mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「規定」の齟齬を埋めるのは労をいとわぬこと

2019-12-15 16:33:37 | 日記
 
 今日(12/15)は団地の修繕専門委員会。昨年の役割の関係で、一年間はこのお役目を引き継がなければならない。今年は、給水管給湯管更新工事の具体化に向けて、設計監理を引き受けてもらうコンサルタント業者を決める。その業者選定の作業が先月でひと段落し、今月初めの管理組合理事会で承認された。それに従って、今月上旬に候補業者と最終的な文面や金額の調整を済ませ、契約にこぎつけた。そういうこともあって、今日の修繕専門委員会はルーティン事項を片付けて、軽く終わると私はみていた。ところが、午前中の協議時間を超えて長引いてしまった。
 
 団地という集合住宅は、その所有権に関して微妙なところをもっている。住戸の個人所有者(管理組合の組合員)が所有権処分権を持つ「専有部分」、団地の構成組合員全員が共有している「共用部分」、それに共用部分でありながら専用部分が絡み合っている「専用使用権部分」である。今日の案件は、ベランダという「専用使用権部分」においてある給湯器という「専有部分」の設置にかかわる不備。簡略にいうと、給湯器の設置方法がベランダの低い壁を背にしているために、ある方向からの強い風の吹き込みと大雨の両方が重なると給湯器の背中側の下半分から雨水が浸入し、給湯器の置台に開けられた穴を通過する給湯器の給水・給湯の配管と置台のコンクリートの隙間から水が浸入して壁を伝わり、下階の居室に水が漏れるという案件である。
 
 3年も前に話題になり、昨年やっと「浸透実験」を行って原因を突き止めた。給湯器の背面板が下半分にはないという新型機が、 雨の吹き込みを防げない構造がひとつの原因ということはわかった。だが置台の穴を通過する給水・給湯管の隙間の防水手当てがきちんと行われていないことが最大の原因と「調査結果」は教えてくれた。だが、置台に入る処の管の防水工事を完璧にすることは、技術的に難しいとわかる。ということは、背面板の下半分を覆う処置をするしか、方法がない。
 
 昨年分の処置はした。ベランダという共用部分の「事故」であるから、置台の防水処置と背面カバーの取り付けと下階の居室の水漏れによる補修として壁紙の張替えなどを、棟別修繕積立金から支出して3年越しの課題に始末をつけた。総会も通過した。ところが、今年また梅雨時の大雨があって、二例目の「事故」が起こった。これも「調査」をし、昨年同様に始末をした。秋には「経験したことがない」台風が来るというので、理事長たちが関係する全戸に呼びかけ掛け合って、何とか応急の背面板への手当てをしてもらって、何とか「事故」無くしのいだ。同じような構造の給湯器を設置している居室は、ほかに50軒ほどある。その都度、「事故」対応をするしかないが、そうしていたのでは、「事故」一件について50万円余の支出をすることになって、とても負担が大きい。背面板の下半分に簡易的でもいいからカバーを掛けようという話になった。
 
 さてここで、三種に分かれる「所有権」と補修と補修費用負担の出処とが、モンダイになる。給湯器の所有権は「居室組合員の専有権」である。ならば「背面カバー」の補修費用負担は個人になる。だから、補修をするかどうかは、個々の所有者の判断に任せるほかない。だが、異例の大雨や経験したことのない台風がやってくるごとに「事故」が起こって、その都度対応して支出していたら、ずいぶんな高額の負担が棟別積立金に発生する。そこで、簡易な背面カバー用の防炎の樹脂ビニールと接着剤を予め「棟別修繕積立金」から支出して用意し、所有者に取り付けてもらおうと、提案があり、その可否についての検討が、今日行われた。
 
