mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

正念場を超えた

2023-10-22 07:13:04 | 日記
 一昨日の夕方、待ちに待った「下巻・後半」の「第五校」が届いた。当初送られて来た「工程表」より3日遅れている。これを済ませれば、「念校」という簡単なチェックを残すだけになる。上巻はすでに印刷所に回っている。「下巻・前半」の五校・校正はすでに送ってある。
 夕食を挟んで取りかかる。ワタシの活動時間が朝型になっているせいだろうか、少ししか捗らない。きっぱり打ち切って一昨日は切り上げ、昨日朝早くから取りかかった。
 いつもは朝飯前に済ませる消息日誌のブログはどうしようと思ったが、いずれこの作業に疲れ、一休みすることになろうから、そうなってから書けばいいやと後回しにした。150ページくらい。「五校・前半」の校正は驚くほどスムーズに運んだ。編集者の念入りな仕事ぶりを窺わせるような仕上がりで、表現を何カ所か追加して読みやすくすることで済んだ。
 ところが「下巻・後半」は、意外に手子摺った。ああこれは、編集者がめんどくさいなあと思いつつ仕事に向かっている気配が漂う。この「後半」は、コロナ禍がやってきてからの1年間の山行と山の会の活動が十年目に入ってからすぐに起こった私の遭難事故の報告、「追い書き」という山の会の終了を告げるあとがきのようなことが記載されている。コロナ禍との関わりと遭難事故がもたらした1年前の私の感懐である。
 つまり坦々とした山行記録と違って、私のいろんな思いがグジグジと書き記されている、「本」の中でも異質な要素を多く含んだ「章」がふたつ連なっている。たぶん、山に縁の深い編集者も、流石になれない領域の愚痴を聞かされるようで手子摺ったのではなかろうか。
 この「下巻・後半」が本書の「オチ」になっている。そう感じたから、ああこれで起承転結が決まったと、なんだかドキュメンタリー・タッチの小説を書いたような感触が私には湧いていた。いや実際、ドキュメンタリーが記録として文書化されるとき、単なる「記録文書」であるにもかかわらず、その行間に、記録者の視線に付随する様々な無意識が漂い表れる。だからドキュメンタリーも、「記録文学」という翻訳を当てられることになったりしているのだ。そういう思いが湧いてきたってワケ。
 昨日の午後3時頃、「後半」の一つの「章」を済ませ、一先ず編集者に送った。昼間眠くなったときにはココアを飲んで一息ついたが、とても消息日誌を書き付ける余裕はなかった。残りが片付いたのは夕食を挟んで夜の8時頃。編集者に送り、正念場は越えたと思った。
 カミサンがみていたネパールのドキュメンタリーで、森林保護のために政府から現金支給されることになった遊動部族の人たちが、忽ち暮らしを乱して危機に瀕している様子が伝えられている。子どもたちまでアルコールを手にして酔っ払っているのをみると、自給自足的な経済が資本家社会的交換経済に移り変わるときの、心持ちの準備のない人たちを襲う悲劇が象徴的に表れていると思った。
 ドキュメンタリーといえども、小説以上に問題提起をしている。切り取り方によるのかもしれないが、ヒトの暮らし、ヒトの社会の変化が辿る必要のあるゆっくりとした径庭が欠かせないと感じさせる。ということは、私の山歩きも、こうした長い径庭を経て、山行記録を本にするような次元にまで達している。その辿ってきた「心持ちの準備期間」は、まったく先達たちの御蔭に拠っていると思う。有難いことだ。
 まさかお前さん、さてワタシも先達の列に名を列ねることができるかって、考えてんじゃないでしょうね。
 いえいえそうじゃありませんよ。名を列ねるというよりも、蝶の羽ばたきですよ。こんな羽ばたきをする蝶もいたんだって、知る人ぞ知る。それで十分です。
 そんな自問自答が湧いて起こった。

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