mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

集団的無意識と操作された民意

2022-03-23 05:13:53 | 日記
 
民主政体の違いとは何か?

 アラスカで米中の「外交トップ会談」が行われた。「外交トップ」ってなんだ? なぜ外相会談ではないのかという疑問は、TVニュースの画面を見ているとすぐに分かった。中国の外相は沈黙した......
 

 一年前の記事に、ロシアは登場していない。ロシアは「民主主義」と自称しないからなのか。でも選挙とか統治体制のシステムは、民主主義を装っている。でも今度のウクライナ侵攻でロシアの民意は操作されていることが明白になった。ただ、プーチンを支持するといっている人々に操作されているという意識はない。つまり情報操作が日常的になされ、その物語りが(ある程度)国民的アイデンティティとして受け容れられると、ほとんど集団的無意識として身に染みこんでしまうってことか。

 情報操作の要件を、今回のロシアは明らかに示している。

(1)反対意見や相反する情報を封じる。メディアを禁止する。反対者を逮捕拘禁する。反対者の口を(暗殺するなどして)封じる。

(2)でも、どこからか情報の漏れが生じる。経済関係のグローバリズムの所為で、ヒト・モノ・カネの往き来が国家公認のチャンネル以外にたくさんできている。つまり、情報操作の綻びがあちらこちらに出来する。それに対抗するためには、「誤情報/フェイク」を流して、何が事実か、どこに真実があるかを玉石混淆にして分からなくしてしまう。情報への信頼性が、それを受けとる人の無意識によって選別される。あるいは、分からないとして沈黙に向かう。

(3)情報を受容する人の無意識は、大雑把な「政治・政府への信頼感」にある。国家と社会を違うものとして受けとっている人には、社会への信頼感も底流している。それは、身に蓄積された文化的な要素を含めたアイデンティティをベースにしている。情報操作をしている側の国民的アイデンティティには、例えばロシアのヨーロッパに対する「ひけめ・コンプレックス」を感じる。それが国内では反転して、ロシアは大国であるという集団的無意識になっていたりする。プーチンのNATOに対する気質的敵対心は、蟹が自らの甲羅に合わせて穴を掘るというような、ロシアが歴史的に培ってきた無意識の鬱憤が作用しているようにみえる。

(4)経済的な繁栄がアップデートな時代に、そこそこの恩恵にあずかっていると実感している人たちには、政府の情報操作を順接的に受け容れる土壌がある。逆に(なぜかわからないが)不遇であると感じている人たちには、疑いを持ってみる目が養われている。と、これまでは考えてきたが、必ずしもそうではないらしい。経済的な恩恵にあずかっている人たちは、却ってグローバルな情報に通じていて、政府のフェイクをフェイクとして承知している気配がある。順接的に受け容れているとみえるのは、乗っている船が順風満帆であるとき。それが沈みそうとなると、何時脱出するか思案するにも敏感となる。逆に不遇をかこつ人たちは、情報操作を疑うよりも先に、ウクライナでロシア人が迫害されているというニュースに自らを重ねて共感し、フェイクニュースに味方して熱狂的なプーチン支持者になることもある。つまり、情報を見極めるのと、それをどう受け止めて政治的態度を明らかにするかとは、また別問題。これが、「民主主義」の怖いところでもあるし、面白いところでもある。

(5)中国は、国民的アイデンティティの形成から思案して情報操作に取り組んでいる。五族といっているが、少数民族の文化を「保護」するという側面と「中華人民共和国」という統一的アイデンティティを形成するという相矛盾する施策を同時に行わなければならなくなる。とすると、手近には漢民族文化をスタンダードとして国民形成をしようとするのは、当然である。チベット自治区やウィグル自治区への北京語を標準とする教育の徹底は、それ自体が「情報操作」の基本となっている。さらに、例えばチベット自治区では、チベット人の昔からつくってきた街の近くに、それとは別に移住してきた漢族の街を造り、そちらに行政機関や商業地区を設置し、街の名前をそちらが簒奪してしまうような施策が、もう何十年も前から行われている。優秀なチベット人は新しい街で働かざるを得ず、旅行客も新しい街の宿泊所に宿を取り、そちらで買い物をし、そこがチベットだと錯覚して、チベット観光をするというわけだ。つまり、綻びの出ようがないほど、隅から隅まで統治が徹底している。ウィグルのことは(訪問したことがないから)知らないが、その入口である敦煌辺りも、漢民族文化が(キタローのシルクロードの曲も流されて)、その人々とともに圧倒的に流れ込んで観光地づくりとそれに見合った産業の振興が行われていた。ロシアがウクライナに「ロシア語の標準語化」を要求したと聞いて、チベットやウィグルでの中国の施策を思い浮かべた。

 上記の事々を考えてみて「民主主義」を思案してみると、どういう国民的アイデンティティの形成がいいかというよりも、どのように人々が手を携えて「共に国の行く道を探るか」という形づくる「かたち」を思案した方がいいと思う。台湾のオードリー・タンがいう「オープン・ガバメント」を一つの提案と受け止めて、考えていってほしい。