mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「学校の変容」はどうモンダイになるのか(5)学校をしっかりつかむ

2019-12-29 06:03:26 | 日記
 
 kさんの挙げた7年間のあいだの「学校の変容」は、以下の5点。④が今回のテーマです。
① 専門家の専門性や権威が疑われる
② 当事者主権の考え方が、ますます強まる
③ ベテランが否定され、ベテランは若手に学べと指導される
④ 生徒は教師をコントロールしようとし、教師は生徒に合わせざるを得ない
⑤ 管理職の力や教育行政の力が強まっている時代
 
 ④に関してkさんは《今日の生徒は、かつての「荒れた生徒」たちのように、あからさまな反抗はしません》と記しています。反抗しない生徒がなぜモンダイなのか。kさんはこう続けます。
 《生徒は教師からの教育的働きかけを「十分に受け取らない」。……(その)ことによって教師をコントロールしようとするのです。具体的には、お喋りをやめない、後や横を向いている、ピアスをつけ続ける、携帯を手放さない、教科書を出さない、鉛筆を手に持たない、課題をやらない、小さな「暴言」を吐く、心を閉ざす、「嫌い」オーラを出す、指示を受け流す、等々です。》
 
 大変ですね、これは。でも、この連載の(3)でモンダイにしたように、このような振る舞いの生徒は、クラスの中でどのように位置づいているのでしょうか。もし彼らの振る舞いがクラスの多数に及んでいるのだとしたら、これは、生徒が教師をコントロールしようとしているというより、「場」が成立していません。底辺高校でよく見られる状況でもあります。わがままな生徒の振る舞いによって学級が成立しないのではなく、学級体制が崩壊しているのです。クラスという「場」を成立させるためには、個々の教師が個々の問題生徒をどう抑えるかという小手先のモンダイではありません。学校全体の教育体制をどうつくるかというモンダイです。
 
 そう考えると、管理職をはじめとして教師がこの状況を深刻にとらえて、総力を挙げて学校の気風を確立しようとし教室の規範を立て直す方向を取らなければなりません。「学校をしっかりつかむ」と私などは標榜して取り組んだことがあります。とはいえ、教師にもいろいろな思惑がありますから、そう簡単に一丸となって取り組むことはできません。私の身を置いた学校のケースでいえば、学年をつくることからはじめました。
 
 一学年3学級の大規模の定時制高校でしたが、上履きを統一し、帰りのショートホームルームを実施し、授業の開始と終了、遅刻などの時刻を厳守する、毎日掃除をきちんとやる。その取り組みの効果が現れるのをベースに、次の学年でも同様にして学校における生活規律を習慣化する。それと並行して生徒会を掌握し、教師の力によるのではなく、学校行事を通して生徒を動かし、他の学年の気風にまで影響を及ぼしていくようにして、7年かけてがらりと学校の雰囲気を変えたことがありました。
 
 7年もかかったのは、古参の教師が転勤によって入れ替わることも必要だったからだと、いまにして思います。腰の重い教師、協力的に動こうとしない教師はあてにしない。それでも、こちらはやることはやるという気概を学年の教師たちが共有することで持ちこたえたと、思っています。振り返ってみると、教育観を共有したことなんて、なにひとつありません。ただ経験則からくる、身に刻んだ生活感覚はそれなりに相通じるものがあったからではないか。そして、目前の整わない教室を何とかしなければならないという思いだけが頼りだったようにも思えます。
 
 当時の教師たちの意思結集に、定時制のことをほとんど顧みようとしない教育行政や管理職への反感を利用したこともあります。一つの学年をつくるとき、他の学年の無策を暗黙の裡に照合して自らの矜持を誇り、無理を押して頑張ったこともあります。生徒会の執行部を握り、全学年の代表者会議を開いて生活規律をつくって行くときには、教室を共有している進学において優秀な全日制を相手に、自分たちの振る舞いの誇らしさを意識させたこともあります。1970年代の後半のことです。
 
