mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

庶民の「情報・認識・確信」の方法

2021-11-10 15:42:07 | 日記
 
や、思い出した。まさに、これこれ。

 「すべて政治に属する」か  池澤夏樹が今年のノーベル文学賞の受賞者ペーター・ハントケのことを書いている(朝日新聞11/6、「終わりと始まり」)。いくつもの刺激的な......
 

 2年経って読み返した。改めて、今自分が立っている所を振り返る。コロナウィルスの感染がなぜ減少しているのか、専門家もわからない、という。誰かが訳知り顔に「決定的なこと」をいってくれれば、その情報を確かめようのない私たちは、(そうであってほしい)という思いを込めて、さっさと信じてしまいそうになる。「コロナウィルスも草臥れたんだ。これで山を越えた」とでも。

 だが、先の衆議院選もそうだ。短期決戦であったという。直前に総裁選を行って顔をすげ替えた与党が、安定多数を確保した。「意外にも」選挙戦前の予想で「相対多数を獲得するだろう」といわれていた立憲民主党が大敗した。だが、短期決戦の間に、広告業者が与党と手を組み、ネットを駆使して情報を操作していたのではないかと、選挙期間中に取り沙汰された。それだけではない。週刊誌で、野党が大勝、与党は版数確保が難しいと予想記事がバンバン打たれた。

 そうしたことが、広告業者の手による情報操作でないということは、たぶん検証できない。まして私たち庶民が、その真偽を確かめることなどとうていできない。ということは、基本的に流通している情報を信じるなということ。信じないで、自分の「確信の根拠」をきっちりと吟味して、それに自信を持つこと。それ以外に、世の中をしっかりつかむ方法はない。と同時に、しっかりつかむと同時に、それをもまた、疑い、吟味し、修正を施し、あらたな「確信」へと為してゆく。

 もしできるなら、他の人たちの言説や振る舞いと照らし合わせて、自分の「確信」の吟味を続けていく。それができれば、まずまずなんじゃないかと、自己流の「情報・認識・確信」の作法を考えている。こうした記事を読み返して、1年に一回の反省の機会をもつことも、いいことかもしれない。


ふれる

2021-11-10 15:30:43 | 日記

 いまリハビリを終えて帰ってきた。体を傷めてリハビリを始め、半年が過ぎた。週に4回であったのも2回に変更した。もちろん初めの頃に較べて、体は楽になった。なにより肩や腕の痛みを感じないで2時間、4時間と歩けるようになった。
 相変わらずなのは、右肩の動き。腕を後ろへ回そうとすると、肩から先へはいかない。肘を折って、背へ手先を回すと、ちょうど掌の半ばが体についた所で、止まってしまう。同様に肘を折って肩先へ指先をつけようとしても、肩につかない。要するに、肩甲骨と腕の付け根にまつわる筋が硬くなって、動かなくなっている。その筋が耳の後ろを通って首の方へ絡まり、また背骨の少し右側に沿って腰の方へと連なっていて、それも痼(しこ)る。それ以外の部分は、おおよそ恢復したと言って良いであろう。
 未だ続く痼りが事故のせいなのか、それ以前からの頸髄神経の圧迫に拠るものなのかわからないが、4月の事故以降、固着してしまったようである。リハビリは、それを解すためにやっている。
 8月からは鍼灸を月2回取り入れ、マッサージもそれまで同様に行ってきた。一つ感嘆しているのは、鍼を打つとき、鍼灸師の人差し指と中指の指先が筋のナニカを探り、探り当てた所へ鍼を打つ。軽くトントントンと鍼が入り、ピクッときたところで止まる。その位置から指が、ナニカを探りながらずれていき、ほんの1cmほどのところでまた、探り当ててトントントンと鍼を打つ。そのようにして、数十本の鍼を打つのだが、その指先が探り当てるナニカの箇所が、ほぼ間違いなく私の痼る筋の要所を衝いていることに、私は感嘆している。
 いやそれが、実は鍼だけではない。マッサージというリハビリの時も、鍼を打つわけではないが、施療の初めに腕や首の動きをやってみて、とりかかる。やはり指先で要所を探り当てて、押さえたりつまんだりして、解していく。その押さえる所が、ことごとく痼っている所とつながっている。しかも押さえてしばらくすると、痼りがほぐれて、体が軽くなっているように感じるのだ。これって、なんだろうと、いつも思う。
 感嘆しているのは、施療士が探り当てているナニカが、間違いなく痼りの要所であること。彼または彼女の指先は、どうやってそれを探り当てているのであろうか。単に「さわる」というのではない。「ふれる」ことによって、私の体からの反応を感じ取っていると思われる。
 理屈を聞きたいと思って、鍼灸師に「鍼を打つって、体に何が作用してるの?」と訊いたことがある。「刺激を与え、そこへ血流が集中してくることによって動きが良くなることを期待している」と、説明があった。骨や筋がどう体を経巡っているかを熟知した上で、ただ「さわる」だけでわかるのだろうか。それとも、「さわられた」ことへの私の反応を感知する「ふれる」ことによって、探り当てているのであろうか。いつか訊いてみようと思っているが、なぜか微妙な領域にふれる質問のように感じて、未だためらっている。
 患者の体の感じる感触が、施療者の指先とのコミュニケーションによって応答し合っているのだとしたら、それは面白いことだと思いながら、いつもリハビリを受けている。(11/8)


