台風がどこへ来るかいつ来るか不安視されていた最中に、花火を観に行ってきました。無茶と言えば無茶ですが、カミサンの誘いに乗ったお任せ旅。普段なら10分も観ていたら飽きてしまう花火を、始まりから終わりまで何と5時間も。何十万人という人の寄り集まる会場にいて見続けたのですから、八十路爺の何と根気がイイこと。というより、花火を現地にいて見ることの刺激的なこと。いや、この体験はイイ冥土の土産になったとおもいました。
そうです、毎年八月の最終土曜日に開催される大曲の花火大会。まずワタシの識らないことが世の中にこんなにもあるのだと感じました。まず、この花火大会、明治43年(1910年)にはじまったと知りました。私の亡母が生まれた年ですから、今から114年前。今回が96回でしたから、戦争やコロナを挟んで18回中止になっただけ。雨でも台風が来ても構わず実施したってことでしょうか。いや、それだけでもスゴイ。
この花火、「大会」というに相応しい、全国煙火師の競技会なんですね。ただポンポン打ち上げているわけじゃない。「昼花火」「10号芯入割物」「10号自由玉」という既定の花火の打ち上げがあり、ついで「創造花火」と題した煙火師それぞれの工夫を凝らした花火が大音響の音楽と共に夜空に打ち上げる謂わば「フリー演技」の四種ある。それらを、一番最初に「標準審査玉」をあげて採点基準を明かし、(たぶんよく知られた名のある公表された)審査員が採点する。内閣総理大臣賞を目ざして競う。そうそう、大相撲と同じ。打ち上げの前に(たぶん伝統的な声で)「呼び出し」がなされ、アナウンサー風の声がそれを解説をして紹介し、打ち上げられる。
大曲という山奥の土地でどうして? と思っていたら、これがまた、湿度や暗闇の度合いや二方向が山に囲まれ中央に大きな川が流れる片盆地風地形。雄物川という大河川の河原という立地が揃っている。しかも海とつながる水運として江戸期から発達していたというから、交通路としての河も見落とせない。そうか、隅田川とか荒川縁という現在の花火地も、ただ火災の危険を避けるってことじゃないのだ。
それだけじゃない。その背景に江戸以来の北前舟の運んでいた文化と富の物語りがあり、同時に、宵越しの金は持たないというか、何のために稼いでいるのかを熟知した風の金銭に関する当時の気風も作用している。さらにその背景には、日本海側の気候・気象と太平洋側のそれとの比較対照も影響していて、なるほどこうして列島文化は全国へ広がったかと、近代化前の地理的条件と社会的条件の絡み合った歴史的条件に思いを致すことになりました。
というか、知ったつもりになっていたことが、花火というお祭りの大競演がこれほど長く続いてきたことのバックグラウンドへ思いを致すことを通じて、その土地とそこに暮らす人々の由来径庭を照らし出す作用がワタシの中で蠢きだしたってことか。なんともお恥ずかしい。祈りや鎮魂という神仏とのつながりの回路というお祭りの意味も考えてしまいました。八十路爺は臍を噛む思いでしたね。
「昼花火の部」は夕5時10分から、「夜花火の部」は6時50分から9時40分までの予定でしたが、最後の打ち止めが鳴ったのは10時10分。延々5時間の大花火大会でした。
台風10号のもたらす南の風が秋雨前線に影響して、雨模様の大曲に乗り込むこと自体が大変難儀な経路を辿りました。山形県の新庄駅からバスに乗り100キロほどを走って、花火会場の3㌔余の地点に近づき、そこから歩いて雄物川河川敷に設えられたメイン会場に入ります。午後4時頃ですのに、すでに会場周辺の田んぼの脇や道路脇には敷物を敷いて場所取りをしている人たちがわんさといる。それに何倍する人たちがメイン会場に向かい、今回は60万人かと旅のガイドは口にしていました。これまでの最大は100万人だったといいますから、それだけ衆目を集めていたのですね。でも人が集まることに忌避感を持つ私にすると、それを知らなかったことは少しも残念に思ってはいません。むしろ、5時間も我慢できるかと心配していました。このアプローチの難儀さも、大曲の花火を愉しむ仕掛けのように、今は感じています。
杞憂でした。花火打ち上げの現場に居合わせるということが、これほどの身体的微妙な震えに結びついているとは思いもよりませんでした。これまでの花火は、子どもの頃に見た海辺の花火もそうでしたが、わが身の外の催しでした。
