mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

堆積して人柄になる文化資産

2015-03-09 15:58:04 | 日記

 東直子『いとの森の家』(ポプラ社、2014年)を読む。どうしてこの本を図書館に予約したのかは、忘れた。でも、あとの予約者が20人近くあるところをみると、どこかで評判になり書評が出ていたのかもしれない。でもそれだけで予約するとは思えないから、ひょっとすると、その書評が上手だったのだろうか。

 

 それというのも、読み始めてすぐに、読むをのやめようかと思ったからだ。文体がまるで素人の作文。子どもの気持ちを描き出すのに、わざとヘタウマのような工夫をしているのかと思った。だが、子どもの胸中を描くのに、大人の紋切り型の言葉が使われる。なんとか田園風景を身の裡から絞り出すようにするのだが、表現の特異さに結実する前に挫折するような気配。何だかなあと思いながら、でもとりあつかおうとする主題には、なぜかちょっと惹かれるところがあって、読みすすめた。後になればなるほど、文章がスムーズに流れる。この作者の身の裡に残された、体に刻まれた記憶が丁寧に日の目を見て甦るような、清新さを放ち始める。つまり、うまくなっていくのだ。

 

 福岡県の糸島半島に暮らした9歳から10歳にかけての1年半ばかりの田舎体験であるが、「原風景」と呼べるような「体の記憶」として彼女の精神に確たる痕跡を残し、今の彼女の人柄をつくっているのだと思います。人はこのようにして、失われたことに「原型」を覚知し、それへの憧憬を深めることが自分への洞察となって自らの輪郭を描くことになるのだなあと、感じさせる作品になっています。

 

 商業交通の集約された都会から、交換ということがすなわち人と人との、働きや気持ちやその結果のモノのやりとりになるという「なつかしさ」を取り出してみようという「自己の輪郭」の描き方は、共感するところが多い。そうした舞台も、十歳前後の女の子の思い描きそうなメルヘンチック仕様にしつらえられている。田舎、小規模の学校、同級生、40分かけて通学する道筋、ご近所の友達、不思議な一人暮らしのお年寄り、姉や妹という「かかわり」の全体が、すべて絡み合って「私」をつくっている。そういうことが「人柄」、としてかび上がってきて、好ましく感じられる。

 

 もう少し踏み込めば、「不思議」を感じとる子どもの心があってこそ、年季を積んできた大人の「不思議」が際立つと言える。長い時間を掛けて堆積した「人柄」が文化資産として受け継がれていく「かたち」をみるような気がした。

 

 さてそうしてこれをブログにアップしようとして、「昨日のアクセス数」に驚いた。「1021」とある。これは、このブログを書き始めて8年何か月かの、新記録だ。何が読まれたのか。「啓蟄の山歩き」というタイトルが影響したのかもしれないが、でもなあ、それほど気をひくような見出しとも思えない。山も地味な低山である。ま、いっか。ポピュリズムに傾くのを良しとするわけではないから、どちらでもいいことではある。


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