわけだ。
 
 先へ歩くが、どこもここも食べ物屋ばかり。土産物屋が目立たなくなってしまうほどだ。そこへ御客が並んで待っている。私たちもぶらついているうちに「かわあげ」と銘打った油っこそうなつまみをみて、ビールにいいねと話していたら、なんとその店の奥にテーブルを置いて、生ビールを提供している。ではでは、と分け入って一角を占め、鶏肉の皮をあげたものをつまみにする。これが油っ気が軽くて、うまい。お昼のことを気にしながら、でも、ま、これくらいはと話しながら一杯やった。
 
 お昼の食事処を越えて、内宮の方へ向かう。何軒かの土産屋とは違う酒屋がある。mykくんが「そういえば昨日のザクという酒はうまかった」と話しになる。ザクというのは「作」と書く。その読み方が珍しかったので私も覚えている。ある酒屋に首を突っ込んで「ザクはあります?」と尋ねる。その酒屋の主人は奥の方から首をもたげて、「あれはね、少ししかつくらないから手に入らない」という。ではと失礼しようと思ったら、そのご主人はつづけて「オバマさんが呑んだのはね、4合瓶で一万六千円もするのよ」と加える。要するに私たち庶民が口にするものではないということらしい。ははあと丁重にお礼を言って引き上げた。ところが、もう一つ別の酒屋の奥の壁に「作」と書いた紙が貼ってある。mykくんはいなかったがstさんが一緒に店にはいってみると純米大吟醸が2500円余と、ほぼほぼの値段。私もstさんも一本を手に入れた。オバマさんとは違っても、純米大吟醸ならうまいに違いないと思ったわけ。これは後の新幹線の中で、口を開けた。昨日呑んだのよりさらにうまく、mykくんと別れるまでの酒宴となった次第だ。
 
 お昼は伊勢名物の「てこね寿司」を用意してくれていた。二階の座敷でずらりと食卓を囲む。hmdくんが時間をかけてだが、ゆっくりと全部食べた。甘みに負けた人たちは食べ残していたようだが、考えてみると、ただそれだけでも食べ残して不思議でないほどの「てこね寿司」ではあった。
 
 三度神宮会館に戻り、荷物を受け取り、早い時間の列車にチケットを変更して早めに帰るわと半数ほどがタクシーに乗った。残りはIさんが時間が来るまでもう少し案内しましょうと、別行動をとる。伊勢神宮工作舎という、遷宮や修理などのいわば工房へ案内してくれる。ひっそりとして人気を感じなかったから、外から見るだけにした。脇の公園駐車場は銀杏の並木が黄葉してきれいだ。そこから神宮美術館が所蔵する人間国宝の絵を見せてくれるというので、そちらに向かった。静かな森の中。入口の脇には倭姫命を祀った宮がある。向かいには博物館もある。中に入ったら残念なことに、友禅染の和服デザインの展示会。たぶん名のある作家の作品なのであろう、見ているだけで目が洗われるような気品が漂う。でも絵は明日からの展示というので、Iさんはずいぶん落胆したようであった。
 
 その後、伊勢市駅に行く。ホームで待っていると、先に帰ったはずの人たちが階段を降りてくる。チケットのチェンジができなかったようで、近くの喫茶店でおしゃべりをしていたという。そのとき、こういう旅をまたしようという話が出て、岡山のsnmさんが企画立案してくれるということになった。彼女はその説明のために、来年のSeminarに出てきてもいいと、張り切っている。これだけ元気なら、来年は十分大丈夫だ。こうして、お伊勢参りは終わった。近鉄名古屋出来で別れ、三々五々、東京へ岡山へと帰っていった。
 
 いや、「七五さん記念」とも言える、面白いお伊勢参りになった。

コメントを投稿