mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

のらぼうな私

2019-12-20 19:44:01 | 日記
 
のらぼうな

  ああ、とうとう私ものらぼうになった、と昨日思った。  山の会の、私が企画した日帰り登山の日。行き先は奥久慈男体山。水戸と郡山を結ぶ水郡線のちょうど中ほどに位置する茨......
 

 思い出した。一年前、私は「のらぼう」になった。うつけものというほどの意味である。山行の待ち合わせの時間に、電話で目が覚め、慌てた。あれから一年、できるだけともに行ってくれる山友を見つけて、相変わらず歩いている。ただ微妙な体の変化が起こっているような気がしている。疲れが、歯や呼吸器や味覚の衰えに出てくるようだ。何より、お酒が美味しいと思わなくなりつつある。飲んでいても、ま、これでいいやと杯を伏せる。矩を超えずというが、ほんとうに「己の欲するところ」が自動ブレーキになり始めた。いいことか、悪いことか。これからは「のらぼう」な私を標榜しなければなるまい。


問題浮上のいきさつ(4)現場のモンダイが普遍に通じる?

2019-12-20 10:14:32 | 日記
 
 話をさらに続けます。
 kさんは《③「無限定な」「正しい教育」ワールドで、「無限定」は解決策を提示した》と題して、私の指摘に対する自省を綴っています。続けて、
 《私は、「学校教育について語るなら、積極的な解決策が必要だ」と発想しました。そのため余計に、「演繹的」で「オールマイティ」な「教育評論家」による「正しい教育」について、「原因はこうであり」「こうすればうまくいく」語り方をしてしまいました》
 と記しています。「 」の中の言葉は、私の用いた言葉であるようです。ようですと半ば不信を抱いているようにいうのは、kさんの都合でぶつ切りで引用しているからです。たとえば、「学校教育について語るなら、積極的な解決策が必要だ」という発想を私は批判しますが、「現場について語るなら……」ですね。一般論で学校のことを語る分には、解決策など提示しようがないことは、たくさんあります。
 
 「いじめ」のことについても、具体的な、いま、ここに起こっているイジメに向き合うときには、それなりの具体的な対応策を取らなければなりません。それが的を射た対策ではないかもしれなくても、イジメの加害―被害の関係をとりあえず抑えて、対立的に緊張している事態を解きほぐしていくことが必要になると思います。「解決策」というのがなにかも、その場面でモンダイになることですね。イジメをなくすことは「解決策」とは考えていません。その根っこには、私のいじめに関する哲学的な思いもあるのですが、そんな思索や理屈は現場が取り組んでいる事態収拾には、たぶん直接関係しないと思います。
 
 しかし、一般論としていじめを問題にするのであれば、たとえば、イジメは人と人との関係には避けられない、ということも考えてみる必要のあることです。つまり一般論で考えるときには、ヒトの(関係の)根源に降り立ってみることが欠かせません。ただ、現場教師がそのように哲学的に問いを自問自答するのは、現場の取り組みへの批判を組み込んで、実践的な対応策を提示しようと考える途次に、自らの根拠を問うからです。具体的な「解決策の提示」はいつだって、具体的な事態に対するものであって、それが一般的に提示できるものとは思えません。経験的に言うと、理屈から繰り出される「解決策」はタテマエとして聞き流され、結果として(教師への信頼を失わせて)、その場の「かんけい」を一層悪くしてしまいます。
 
 こうした私の経験則的知見は、私自身が人生を歩みながら培ってきた「せかい」観なので、どれがどのような学識的知見に裏づけられているかは、ほとんどわかりません。ただ、学者や知識人の書いた本を読んでいると、ときどき、ああこれって、アレだなと思い当たることがあります。そのように私が学者や知識人の知見を読み取ってきたのであって、そういう意味で、学者や知識人の知見が現場でのアクションに影響を与えるようなことは、ありませんでした。
 