(1)関係全戸に「背面カバーをつける」ことを義務付けてはどうか。費用は、当然、居室所有者と分になる。
(2)「背面カバー」を付けないことによって生じる将来の損害が大きいので、「背面カバー」と接着剤を管理組合で用意し、関係全戸に取り付けていただく。爾後、それをしないで「事故」が生じたときには、下階への漏水については関係戸の個人責任とする。
 
 と、二つに分かれる。だが、(1)の場合も(2)の場合も、「専有権部分」の扱いに関して訴訟になれば、管理組合側が敗訴するだろうというので、思案投げ首になった。そこで、第3案が提示された。
 
(3)管理組合で背面カバーと接着剤の用意は管理組合で行う。関係全戸には、給湯器の背面カバーの取り付けを行っていただきたいと呼びかける。気象が予想外の暴れ方をしていること、将来に生じる棟別修繕積立金の負担を減じることにご協力いただきたい、と訴える。もし設置に手伝いが必要であれば、(修繕専門委員会が)手を貸すようにして、関係全戸に手当を行ってはどうか。
 
 (3)の提案には、今年度の理事会が大型台風接近を前にして、関係戸を訪ねて回って、防水措置を呼び掛けてゴミ袋やビニールシートを張ってもらったりした「働き」があった。そうだよ、そういう呼びかけや働きかけがあってこそ、専有権とか専用使用権とか共用部だとかという端境の関係部分のからまる悶着を乗り越えられる。法や管理組合規約の文言だけでは、埋めがたい齟齬が生じる。それは解釈がさまざまということもあるが、「決めたのだから守れよ」というふうな高飛車な物言いが生む反撥もあれば、事態を理解してもらえないことからくる拒絶もあろう。それらはとどのつまり、モンダイの取り組みを図る理事会や修繕専門委員会という位置に立つ人たちの労をいとわぬ「献身」にあるのではなかろうか。その労をいとわぬ献身こそ、コミュニティの醸し出す「かんけい」性ではなかろうか。やりとりを聞いていて、そんなことを思った。
 
 そうそうもう一つ、長引いたワケ。取り仕切りをする議長役が、「皆さん、ご意見をお聞かせ願いたい」と相談を持ち掛けておいて、いろいろとやり取りしていることに耳を貸さず、ご自分のひっかっかったことに拘泥して、やり取りを全部「ちゃぶ台返し」しようとしたこと。何のために30分も議論したんだよと、私は腹が立って、大声を出してしまった。でも考えてみると、こうした人も抱えて、ご近所はやってるんだよね。労をいとわぬというのは、大声を出すことも我慢しなければならないのかもしれないと、ちょっとばかり反省している。

「問題浮上のいきさつ(1)「教育の謎」規定」の齟齬を埋めるのは労をいとわぬこと

2019-12-15 16:33:37 | 日記
 
 現役の教師をしている50代半ばのkさんと、教師という仕事について、少しばかりやりとりをしています。この方は副校長をしていたのですが、現場での身の処し方に行き詰まりを感じて、平教員に戻りました。あっ、いまは平教員も階層があって平教諭と主幹教諭とあるそうですから、主幹教諭に降りたわけですね。
 
 夏の終わりごろに、このkさんから長文の「2019の構想」と題されたレポートが送られてきました。ここ7年間に考えてきたことをまとめたもの。「中身としてはまだ人にお見せできる段階ではない」「ご意見をいただいて、仕切り直しをするべきは仕切り直して、前にすすみたい」と記していますから、いずれ手を入れて発表するつもりの「草稿」だと思います。ま、いわば「査読」を頼まれたのだと受け止めました。
 
 「2019の構想」は、じつはA4版で93ページもあるものでした。冒頭の3ページで「Ⅰ テーマ」として、執筆全体の狙いを記しています。私は、その冒頭3ページを読んで、あとを読む気力を失いました。「査読」の役を果たすには、なぜ気力を失ったかを正直に書いて返事をするしかありません。A4版で8ページになる、27項目にわたる「メモ」を記して送付しました。10月初旬のことです。そして、そのことをすっかり忘れていました。
 
