mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

ふと、してしまっている何かの意味

2015-08-12 15:58:06 | 日記

 孫2人を連れて奥日光に来ている。毎年恒例となりつつある行事。昨年は、台風とぶつかり、風雨の中を1日早く切り上げて帰宅した。昨日は晴天。8時過ぎに家を出て赤沼に車を置いたのは11時10分前。5分待ちで千手が浜へ向かうハイブリッドバスが出るのに乗る。夏休み中のバスは休日ダイヤで運行し、6割方の乗客を乗せて往復している。バスはゆっくり走りながら、戦場ヶ原、小田代ヶ原の解説をしてすすむ。ミズナラやカラマツの林の緑は柔らかく、吹き通る風も涼しい。でも孫たちは周囲の景観にお構いなく、おしゃべりに忙しない。

 

 西の湖入口で降りて、外山沢を越え奥へ分け入る。ミズナラの古木が幹の中央を空洞にして佇立している。10年ほど前に撮った巨大なミズナラはどこにも見当たらない。倒れたのか。静かな湖面をみながらお昼にする。孫たちはよく食べる。好き嫌いをしないからばあちゃんは助かっている。十数人の人たちがそれぞれに場所を占めて湖面を見つめている。近づくと生臭い魚の匂いがする。こんなことはなかったのに、どういうことなのだろう。雨が少ないのか。湖の水量は決して少なくない。

 

 千手が浜への森を抜けてのんびりと歩く。緑に身を浸しているというだけで、私は気持ちがいい。まごたちはばあちゃんに何かと話しかけ、互いにふざけ合い、前になりあとになり歩いている。鳥の姿が少ない。中禅寺湖は(風のせいか)波が立っている。その向こうに、雲が取れた男体山が姿を見せる。兄孫は波と戯れる。水辺に枯れ木を立てている。「何?」と聞くが、「わからない」と応える。「波打ち際のしるし?」というと、「そうでもある……。けど、そうじゃない」と、本人も何をしようとしていたのかわからない風情。私は原始人の宗教性ということを想いうかべている。

 

 湖沿いの道を西へと詰める。何本かの川に掛けられた橋を通り、クリンソウの栽培地をみてすすむ。いちばん奥には養魚場のようなところを通ってきた水が激しく湖に流れ込むところに来る。3人の人たちが一眼レフカメラを構えて、何か講釈をしながら/聞きながら、さらに奥へと歩を進めている。バスの時刻を考えて、ここからバス停へ引き返す。

 

 5分ほど待って折り返しのバスに乗り、来たとき同様にゆっくりと赤沼へ戻る。乗り降りする人は相変わらずいて、奥日光を訪れる人の多さに驚く。カミサンは(どこで聞きこんだのか)箱根が噴火で駄目なので、奥日光に人が集まっていると解説する。そんなものか。小田代ヶ原の貴婦人が屹立しているのが、あざやか。

 

 宿へ着き風呂を浴びる。ぬるい温泉が仙骨の痛みにうまく作用しているのか、楽になる。兄孫が私のお尻にアオタンがある、という。みてみると、蒙古斑のあるところに内出血の黒い痣がみえる。痛いわけだ。クーラーも何にもない部屋で、でも快適に過ごす。ビールののど越しがすこぶるいい。こうしてパソコンをとり出して書いたのが、昨日の「ドイツが世界を滅ぼす」という本のこと。宿のWIFIでインターネットにアクセスしてアップした次第。


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