mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

揮発する宗教性と復権を求める精神性

2019-06-16 15:40:46 | 日記
 
 モンゴルへはチベット仏教が伝わったと、いつの間にか私の頭に刻まれていた。でもチベットって、モンゴルとずいぶん離れているのに、どうしてと疑問というほどでもなく、思っていた。
 去年5月に中国の東西に細長い甘粛省横断の旅をしたとき、チベットとモンゴルが隣接していたのだと気づいた。

 ひとつは、敦煌方面へ向かう新幹線の窓の外が雪の銀世界になったこと。標高をみると3500mに近かった。「甘粛省にこんな標高の高い所があるんだ」と言ったら、あとでガイドが「それは青海省を通過していたときでしょう」と話してくれたこと。青海省もチベット族の居住地であったとずいぶん昔になるが、山歩きのときに教えられたことがある。
 もうひとつは、張棭の街から丹霞と名づけられた山々へむかっていたとき、「蒙古→」と分岐の道路表示がされているのを目にしたこと。そのとき表示の「モンゴル」は、じつは内モンゴルだったのだが、モンゴルがチベット仏教の伝播し広まった地であるという知識が、腑に落ちるように実感できるようであった。モンゴル族や回族が甘粛省には先住者のように、たくさん住まわっていた。
 
 はじめてモンゴルを訪ねることになったとき、チベット仏教の「おもさ」が日常に沁みついていると思っていた。ところが3年前にモンゴルに来て、チベット仏教らしさが希薄であることに驚いた。チベット仏教は、チベット高原のカイラス山へ旅をしたときにも、ラサを訪ねた時も、あるいは、ネパールやブータンの寺院や家庭の仏間を目にしたときにも強烈な印象を残した。街中でも山中でも、旗めいているタルチョが彼らの宗教性の広まりを表している。そう、思っていた。それがモンゴルへ飛び火したように考えていたが、違った。チベットとモンゴルは近接していたのに、どうして?
 2年前にモンゴルを訪問した記録で、私は次のように記している。
 
 《テレルジの町を見下ろす峠にオボーがあった。ちょうど山のケルンのように小石を積み上げ、中央に布を巻き付けたチベット仏教の祈りの旗をおいている塚。オボーには神が宿るとされ、天に近い丘や山の高台に設けられている。ガイドのバヤラさんの話では、時計回りに3回まわりながら願い事をして小石を三つオボ―に捧げるという。》
 
 今回の草原の旅においても、オボーは(ネパールやチベットほどではないが)いくつも見かけた。それらは、でも、わりと新しく、小さく、タルチョのような旗も巻きつけられていない。ちょっと見には、道なき道におかれた、道路標識代わりのケルンに思えた。そうして思ったのは、モンゴルが革命を起こして社会主義に移行したのが1921年、ソ連に対するシベリア出兵をする日欧諸国や白ロシアと対抗するためもあって、ソ連はモンゴルを支援し最初の独立国として承認した径庭。マルクスの「宗教は民衆のアヘン」という規定がすっかり誤解されて(*1)、チベット仏教(どころか、宗教全般)は人びとの生活の表面から遠ざけられていって、1990年に「民主化」するまで、およそ70年間、影を潜めていた。いまの仏教人口は約半分と、いつかどこかで教わったが、今の日本だって、仏教徒の人口割合と信仰心とを比較計量すると、後者の方がすっかり薄くなっていることは、いうまでもない。

 だが、モンゴルの宗教性がきわめて淡泊であり、宗教心が希薄になっている状態は、ひょっとすると日本のそれと逆方向に向いているんじゃないかと感じた。つまり今、昔日の身に受け継いできた宗教性が回復途上にあるのじゃないか。
 今回、いくつかの場面に出逢って、そう(変わりつつあるのかもしれない)と思うようになった。

 ひとつ、チンギス・ハーンを中軸に、モンゴルの誇りを復興しようという動きを感じた。チンギス・ハーンの記念塔が建てられ、ちょうど私たちが通りかかった日曜日に、それを取り囲んでお祭りが行われていた。ガイドははじめ、その記念塔を見学する予定に組んでいたが、(日曜日ということもあって)あまりの人の多さと道路の混雑を考慮して、入口で記念写真を撮っただけで通り過ぎてしまった。
 もう一つ、4泊目と6泊目に泊まったホテルの階段踊り場には、大きな地図が掲げられ、(たぶん)「モンゴル歴の155ー235年」に掛けて、南の中原は揚子江あたりまで、あるいはチベット高原へ、西はウクライナの入口まで侵入していった版図が、矢印を交えて描かれていた。それを見ていたら、同行者のTさんが上にもっと大きなのがあるよと教えてくれたので、レストランの方へ行ってみると、さらに大きな地図に、西は(今の)ハンガリーあたり、トルコからアフガニスタン、パキスタンの北部、チベットからミャンマー、ラオス、ベトナムの北半分まで制圧した図と、さらにその先に延びようとしている矢印が描かれていた。朝鮮半島を経て九州の北部にまで伸びた版図は、そのあと鹿児島を回り込んで太平洋方面へ矢印を伸ばしていて、「これって、どこへ行ったんだろう」と私たちは笑って言葉を交わすことになった。
 
