mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

自然史過程と選択のモンダイ

2016-01-29 09:03:48 | 日記
 
 昨日、久しぶりに面白い話をし/聞いて、3時間余を過ごしてきた。私より8歳若い、まだ現役で仕事をしている市井の現象学者Kさん。浦和駅で落ち合う約束をしていたが、東口PARCOの書店の売り場で出会うことになった。早めに到着した彼が、やはり早めに出かけていた私を見つけた。柳の下の泥鰌みたいなものか。互いに溜まるところが似通っている。静かな喫茶店でもと考えたが、あいにく東口に思いつかない。ふと、PARCO9階のコミュニティセンターを思い出し、そちらに向かう。広いフロアに、10人余が座れるテーブルと椅子が会議できるように配置されたブロックが、程よい間隔をとって20~30箇所配置され、すでにどちらも人であふれている。空席を見つけるが、「予約14:00~17:00」とあったりして、ほどなく人が来る気配。窓際の片隅にひとブロックみつけて、角っこに座り話し込む。1年半ぶりか。
 
 いきなり時世をどう見ているかが、話題になる。どうこう言っても時代は成熟してきているとKさん。知も欲望だと付け加える。なるほど知的好奇心も欲望の形である。だが、それを一概に称賛するわけにもいくまい、と私。吉本隆明が、自然史過程は不可逆的だ、戻すわけにはいかない、と言っていたことを取り上げて、欲望の進展を逆回しにはできない、とKさんは展開する。たしかに、その理屈を通して、吉本隆明は流行のファッションで着飾ることも、原発も容認した。その根底に「大衆の原像」があった。
 
  福島原発のことを考えも、コトが起これば30年間は人が住めなくなるようなことは、まだ取り扱うには早すぎるのではないか。それでも、エネルギーの必要から運転せざるを得ないというのであれば、その必要とする地域が原発を設置すればよい、関東圏の必要のために、福島や新潟に原発を設置するというのは、「大衆の原像」でないのではないか、と私。つまり東京圏が地方を植民地のように考えているからではないのか。
 
 それは「効率のモンダイ」とKさん。そうだよね。効率は資本主義の絶対命題だね。でもそれは、どの次元で「効率」を切りとるかを考えねばならないのではないか。つまり「自然史過程は不可逆」でも、それを承知したうえで、「選択」する知恵が求められている。しかも私の立論の根拠には、関東圏と福島・新潟という地方とが同じ平面に位置していないという前提がある。Kさんが「効率のモンダイ」というとき彼には、その前提が一体性にある。資本家社会は「(交換を介在させて)一体化する」ことを前提にしているから、Kさんの前提は(事態がうまく運んでいるときには)疑問を挟ませない。だが、フクシマは、それが一体ではないことを切り裂いて見せた。それと同じように、普天間―辺野古の問題は沖縄と日本が一体ではないことを切り裂いて見せた。それを中央政府とか関東圏の論理で繕うわけにはいくまいと、私。地方分権の問題とナショナリズム/パトリオティズムの現在的在処が浮かび上がる。
 
 地方分権の問題で、Kさんは橋下徹に対して大阪の共産党も自民党も一緒になって反対したことが「ひょっとして希望ではないか」という。旧来の利権を崩すインパクトを持っている、と。彼は橋下徹に地方分権の希望を託すことができるか、と考えているのだ。だがそうではないと、私。あれは大阪市民の「元日本経済の中心地―今凋落する周辺意識」がもたらしたもの、いいところ(関東大震災が起これば大阪が中心になって復興を進めることができるという)日本の二極中心軸を構想しているだけと私はみる。つまり、自分たちのことは基本的に自分たちで取り仕切る庶民のエートスを起ち上げることに繋がらないように感じている。それは橋下徹の上意下達の支配構造が、(庶民の)自律の志向を逆立していると思えるからである。
 
 日本の「ナショナリズム」も、いまや在処は希薄になっている、目下は、パトリオティズムによって支えられている、と私。ナショナリズムは沈潜しているだけとKさん。機をみて湧き起ってくる、と。私はそれが湧き起っても、戦闘には至らないとみる。なぜか。殺されるのが怖いからではない。殺すことができない感性になってしまっているからだと、己を振り返って思う。ナイフをもって人を刺し殺すことが怖い。それが戦後の「憲法九条」の成果であった。Kさんは、殺す縁がないからみている。たしかに平時の感性と戦時の感性とは異なるに違いない。だが、もしそうだとすると、戦時の感性とは何かを見極めなくてはならないと思う。協和の感覚は、平時のみに通用するとっちゃん坊やのセンスであったのか。戦時の闘争感覚は、「排外」的に凝集性を結実するのだろうか。
 
 話はポンポンと飛ぶ。いくら飛んでも、一向にかまわない。久々の空中浮遊のようだ。
 
 Kさんはアダム・スミスの自由放任論がよくできた資本主義論だと評価する。当時のキリスト教倫理の浸透していた社会を前提にして構成されたモデルであったように、資本家社会の論理が(国民国家的というだけでない地域社会の)ナショナリティ(における人々の紐帯秩序)を不可欠の要素としている。それをマルクスが「上部構造」として「下部構造」に従って形成されるとしたことが、上下として劣優の関係に置き換えてしまったから、人為(の政治)が自然史過程(としての経済)によって自ずから形成されるとみて、間違ったのではないか。ウォルト・ロストーの指摘によって、社会主義というのは遅れた国の近代化のショート・ルートとみたことが、資本家社会も社会主義社会も近代合理主義の究極形態を構想していたとみてとれた。
 
 そんなことも話しながら、ふと気づいて、ワインを飲みことにして場を変えた。Kさんも65歳。飲み交わして歓談するのは半年ぶりともいう。ときどきこうした知性に触れてひと時を過ごすのも、いいものだと思いながら、ずいぶん明るくなった夕日の沈んだ後の空を眺めながら、ほろ酔い加減で帰路をとったのであった。