サービス提供の一時中断

2021-11-10 15:26:49 | 日記

 昨日昼、記事を書いてアップしようとしたら、インターネットに接続できない。いろいろ手を尽くしている間に、思い出した。何日か前、接続サービス提供元から「2日間程工事のためサービス提供を中断します」と「お知らせ」チラシが投げ込まれていた。それには日時などが記されていたが、そうと思っただけで、すぐ忘れていた。それが今日だったというわけか。オレっていい加減だなあと改めて思う。
 電話が鳴る。「メールを送ったが、どうですか?」と問い合わせ。返事がないので、何かあったかと思ったようだ。「メールも見られない程のことがあったのか」というから、「いやじつは・・・」と説明する。お互い、歳はとっていても、メールを送って二日目ともなると返信が何のが心配になる。せっかちになっているという時代の速度感覚が身に染みているのと、身に何があっても不思議でない年齢という慮りもある。
 ただ、音信手段が一つでないから、音信不通が放っておかれることはないが、逆に電話やネットがなかったときは、郵便での問い合わせになる。その時間的な悠長さの身体感覚と今のせっかちな身体感覚では、「かんけい」の受け止め方が異なるに違いない。
 時間的な悠長さは「便りのないのはいい便り」という俚諺のように、受け止め方の側の想像力に任される所が多分にあった。その想像力が介在する分だけ、「かんけい」に「遊び」があったとは言えまいか。たとえ死んでしまっても、「遊び」の中で生き延びているというのも、「かんけい」を思いの中に委ねて保っているという意味で、現実と幻想との相互性をともにリアルそのものとして実感できていて、好ましく思う。お互いにそういう関係と思っていれば、何年別れていようと、会った瞬間に不在の間が埋まって、やあ元気でしたかと挨拶を交わすような気がする。
 長い別れの間に、「あなた」が身に備えることになったであろう他国の人や風物がもたらしたであろう事々も、「遊び」に加わって、相手に対する「恐れ/畏れ」として感じるようになる。それが、「あなた」に対するリスペクトとして、取り交わす「かんけい」の各所に滲み出してくる。それとはちょっとニュアンスの異なる「思い」が「あなた」から「わたし」に向けて差し向けられるであろうが、それもまた、「わたし」から発せられるリスペクトの気風に見合う敬意を含み持つというのが、私の体験的な実感である。
 郵便制度もなかったとか、庶民が便りを交わすことなど考えられなかった頃には、旅に出るということは永久の訣れと思って、別れの言葉を交わしたであろう。音信が取り交わされる社会システムが整うほど、「遊び」が保っていた「思いの丈」が消えていき、「わたし」がそう思うことと「あなた」がどう考えているかということが、距離を置かず、照らし合わされることになる。「わたし」が勝手にそう思っているが、「あなた」はそう考えていないかもしれないという齟齬が、「わたし」の思いの中に在処を占められなくなる。SNSが行き渡った社会に育った若者たちが、それに適応しようとしてせっかちになり、「返信」が来ないことに苛立ち、実は自分の「我欲」を相手に差し向けているだけに過ぎないのに、それに応答しないのは(無視したことであって)ケシカランといきりたつ。そんなふうに人間を変えてきていると、ストーカー事件などを耳にすると思ってしまう。(11/9)
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 いま(11/10、15:30)やっと通じた。カスタマーセンターに電話をして、操作を教えてもらった。モデムとルーターの電源を一度抜いて、もう一度差し込む。それだけで復旧した。たぶん、使い慣れている人は、すぐにそうするのであろう。そういわれてみると、これまでも何度か、そういうことをしてきたことを思い出した。なんともお恥ずかしい。訓練しがいがないのですね。先ずはこれを、アップします。