 もっと大局的に振り返ると、ちょうど日本経済が安定成長に向かい、一気にアメリカに追いつき追い越すという経済産業の成熟期に突き進んでいたころのことです。一億総中流の姿が見え始め、産業能力主義が一世を風靡していました。その頃に生徒たちの自由な選択と自己責任という「個人責任主義」が社会的にも行きわたり、最底辺と言われた定時制高校の教室に噴出したともいえます。それを当時の私は「七年戦争」と名づけましたが、まさに日々が戦争。教室は戦場であったと、いまは懐かしく思い出します。
 思えば生徒も教師も、時代の大きな変化に翻弄されていました。もしそのとき「教育に関する共通認識」などを説く教師がいたら、笑い飛ばされたに違いありません。そんなことより、定期試験の教室で「答え」を大声で口にする生徒、それを囃し立てて面白がる生徒のいる教室をどうするのか考えろよと、詰め寄られたに違いありません。そうした事態のひとつひとつに、学年やその場に居合わせた教師たちが向き合ったことが、7年の間にこの学校の気風を醸し出したのだと思います。
 
 すでに引退した私は、遠近法的消失点の方から、昔日のわが振る舞いを振り返っています。そうしてみると、高度消費社会への突入のもたらした庶民の生活上の変化は、人間そのものを変えてしまうほどの底力を持っていたと思います。哲学者の東浩紀は「動物化する人間」と名づけましたが、たしかに、心地よいこと、振る舞いに抵抗のないことを主眼にして社会システムがつくられていけば、エゴセントリックな感性が育ち、「生徒が自分を大きくみる」ようになるのも致し方のないこと。その結果現実原則とぶつかり、「自己責任」を問われて立ち往生している若者たちを見ていると、彼らを育てる大人たちの教育の、ひいてはそれを取り囲む社会の仕掛けのどこで間違えていたのだろうと、思案してしまいます。
 
 そういう思案と、kさんの「2019年の構想の最初の見直し」とが、どこで接点を持つだろう。kさんは教師の(学校をつくる)実践というのが理知的な思索によって推進されると考えているのでしょうか。あるいは、教師の一致団結した意志的な仕掛けによって成し遂げられると考えているのでしょうか。振り返ってみると、教師集団がチームになるというのは、結果としてそうなるのであって、集団がチームにならなければ実践が進められないということではありません。実践というのは、日々の振る舞いです。具体アクションというのは、あくまでも一人の教師が単独で始めるものです。それが周囲に影響を及ぼすのは、いろいろな諸相のいろんな要因が作用しますから、一般論的にかくかくをしかじかすれば、こうなるという絵を描けることではないように思います。私は日本の教師のそういう経験則的な教育仕事が、学校という集団の気風をつくり、その気風が生徒に薫陶を垂れるものと思ってきました。だから教師という仕事をしているときの私は、戦中生まれ戦後育ちの日本社会の気風を集積した身柄が、その知的道徳的に主導的な側面を表出させて学校で現れていると思ってきました。
 
 生身の私が社会の気風を体現しているというとき、私の個体性よりは、伝統的に身に継承されてきた「善きこと」をできるだけ体現するように振る舞うことだと意思的には思っていました。でも、じつは意識的に表出することよりも、無意識に体現していることの方が、まちがいなく感覚の若く鋭い生徒の感性には伝わります。ですから、タテマエはコレ、ホンネはソレというのは、そのような文化性として受け取られます。それは「善きこと」とは言えません。とは言え、自分の振る舞いを裏表なく一貫させることができるほど、私は修業を積んでいません。迷いもし、齟齬も出て、しくじります。ただ、それをごまかさない。ぶれるときはぶれていることをかくさない。しくじったときは、なぜしくじったかを真摯に反省する。それが私の人間観でもあるのですが、ひとつの信条になっていきました。
 
 生徒の振る舞いとぶつかるごとに、それら一つひとつの意味するところを私自身がどうとらえているか、何を根拠にそれを良しとしているか、そういうことを考えざるをえませんでした。「ボーっと生きてんじゃねえよ」と5歳児に叱られるのが、いま流行していますが、思えば基本的にボーっと生きてるのが人生です。それの意味を考えたり、思案するのは、いつでも後の祭りです。そのとき、自分の主義主張やメンツに拘泥して、それを守ろうとする振る舞いには、必ず不信がついてきます。でも人は、我知らずそのように振る舞ってしまうのですね。それは「かんけい」に取り返しのつかない破綻をもたらします。臍を噛む様な失態を重ねながら、何とか(失職することもなく)面体を保って退職までこぎつけた、そのように自分の仕事人生を振り返ってみています。