 12月に初めにkさんから「2019の構想最初の見直し」と副題のついた便りが届きました。私は勝手に「第二稿」と名づけておきます。A4版ページ。
 冒頭のタイトルに、「F先生」と呼びかけていて私を驚かせました。この方とは四半世紀の付き合いですが、「先生」と呼ばれたのは初めてです。何しろ私は、高校や大学で教師をしてきましたが、同僚の教師のことを「先生」と皮肉を交えずに呼んだことは、一度もありませんし、私のことを「せんせい」と呼ぶ同僚には「よしてください、あなたの先生ではありません」と返していたからです。教師になりたての頃、教師がお互いを「先生」と呼び合っているのを奇異に感じ、「○○さん」と先輩教師たちを呼んだために「生意気だ」と毛嫌いされたことがあります。kさんは、副校長になっていたこともあって、関係する教師のことを「先生」と呼ぶようになったのだと思いました。「学校方言」に染まったのか、あるいは皮肉を交えているのか。
 
 kさんは私の「メモ」の指摘を3点にまとめ、それぞれについて彼がどう考えていたのかを叙述しています。
(1)学者のように問い、無限定な「正しい教育」を構築し、「無限定」な解決策を示す。
(2)「合意形成」と「信頼構築」をめぐる問題
(3)「学校の変容」を巡って
 そのあとに《(4)「2019の構想」を換骨奪胎し、「2020の構想」へ》と題してA4版7枚の骨子を記しているのです。
 
 (1)の標題は私の批判的メモから取り出したものです。それをkさんはほぼ全面的に受け入れています。ですが、こういっては身もふたもないかもしれませんが、(1)のようなことは、身に沁みついたクセのようなものですから、そう簡単に着替える体のものではありません。彼の内省に注目しながら、要点を辿ってみましょう。
 
 kさんは「私自身がなぜ、このようにオールマイティな「正義」から発言してしまっているのか、その理由を考えてみると、次のようなことに思い当たります」とまえおきをして、ひとつひとつについて、自問自答しています。
                                             
《①「教育の謎」を、学者のように問おうとした》ことについて
 《私は最初、「教育の謎」を、問おうとしていました。「教育の謎」とは、例えば、「生徒に合わせているだけでは教育にならない。しかし、生徒に受け取られなければ教育は成立しない」というような、教育の難問や逆説を問う、ことです。》
 と述懐します。つまり「問い」自体が「教育一般を問う」ことだから、《抽象的になり難解なものになっていった》と考えています。そうでしょうか。
 
 学校の教師にとっての「教育の謎」というのは、教師自身は「こう振る舞って当然」と考えていることを生徒が受け入れないのは、なぜか。生徒が教師の言葉を素直に受け容れないのはどうしてかと問うことに、はじまります。つまりモンダイは常に具体的に、その現場で発生しています。現場の教師は、その具体的なモンダイの一つひとつに具体的に「応え」ています。それが正解かどうかは、その「応え」が現場のモンダイを解消することに役立ったかどうかによります。「教育の謎」が教師の頭に浮かぶのは、そういうやりとりが終わって、たいていは失敗して落胆しながら、振り返ってみたときです。
 
 そのとき、生徒はなぜ(教師の「応え」を)受け入れなかったのか、と問うこともあるでしょう。そのとき、学校現場の抱えている、当の生徒を包む「全環境」がどう作用しているかにも目が及びます。「全環境」というのは、当の生徒の所属するホームルームや授業の教室や友人関係やその生徒たちの生育歴をふくめた「環境」がかかわりますし、教師たちの振る舞い方の発するオーラや連携や仕事の仕方が醸し出す薫陶の効果も、かかわってきます。たいていそれらのことは、一人の(いまモンダイを考えている)教師の手にあまりことですから、たいてい「謎」のまゝになります。
 