 ただ、こういうことは言えます。
 学校現場の教師も含めて世の中の人たちは、それぞれの「権威」を背負っています。文章を書くときの引用ひとつにしても、デカルトやカントを引き合いに出して記すのと、ただ私の経験だけを記すのとでは、読み取ってくれる重みに違いが出て来ます。それはしかし、レトリックと同じことです。もちろんそれが効用を生むのであれば、そのようにすることを、学校の教師は、生徒を前によくやってきました。しかしこれは、哲学とも思索とも関係がありません。そして余計なことですが、教室でそのようなレトリックを用いると、間違いなく生徒は、そういう修辞的な知識を吸収して、ヘンな権威主義を身に付けてしまいます。それは物を考えるのにほぼ間違いなく、邪魔になります。
 
 kさんは《なぜ「合意形成」と「信頼の構築」にこだわったのか》と自問し、「七年間の副校長経験」に触れています。そのなかで《現場を眺めて思想化する者》として自分を位置づけたと言っています。《現場を眺めて思想化する者》をkさんは《いかなる共同体にも回収されることのない、いわば「カント的な世界市民」》と、規定しています。それがどういうものを意味するのか、私にはよくわかりませんが、現場に身をおく副校長が「いかなる共同体にも回収されることのない世界市民」たろうとするのは、現場から身を放し思念の世界に逃げ込むってことでしょうか。そんなイメージしか、思い浮かびません。あるいは、カントの世界につながりたいと考えていたのでしょうか。だとすると、それ自体が実践世界においては、まったくの見当違いだと、私の経験則は教えています。
 
 単純化して言うと誤解も生まれますが、普遍というのは言葉にならない。語り得ないことです。あるいは逆に普遍の方からいうと、言葉になった普遍は、単なるロジックの積み重ねで、現実存在から離陸してしまうのです。だからカントですら、「純粋理性」と「実践理性」と次元をわけて論題にするようにせざるを得なかったと思っています。では普遍はないのかというと、そうではなく、遠近法的消失点から世界を見たときに在るかのように現れてくることです。いわば幻の「普遍」に向かおうと振る舞うことが実践理性であり、それすらも現場の特殊においては、未完の志向性を示すにすぎません。そうカントは言っていたように、私は受け取っています。
 
 遠近法的消失点というのは、西欧風に絶対唯一神をもたない日本人のもつ超越的視点です。ちょうど絵画における遠近法的消失点に、己を超える視点をおいて、そこから画家の目へ向かう視線を引いて画布に描き落としていく、あの描画法のことです。世界をイメージするときに私は、そのようにして「わたし」の現在地点を見定めるようにしています。その遠近法的消失点が仏教における哲学的な思索に通じています。それでもそれは、実践的なアクションには直に及ぶことがありませんでした。私も退職してから、ぼんやりとわが身の径庭を思いめぐらしているときに、そうした視点が「わたしの超越的視点」と思ったにすぎません。
 
 《現場を眺めて思索する者》というのは、出家をして仏に仕える修行者になるというイメージかと思います。副校長としてばかりか平の教師としても、それでは、現場に立つことができないのではないか。kさん自身は、そうした立ち方について、《このように割り切ることで、教育行政からの副校長としての私の業績評価は、「最低評価」から「最高評価」に変わったのです》と世間的な評価を組み込んでいますが、読んでいて私は、そうかなあ、何か勘違いしているんじゃないかなあ、と感じています。彼自身の自己認識と教育行政からの業績評価との間には、彼自身が感知しえないような次元の違う要素が挟まっているんじゃないか。それが何であるかは、私にもわかりませんが。
 
 現場のモンダイは現場の特殊な要素が働いているコトとして始末されねばなりませんし、それだけのことです。それを「公共性」とか「世界市民」という概念と結びつけるのなら、それは現場のリング外で行われる「場外乱闘」。いや、「乱闘」と名づけては評価が高すぎるかもしれません。たいていは、第三者の勝手三昧評論です。いまメディアが介在することで、ひとつの「現場」がいきなり全国的な世評にさらされますから、どちらかというと勝手三昧評論の方が勢いを得て「世論」をなしたりします。そのため現場の管理職の、その端境の領域に立たされて四苦八苦する姿が、TVの画面にも登場します。メディアの「現場」はプライバシーも何もあったものではありません。文字通り井戸端会議の詮索好き放題です。だが現場の管理職は、生徒のそれらプライバシーも護りながら、しかも生徒の成長を視野に納めるワザを繰り出さなければならないのだろうと、四苦八苦を理解しています。でもそこで苦労するのが教育行政を選んだ人たちの仕事だと、私は割り切って向き合ってきました。そういう意味では、あまり校長や副校長という学校の管理職に同情することはありません。
 
 つまり、「現場のモンダイ」のとらえ方自体に、kさんと私のあいだに大きな亀裂があるように思います。kさんには辛らつな言葉を投げかけているようにみえますが、実はこうした記述を通して、私自身の、こうしたことを俎上に上げないでやってきたことを見つめ直そうとしています。自画像を描こうという作業と考えて、ご容赦ください。