今日(11/30)の朝日新聞「取材後記」は《放置する政治家「資格」疑う》と見出しをつけて、憲法の規定を守ろうとしない内閣への苛立ちを、次のように記している。
帝国憲法改正委員会審議中の1946年、《憲法担当大臣であった金森徳次郎の答弁は明快だった。政府や国会で活動する人は「政治道徳の根拠ともなるべき人々」であり、制裁規定をおくまでのことはない、と。……しかし現在のこの国の政治家たちの姿を見ると、金森の見通しは実に甘かったというほかない》という。
臨時国会の召集を求められたのに、「憲法の規定に反して」それに応じないことを元最高裁判事の言葉を援用して非難しているのだが、それはそれでいいとしても、どうして「資格を疑う」という言葉になるのかが、よくわからない。金森徳次郎がいうように「政治道徳の根拠となるべき人々」が政治家の資格を有するというのなら、何処にその規定があるのかきっちりと明示しておかねばならない。75年も前の単なる「担当大臣」の答弁である。それを国会議員の「資格」とみるからには、金森もまた、その根拠を明示しておかねばならない。と同時に、それを引用して改めて国会議員の「資格」を論じるのなら、この論者(編集委員・豊秀一)もまた、改めてその根拠を明らかにしなければ、「実に甘かったというほかない」といわれてしまうよ。
何が問題か。発言者の発言の裏側には、その方の理念とか観念とか思い込みとかそれまでに歩んできた総過程の文化が横たわっている。その一端だけをご都合主義的に採用して、ご自分の主張を展開するのは、これまた単なる「非難」であって、現実認識としても共有されないし、論理的な展開の足がかりにもならない。
では、どちらが「現実」に近いか。あきらかに「資格」を疑われる政治家の存在が現実的である。金森徳次郎の思い描いた「政治道徳の根拠となるべき人々」とは、国会が規定する法律が政治道徳の根拠となり、いずれは国民道徳の規範となることを期待したのであろう。よく、タテマエとホンネと対比されるが、現実的な方がホンネ。とすると実際に生きている庶民大衆は、どちらに重きを置いて身の裡に取り込み生きていく指針とするか。言わずともわかろう。
国家が法律で決めたものが、どういうあしらいを受けるかを、日々国民は、世の中のいろんな出来事を見つめながら、注視しているともいえる。だから国会議員がみっともないことをして言い訳をしたり、文書を改竄したり、変な言葉の用法を閣議決定して宰相を擁護したりすると、そうかそういうことかと国民の「世界観」を手直しして、生きていくのに役立てる。それらの積み重ねが、庶民大衆の「情報・認識・行動指針」となって、集団的無意識として社会を覆うようになる。金森が甘かったというよりも、ホンネを見極めて法をつくらねば、抜け道を探ってザル法にしてしまうと人間認識が、欠けていたのだ。性善説だとよく言われるが、そうではない。人間を性悪説で決めつけるのも、一方的である。そういう見極めではなく、人の日常的な振る舞いと、外からの「規制」がどのような「かんけい」で動いているかを見極めて、そのときどきに最適な対応策を講じなければ、憲法ばかりでなく法律もまた、ただのお飾りに堕してしまう。
今や政治がそのようなお飾りに過ぎないと思えるのは、庶民大衆の見誤りなのだろうか。