 あるいは逆に、自分はどうしてあのような「応え」をしたのかと問うことも必要です。教師の教育技術とか人柄とか知的力量と言いますが、その大部分は経験的に蓄えられてきたものです。現場の「応え」というのは教師の直観的な判断で取り仕切ってきたと思っています。ひとつひとつを意識的に磨いてきたこと以外は、なぜそうしたのかを本人もわからないことが多いし、また分かったつもりになって言葉にすると、嘘っぽくなることが多いと、私自身は感じていました。ひと口に言うと、文化の蓄積です。
 
 いま私が「教育の謎」とかを口にすることができるのは、すっかり現場を離れて17年も経っているからにほかなりません。学校にも教育にも教師にも、ほとんど無責任に対することができています。ただ長い間、現場で過ごしてきたという体験が、kさんの思考回路に感じる違和感を考察しているにすぎません。たぶん、一般化するというのは、こうした無責任な立ち位置にあってはじめて、手の届く思考の結果なのだろうと思います。
 
 現場の教師をしていた経験からいうと、「教育の謎」の一般的な回答は、現場の教師にはわかりません。現場教師の振る舞いを「第一次資料」として読み解いて「学者」が一般化することはあるでしょう。だが、それが跳ね返って現場の役に立つということは、あまり感じたことがありません。ただ一つ言えるのは、現場を離れた教師は、現場の枠組みがもたらしている社会的制約、法的制約を軽々と飛び越えて、本源的にものを考え、思案を口にすることができることです。その跳躍の、大胆さや本源へ届く視線が、ときに学者たちの思索から読み取れると、面白いなあと思っています。
 
 今日(12/15)は団地の修繕専門委員会。昨年の役割の関係で、一年間はこのお役目を引き継がなければならない。今年は、給水管給湯管更新工事の具体化に向けて、設計監理を引き受けてもらうコンサルタント業者を決める。その業者選定の作業が先月でひと段落し、今月初めの管理組合理事会で承認された。それに従って、今月上旬に候補業者と最終的な文面や金額の調整を済ませ、契約にこぎつけた。そういうこともあって、今日の修繕専門委員会はルーティン事項を片付けて、軽く終わると私はみていた。ところが、午前中の協議時間を超えて長引いてしまった。
 
 団地という集合住宅は、その所有権に関して微妙なところをもっている。住戸の個人所有者(管理組合の組合員)が所有権処分権を持つ「専有部分」、団地の構成組合員全員が共有している「共用部分」、それに共用部分でありながら専用部分が絡み合っている「専用使用権部分」である。今日の案件は、ベランダという「専用使用権部分」においてある給湯器という「専有部分」の設置にかかわる不備。簡略にいうと、給湯器の設置方法がベランダの低い壁を背にしているために、ある方向からの強い風の吹き込みと大雨の両方が重なると給湯器の背中側の下半分から雨水が浸入し、給湯器の置台に開けられた穴を通過する給湯器の給水・給湯の配管と置台のコンクリートの隙間から水が浸入して壁を伝わり、下階の居室に水が漏れるという案件である。
 
 3年も前に話題になり、昨年やっと「浸透実験」を行って原因を突き止めた。給湯器の背面板が下半分にはないという新型機が、 雨の吹き込みを防げない構造がひとつの原因ということはわかった。だが置台の穴を通過する給水・給湯管の隙間の防水手当てがきちんと行われていないことが最大の原因と「調査結果」は教えてくれた。だが、置台に入る処の管の防水工事を完璧にすることは、技術的に難しいとわかる。ということは、背面板の下半分を覆う処置をするしか、方法がない。
 