 上記二つのコトは、チンギス・ハーンの出自・由来を想起して、モンゴル民族の偉大さを再興しようという呼びかけに思えた。この、伝統的な、わが身の拠って来る所以を解きほぐすことによって人々の連帯感情を呼び起こし、グローバルな社会動向に主体的に向き合う精神的な土台を構築しようとしている。(たぶん)社会主義という、かつてソ連の支援を得て独立を果たすことが出来たイデオロギー的な支柱が、ソビエトの崩壊とモンゴルの民主化によって崩れ、それに代わる拠り所を、目下探しているというところか。
 
 さらにもうひとつ、気になる場面があった。シャーマンと、その祈りの場面を二度も目撃したからだ。
 一度目は、フルフ川沿いのキャンプ近くの川のそば。こちらは鳥観をしていたのだが、祈るような歌声が聞こえ目をやると、1台のバン型の車が止まり、敷物を敷いて何人かが座り、あるいは立ち、着飾った巫女が歌い、踊りしていたのだ。それがシャーマンですよと教えてくれたのは、ガイド。鳥観はそれに近づかなかったので、それっきりになったが、草原の、人のあまり寄り付かないところへやってきて祈りを捧げる儀式をもつというのは、やはりそれなりの宗教心をもたなければできないことだと思った。
 もう一度は、帰途に立ち寄った湖の脇の草原。私たちは鳥を見るために立ち寄ったのだが、湖の対岸、遠く離れたところに集まり、二人の巫女(シャーマン)が太鼓を打ち鳴らし、鳥の羽を頭にかざして、歌いながら踊る。周りの人たちも一緒になって踊っている。晴れた陽ざしの中でそれは、朗らかな家庭行事のようにみえて、微笑ましい感じがした。
 
 帰国して後、図書館で本を開いていたら、島村一平という滋賀県立大学の准教授が「現在、モンゴルではシャーマンの数が劇的に増加している」と書いているのが目に止まった(2014年)。
「まるで感染症のようにシャーマンが増えている」
「シャーマニズムは深刻な社会問題として立ち現れている」
「ゴールデンタイムにシャーマニズムについての情報番組もテレビ放映される」
 としたうえで、こう付け加えている。
「ここで問題なのは、モンゴルの人々自身も感染症のように広がるシャーマニズムの理由を図りかねている」
 
 島村氏の推論は、私たちが今回訪ねたヘンティ県や2年前に訊ねたドルノド県の古い宗教であったシャーマニズムが、1930年代の大量粛清=大虐殺によって押しつぶされ(なおかつ生きのびて)、いまその復権を果たさんと「ルーツの声を聞け」として広まっているのだ、という。自らのルーツをたどるという意味では、チンギス・ハーンも大粛清の記憶も、国際関係か、国内政治・文化かという発現する領域の違いはあろうが、やはり魂の落ち着きどころを探している動きではある。
 
 モンゴルの宗教性が、具体的にどのようなかたちをとって時代を経てきたかわからないが、チンギス・ハーンが自らの墓所を人びとに知らせることなく、埋葬し、跡形もわからないように始末したと、話しに訊いた。
 チベット仏教の教えでは、ブータンやチベットでそうであったそうだが、遺骸は草原に放置され、鳥が啄ばむに任せた「鳥葬」だと、昔、映像で見た記憶がある。じつはモンゴルでは、草原のところどころに墓がつくられていた。火葬にして墓に納めるという埋葬の仕方を政府が推奨しているからのようだ。しかし私が鳥葬のことを思い出したのは、ときどき草原に羊や馬や牛の死骸が捨て置かれていたからだ。すっかり骨と皮になっているのもあれば、まだ死んだばかりで手つかずという気配のもあった。ところによっては、クロハゲワシが5,6羽、寄ってたかって奪い合いをしていた。こうした光景をごく自然に受け入れているのは、やはりモンゴルの人々の身の裡に、伝統的な埋葬の習俗が根付いているからではないかとおもったのだ。
 
(*1)2016/7/28のブログで、私は、次のように記している。
 《……1970年前後のことだったと思うが、何かの本を読んだか誰かから話を聞いたか忘れたが、マルクスは(その言葉を書いた当時)痛み止めのためにアヘンをつかっていたことがあって、言うならば、民衆にとって宗教というのは厳しい人生の痛みを忘れさせる力があると表現したにすぎない、というのである。耳にした当座は、何を言ってるんだかと聞き流していたのだが、ある時ふと、価値的な物言いではなく、事実の指摘だと思ったとき、(私自身が)たいへん大きな思い込みをしていたことに気づいた。つまりマルクスのそれは、宗教を排撃しようという表現ではなく、民衆に対する作用を指摘したにすぎない、と。中毒になるほど依存すると大変なことになるが、現実生活にはそれなりに必要なものである、と。そう考えてみると、社会主義国で行われていて、当然と思われていた「宗教の排撃」は大きな間違いをしている。そう思った。……》

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