mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

問題は水の流れか、大地の凹凸か

2022-03-04 08:36:19 | 日記
 
行雲流水のごとき関係

 寺地はるな『水を縫う』(集英社、2020年)を読む。女の感覚からみた実存の心地よい関係を描いている、と思った。そう思うこと自体が、女性差別だ、ジェンダーだと言われるかもしれない。......
 

 まず「経験」の違いを取り出している。そして「経験の違い」が、身のこなしの違いとなって現れるところへ視線を持っていった。
 いやじつは、いま私は、寺地はるなのこの作品の中味を覚えていない。1年前の記事がブログサイトの提供元から送られて来たのを読み返して、寺地はるながわが胸の内に遺した痕跡を反芻しているだけである。だがこの反芻が、「それはジェンダーよ」といって片付けられると、何か言葉にならない大切なことを捨象してしまうんじゃないかと感じている。
 そもそも「ジェンダー」という「性差」が、経験的な違いから生まれてきた「性」による(社会的振る舞いの)反応の違いを指している。服装にせよ、色柄の選び方にせよ、社会的立ち位置の佇まいにせよ、生い育ってきた経験則によって形づくられた身が「女が女らしく」「男が男らしく」振る舞うことが非難されることなのだろうか。そうではなく、そう振る舞べきだと道徳的に考えて社会的な関係を紡ぐことが非難されているのだ。
 ということは、焦点を当てられている女や男の問題ではなく、「女が女らしく」「男が男らしく」振る舞うべきだとする社会道徳が問題であり、それに遵った社会関係の紡ぎ方があらためられなければならないと「問題化」されている。
 こう、言い換えることができる。寺地はるなの作品が私に提示した痕跡は、「女だから」「男だから」という文脈で読むべきではない、と。そういう文脈に落とし込むことが、即ち性差を差別的にみていることなのだ、と。
 だがそれも違うように私は感じている。世の中を生きていくときの行雲流水の《焦点の合わせ方が「受容」の方に傾くときに、その周縁の「排除・排撃」に傾く動きを注視しないではいられないのが「男の感覚」》と私が感じるのは、直感的であるが、身体のつくりからする身のこなしに起因するのではないかと、感じているからだ。
「受容」する方は、地面の凹凸を所与のこととして受け容れ、身の処し方を流水の如くに「遵う」ことへと適応する。それに対して「排除・排撃」に傾く動きを注視するというのは、なぜ凹凸がそうなっているのか、なぜ風向きがそうなり強さがこうなっているのかと「状況」を変えるべき見極めようとするからである。「受容」だけを良きこととすると、たぶん、押し寄せる理不尽な災厄に苛まれるばかりとなる。じゃあ「排除・排撃」がいいかというと、そうでもない。そういう立ち向かい方がいっそう災厄を酷くしたり、澱みをつくることにもなる。

 問題は流れる水の流れ方にあるのか、それとも水が沿うほかない大地とか社会の凹凸の方にあるのかと問うているようである。実はどちらでもないし、どちらでもある。自然とヒトの活動、人と人との関係という相互性において、現実は展開している。それを、どちらかの方へ身を寄せてみているのでは、結局個々人の問題としてしか浮かび上がらない。
 動物が単性生殖から両性生殖へ推移していったのが、種の存続に勁さを生み出した。雌雄の別が子々孫々の種の継続に強度を増したといわれている。それはただ単に、生殖においてだけでなく、危機回避や状況適応の進め方にも性差が作用することによって、種の存続はより強度を増したのではないか。私は経験的にというか、経験則からする直感をもって感じている。
 それを説明するためには、次のことを承知して辿らなければならない。
(1)身の形成がこころの形成と不即不離、同時展開であるということ。
(2)感性や感覚、思考や振る舞いは、個々人が独自に形成したものではなく、社会的な産物であるということ。
(3)ヒトは社会的な動物であり、その振る舞いは、社会的な現象として捉えて研究されなければならない。
(4)ヒトのパターン認識や概念化は、社会的な問題として捉え、それに相応しく取り組んでいったときにはじめて、人々の自己認識にも及ぶ問題解決への道筋が拓けてくる。
 ジェンダーギャップというのは、性差を固定的にみて、社会的な問題として捉えていないことを指している。上記の(3)としてはじめて、個々人は「当事者」として社会の問題と向き合うことになる。そうして「研究」してこそ、(4)のように、人々の考え方が変わってくると共に社会意識の変容も現実化してくるというわけである。