 昨年分の処置はした。ベランダという共用部分の「事故」であるから、置台の防水処置と背面カバーの取り付けと下階の居室の水漏れによる補修として壁紙の張替えなどを、棟別修繕積立金から支出して3年越しの課題に始末をつけた。総会も通過した。ところが、今年また梅雨時の大雨があって、二例目の「事故」が起こった。これも「調査」をし、昨年同様に始末をした。秋には「経験したことがない」台風が来るというので、理事長たちが関係する全戸に呼びかけ掛け合って、何とか応急の背面板への手当てをしてもらって、何とか「事故」無くしのいだ。同じような構造の給湯器を設置している居室は、ほかに50軒ほどある。その都度、「事故」対応をするしかないが、そうしていたのでは、「事故」一件について50万円余の支出をすることになって、とても負担が大きい。背面板の下半分に簡易的でもいいからカバーを掛けようという話になった。
 
 さてここで、三種に分かれる「所有権」と補修と補修費用負担の出処とが、モンダイになる。給湯器の所有権は「居室組合員の専有権」である。ならば「背面カバー」の補修費用負担は個人になる。だから、補修をするかどうかは、個々の所有者の判断に任せるほかない。だが、異例の大雨や経験したことのない台風がやってくるごとに「事故」が起こって、その都度対応して支出していたら、ずいぶんな高額の負担が棟別積立金に発生する。そこで、簡易な背面カバー用の防炎の樹脂ビニールと接着剤を予め「棟別修繕積立金」から支出して用意し、所有者に取り付けてもらおうと、提案があり、その可否についての検討が、今日行われた。
 
(1)関係全戸に「背面カバーをつける」ことを義務付けてはどうか。費用は、当然、居室所有者と分になる。
(2)「背面カバー」を付けないことによって生じる将来の損害が大きいので、「背面カバー」と接着剤を管理組合で用意し、関係全戸に取り付けていただく。爾後、それをしないで「事故」が生じたときには、下階への漏水については関係戸の個人責任とする。
 
 と、二つに分かれる。だが、(1)の場合も(2)の場合も、「専有権部分」の扱いに関して訴訟になれば、管理組合側が敗訴するだろうというので、思案投げ首になった。そこで、第3案が提示された。
 
(3)管理組合で背面カバーと接着剤の用意は管理組合で行う。関係全戸には、給湯器の背面カバーの取り付けを行っていただきたいと呼びかける。気象が予想外の暴れ方をしていること、将来に生じる棟別修繕積立金の負担を減じることにご協力いただきたい、と訴える。もし設置に手伝いが必要であれば、(修繕専門委員会が)手を貸すようにして、関係全戸に手当を行ってはどうか。
 
 (3)の提案には、今年度の理事会が大型台風接近を前にして、関係戸を訪ねて回って、防水措置を呼び掛けてゴミ袋やビニールシートを張ってもらったりした「働き」があった。そうだよ、そういう呼びかけや働きかけがあってこそ、専有権とか専用使用権とか共用部だとかという端境の関係部分のからまる悶着を乗り越えられる。法や管理組合規約の文言だけでは、埋めがたい齟齬が生じる。それは解釈がさまざまということもあるが、「決めたのだから守れよ」というふうな高飛車な物言いが生む反撥もあれば、事態を理解してもらえないことからくる拒絶もあろう。それらはとどのつまり、モンダイの取り組みを図る理事会や修繕専門委員会という位置に立つ人たちの労をいとわぬ「献身」にあるのではなかろうか。その労をいとわぬ献身こそ、コミュニティの醸し出す「かんけい」性ではなかろうか。やりとりを聞いていて、そんなことを思った。
 
 そうそうもう一つ、長引いたワケ。取り仕切りをする議長役が、「皆さん、ご意見をお聞かせ願いたい」と相談を持ち掛けておいて、いろいろとやり取りしていることに耳を貸さず、ご自分のひっかっかったことに拘泥して、やり取りを全部「ちゃぶ台返し」しようとしたこと。何のために30分も議論したんだよと、私は腹が立って、大声を出してしまった。でも考えてみると、こうした人も抱えて、ご近所はやってるんだよね。労をいとわぬというのは、大声を出すことも我慢しなければならないのかもしれないと、ちょっとばかり反省している。