mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

補足・「絶対無の場所」

2014-11-29 08:57:33 | 日記

 佐伯啓思『西田幾多郎――無私の思想と日本人』(新潮新書、2014年)に関する昨日のコメントは言葉足らずであった。「絶対無の場所」とはいったい何か。

 

 モノゴトを見て取るとき、いったい自分(私)はどこに立ってそれをみているのかが、必ず問題になる。ヨーロッパでは、世界の創造主である絶対神の前に立つ「私」は、容易に自らを定立できた。定立するというのは、自らを見つめる視線を据える超越的な基点が定まることである。どういうことか。私は「私」自身を自らの内側からみることはできない。自らを見つめるとは、世界の中に位置づけることである。それは自分を超越する地平に視点をおいて世界を見つめ、その中に「私」の地点をおくしかないからである。

 

 佐伯は、ヨーロッパ哲学は絶対神を創造主とすることによって、みている「私」の視点をそこに預けたとみる。むろん絶対神は(社会的に)共有されていたから、「我思うゆえに我あり」とすることで、「私」がそれ以上問われることはなかった。「私は、私である」と単純にいうことができた。その結果、超越的な地点から見て取ることを客観的と呼び、その方法を理知的作用とみて科学や化学の発展を成し遂げてきた。それは社会科学の分野にまで及んできた(逆にその結果、「私」が消去され問題にされなくなったことが、社会科学の分野では大きな問題を醸すことになるのだが)。

 

 ところが、絶対神をもたない(日本にいる)人たちにとっては、客観的とは「他者」を意味した。近代科学の来歴からすると、最初の「他者」はヨーロッパであった。自分以外の「私」とは異なる地平であるヨーロッパに視点をおいて見てとろうとする科学の方法は、未だにヨーロッパ流とその洗練された後継のアメリカ流が席巻している。だが絶対神をもたない人たちは、欧米言語に翻訳する以外には、どうやっても相対的な域を脱することができないと、切歯扼腕してきたのである。その壁を西田哲学の「絶対無の場所」が打ち破ったのではないかというのが、佐伯啓思の指摘するところである。

 

 西田は《「私」なる実体は存在しないとして一度はそれを否定して「無」の場所へ送り返して、そこに映されて初めて「私」が出てくる》とみる。それを西田は、「私は、私でなくして、私である」と表現する。その指摘はさらに、西洋文化は「有の文化」「有の論理」、日本文化は「無の文化」「無の論理」と対比させることにつながっていると展開するのだが、西田幾多郎が存在論の基底にたどり着いたのちに、仏教文化の到達地点(親鸞)を組み込んで「絶対無の場所」という地平を見出したと、私は感じとった。

 

 この指摘によって、ひとつはものを考えるという実践的な場面で「超越的な視点」と「他者」とがどう関係しているかが見通せるようになった。もうひとつは、思索の世界ではるかに遠くへ来ていると(私が)思う仏教の言説が西欧哲学と噛みあう次元を見出した、と思ったのである。それは、長い間の径庭を経て私の内的な断片が一つにまとまっていく予感と軌を一にしている。

 

 《「無常ということ」を潜り抜けた地平に、坦々とした暮らしの(価値的にどうかということなどどちらでもいい)継続がある、そういうのが自然法爾の人類史だという文化を、垣間見たような気がした》と昨日最後に述べたのは、上記の感触を得たのちの感懐であった。と同時に、一昨日記述した「陰の世界」「陽の世界」という現代文明との対比のなかの、日本の中世の精神的ありようも、思考の中に組み込まれていくように予感している。  


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