ヒュ~ン・パッ・パッ・ド~ンと打ち上がる色と大きさと、それらの重なり具合、仕掛け花火の幅。この派手派手しさのバリエーションと繰り返し、積み重ね。ふ~ん、これがオモシロイってことか。一瞬にして夜空に輝き、すぐに消える。それが美しいということか。大人の酔狂を、そう思っている私がいたような気がしています。それ自体にとらわれて見惚れるということがなかったと言えましょうか。
大曲の花火の現場に居合わせるというのは、どこが違ったか。アプローチの難儀さは、すでに記した通りなので、さておきます。
煙火師の競技会という物語がある。それに因んだ、「演題」もつけられている。フリー演技の創造花火には、大音量の音楽がリズムを刻み、打ち上げられる花火もそのリズムに合わせて大輪の花を咲かせ、消え、パッと次の流れへ移ろってゆく。ヒュ~ン・パッ・パッ・ド~ンだけを見ていたら、たぶんすぐに飽きてしまうにちがいない。だが、これが競技会であり、それぞれに創造の工夫を凝らした創作であり、それには物語りが流れている。それを表現しようと煙火師が1年を通じて制作したことと受け止めたとき、ヒュ~ン・パッ・パッ・ド~ンの向こう側が起ち上がってきたようでした。
ガイドはそれが長岡の花火、越中八尾のおわら風の盆などの祭りと並べて、日本海側で盛んになったワケを地理的に説き明かしていこうと物語を作っていました。だが、調べてみると、三代花火には土浦の花火競技会も入っているし、四大花火となると伊勢神宮の花火が加わって、日本海側の盛んな理由を地理的・歴史的に探って、それを大曲の花火大会に結びつけるというのは、「日本海贔屓」の傾きが色濃いとひとまずは思いました。
ただ、始まりの起源を辿ると明治43年以降とか大正期以降となって、日本近代の産業社会がそれなりに勇躍するようになってからの花火祭。それに「資産を投じて」盛大に行うという気概を培ったベースを考えてみると、江戸期の北前船の航路が浮かび上がるのも腑に落ちる物語でした。
ワタシが飽きないで5時間も花火に夢中になったのは、これらの物語を想起させるに相応しい響きが、見るだけでない、音として、空気の響きとして、お祭りの壮大な気配を伴う匂いとしてわが五感にビリビリと響いたお陰だと、いま振り返っています。
コロナの所為もあるのでしょう、指定座席は十分距離をとって設けられ、通路も十分広くとっています。ワタシの「密集忌避症」を発症するような気配はまったく感じませんでした。この歳になってこうしたことを体験できるなんて、まあ、なんと幸いなこと。
まさしく冥土の土産を堪能させてもらったとおもいました。
そうです、毎年八月の最終土曜日に開催される大曲の花火大会。まずワタシの識らないことが世の中にこんなにもあるのだと感じました。まず、この花火大会、明治43年(1910年)にはじまったと知りました。私の亡母が生まれた年ですから、今から114年前。今回が96回でしたから、戦争やコロナを挟んで18回中止になっただけ。雨でも台風が来ても構わず実施したってことでしょうか。いや、それだけでもスゴイ。
この花火、「大会」というに相応しい、全国煙火師の競技会なんですね。ただポンポン打ち上げているわけじゃない。「昼花火」「10号芯入割物」「10号自由玉」という既定の花火の打ち上げがあり、ついで「創造花火」と題した煙火師それぞれの工夫を凝らした花火が大音響の音楽と共に夜空に打ち上げる謂わば「フリー演技」の四種ある。それらを、一番最初に「標準審査玉」をあげて採点基準を明かし、(たぶんよく知られた名のある公表された)審査員が採点する。内閣総理大臣賞を目ざして競う。そうそう、大相撲と同じ。打ち上げの前に(たぶん伝統的な声で)「呼び出し」がなされ、アナウンサー風の声がそれを解説をして紹介し、打ち上げられる。
大曲という山奥の土地でどうして? と思っていたら、これがまた、湿度や暗闇の度合いや二方向が山に囲まれ中央に大きな川が流れる片盆地風地形。雄物川という大河川の河原という立地が揃っている。しかも海とつながる水運として江戸期から発達していたというから、交通路としての河も見落とせない。そうか、隅田川とか荒川縁という現在の花火地も、ただ火災の危険を避けるってことじゃないのだ。
それだけじゃない。その背景に江戸以来の北前舟の運んでいた文化と富の物語りがあり、同時に、宵越しの金は持たないというか、何のために稼いでいるのかを熟知した風の金銭に関する当時の気風も作用している。さらにその背景には、日本海側の気候・気象と太平洋側のそれとの比較対照も影響していて、なるほどこうして列島文化は全国へ広がったかと、近代化前の地理的条件と社会的条件の絡み合った歴史的条件に思いを致すことになりました。
