mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

ジェンダーとジェンダー・ギャップ

2022-03-22 11:03:23 | 日記

 男女の性差があり、それがヒトの種族保持に意味を持っている限り、「男らしさ」「女らしさ」はなくならない。「LGBTQ+」がなんだか性差をなくしてしまうようにみられるが、そうではない。性差の端境が曖昧である、グラデーションになっていることが(社会的に)分かってきたのである。
 性差の端境が曖昧(グラデーション)とは、どういうことか。ただ単に、好き/嫌いという性的嗜好が多様であるというだけでなく、社会的活動における性的役割分担も多様であると公認されるようになったことを意味する。ということは、父権主義(パターナリズム)が含み持つ保護すべき存在としての女性/保護者としての男性という社会通念も、変容して行かざるを得ない。
 だからジェンダーと呼ばれる、「男/女らしさ」の社会的通念は、時代と共に変わる。どちらが先かは分からないが、男も女も、その関係的有り様もまた、時代とともに変化する。その変貌変化と社会的通念のズレが「ジェンダー・ギャップ」と呼ばれるものである。
 ということは、一人の人が(ジェンダーを)どのように受け止めているかということよりも、社会的な制度やシステムがジェンダーの変貌をどう組み込んで対応しているかが、問題になる。結婚や家族、相続、職業や趣味嗜好に至るまで、人が暮らしていく上でぶつかる様々な場面において、男女の性差がどう受け止められているかを、社会的なシステムのモンダイとして考えていく必要があるということである。
 ジェンダーが社会的問題であるから、政策をたてつける政治家の「ジェンダー・ギャップ」が際だって問題とされることになる。例えば少子高齢化を考えるとき、まず「不妊対策」を取り上げるというのは、問題を社会的に考えようとすることから逃げている。個人的な問題に限定しようとしているとさえ言える。堕胎・中絶がどの程度多いか知らないが、なぜ子どもを産むことが避けられるかを社会的な問題として考えていけば、子育ての何が障害なのか、どうすればそれを個人的ではなく、社会的に解決していけるかを探る道筋は、みえてくるに違いない。夫婦別姓の問題も、保育園の受け入れの問題も、女性の非正規労働と出産・育児に関する制度整備についても、子育てを社会的に行うという視点さえ築けば、あとは容易に課題が浮かび上がってくる。
 当然、結婚に関する通念も変容を迫られる。フランスが「事実婚」を認めるようになったのは、離婚を禁じるカトリックの通念に変更を迫るのではなく、現実の障害を取り除くことに社会的に対応したからであった。国教会というカソリックとは異なる宗派に属するイギリスなどでも、家族に関する社会通念は、半世紀以上も前に大転換をしている。婚外子が5割に上っていたのもそれを示している。自分の父母が離婚して、それぞれのパートナーとどこどこに住んでいて、自分は父親とそのパートナーとつい去年まで一緒に暮らしていたと自己紹介するイギリス人青年に驚いたのは、35年も前のことであった。当然、家族としての単位の考え方や税制や相続にも関係してくる。「LGBTQ+」が喫緊のモンダイとなってきたのであった。
 日本の「ジェンダー・ギャップ」の障害が何かは、そうやって考えるとはっきりしてくる。旧来のイエ制度に固執する政治勢力が、ボトルネックの一つになっている。森元首相がその象徴的存在であったことはいうまでもない。彼のオリンピック委員会での発言をジョークと受け止めていた私なども同罪であるが、私は社会的な影響がないだけに責任はほとんどないに等しい。
 だが社会的なシステムとしては、企業経営者や管理職、労働組合の指導者たちには、大きな責任がある。それは、女性が働くことについて一人前扱いしていない社会通念を支えているからだ。結婚するまでの腰掛けという見方はさすがにないであろうが、結婚して働く女性に対して、補助労働的な存在とみなす風潮は、結構強い。転勤や時間外労働を引き受けられるかどうかを問うのは、過酷な労働を引き受ける男たちの労働現実にも問題があるが、そういう通念を支えているのが「男は外で女は家で」という家族の労働分担の積年の通弊であった。
 私たちが若い頃には、日本企業の給料体系もその社会通念に寄り添って組み立てられてきた。だがすでに現実の企業労働は、そうした人生経路と歩調を合わせる仕組みではなくなっている。それなのに経営者や労組指導者の通念は旧制度のままで、女性の労働に関してブレーキをかけているのだ。同一労働同一賃金という原則さえ確立できていれば、正規雇用か非正規雇用かは問題にならない。だが、低賃金で雇いたい雇用主の要求がある限り、利用できる社会通念は何でも使うというのが資本家社会の常識である。かくして非正規雇用者が増えて、女性がそれにあたるという格差社会が出来している。
 無論それは経営者だけでなく、大企業の労働組合もまた、同様のシステムを当然として保持しているから、それが社会通念として中小零細企業にも覆い被さってきている。その結果、零細企業ではパート労働しか頼りにすることができず、給料はなかなか正規社員並みにはならない。こうしたことを考えると、ジェンダーの問題は、男女の頭の中ではなく、政策や社会システムとして変えていかなければ、いつまでも旧態依然とした状態が続くことになる。
 ま、私たち年寄りは、男女を問わずそう遠くない時期に消え去るであろうから、自分の問題としては何一つ心配することはない。だが、子や孫の先々を考えると、旧弊を捨てて現実問題に真っ直ぐに向き合う姿勢が大切になろう。その向き合い方を示すのが「哲学」である。歳をとってきて何が取り柄かというと、「色即是空空即是色」という人生観をわりとしっかりと見極めることができることにある。若い頃にあれやこれや、可能性に溢れてうろうろと踏み迷ったり背伸びしていた頃に較べると、何であんなことに右往左往したのかと笑ってしまう。若いということは活力に溢れると同時に、猥雑なことに追われ走り回っていた。今から振り返ると、ま、ヒトってそうやって自分を紡いでいくんだねと、何だか悟ったように思えてくる。
 いずれにせよ、何がいいか悪いか、そう一概に決められない。善し悪しを定めず、モノゴトを見て取る中動態的な視線こそが、天然自然と一体になることを身に染みこませてきたわが身の自然観にも沿っていて、好ましい。