というか、知ったつもりになっていたことが、花火というお祭りの大競演がこれほど長く続いてきたことのバックグラウンドへ思いを致すことを通じて、その土地とそこに暮らす人々の由来径庭を照らし出す作用がワタシの中で蠢きだしたってことか。なんともお恥ずかしい。祈りや鎮魂という神仏とのつながりの回路というお祭りの意味も考えてしまいました。八十路爺は臍を噛む思いでしたね。
「昼花火の部」は夕5時10分から、「夜花火の部」は6時50分から9時40分までの予定でしたが、最後の打ち止めが鳴ったのは10時10分。延々5時間の大花火大会でした。
台風10号のもたらす南の風が秋雨前線に影響して、雨模様の大曲に乗り込むこと自体が大変難儀な経路を辿りました。山形県の新庄駅からバスに乗り100キロほどを走って、花火会場の3㌔余の地点に近づき、そこから歩いて雄物川河川敷に設えられたメイン会場に入ります。午後4時頃ですのに、すでに会場周辺の田んぼの脇や道路脇には敷物を敷いて場所取りをしている人たちがわんさといる。それに何倍する人たちがメイン会場に向かい、今回は60万人かと旅のガイドは口にしていました。これまでの最大は100万人だったといいますから、それだけ衆目を集めていたのですね。でも人が集まることに忌避感を持つ私にすると、それを知らなかったことは少しも残念に思ってはいません。むしろ、5時間も我慢できるかと心配していました。このアプローチの難儀さも、大曲の花火を愉しむ仕掛けのように、今は感じています。
杞憂でした。花火打ち上げの現場に居合わせるということが、これほどの身体的微妙な震えに結びついているとは思いもよりませんでした。これまでの花火は、子どもの頃に見た海辺の花火もそうでしたが、わが身の外の催しでした。
ヒュ~ン・パッ・パッ・ド~ンと打ち上がる色と大きさと、それらの重なり具合、仕掛け花火の幅。この派手派手しさのバリエーションと繰り返し、積み重ね。ふ~ん、これがオモシロイってことか。一瞬にして夜空に輝き、すぐに消える。それが美しいということか。大人の酔狂を、そう思っている私がいたような気がしています。それ自体にとらわれて見惚れるということがなかったと言えましょうか。
大曲の花火の現場に居合わせるというのは、どこが違ったか。アプローチの難儀さは、すでに記した通りなので、さておきます。
煙火師の競技会という物語がある。それに因んだ、「演題」もつけられている。フリー演技の創造花火には、大音量の音楽がリズムを刻み、打ち上げられる花火もそのリズムに合わせて大輪の花を咲かせ、消え、パッと次の流れへ移ろってゆく。ヒュ~ン・パッ・パッ・ド~ンだけを見ていたら、たぶんすぐに飽きてしまうにちがいない。だが、これが競技会であり、それぞれに創造の工夫を凝らした創作であり、それには物語りが流れている。それを表現しようと煙火師が1年を通じて制作したことと受け止めたとき、ヒュ~ン・パッ・パッ・ド~ンの向こう側が起ち上がってきたようでした。
ガイドはそれが長岡の花火、越中八尾のおわら風の盆などの祭りと並べて、日本海側で盛んになったワケを地理的に説き明かしていこうと物語を作っていました。だが、調べてみると、三代花火には土浦の花火競技会も入っているし、四大花火となると伊勢神宮の花火が加わって、日本海側の盛んな理由を地理的・歴史的に探って、それを大曲の花火大会に結びつけるというのは、「日本海贔屓」の傾きが色濃いとひとまずは思いました。
ただ、始まりの起源を辿ると明治43年以降とか大正期以降となって、日本近代の産業社会がそれなりに勇躍するようになってからの花火祭。それに「資産を投じて」盛大に行うという気概を培ったベースを考えてみると、江戸期の北前船の航路が浮かび上がるのも腑に落ちる物語でした。
ワタシが飽きないで5時間も花火に夢中になったのは、これらの物語を想起させるに相応しい響きが、見るだけでない、音として、空気の響きとして、お祭りの壮大な気配を伴う匂いとしてわが五感にビリビリと響いたお陰だと、いま振り返っています。
コロナの所為もあるのでしょう、指定座席は十分距離をとって設けられ、通路も十分広くとっています。ワタシの「密集忌避症」を発症するような気配はまったく感じませんでした。この歳になってこうしたことを体験できるなんて、まあ、なんと幸いなこと。
まさしく冥土の土産を堪能させてもらったとおもいました。
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