mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

ひだるさに浸るしかあるまい

2016-01-28 09:41:25 | 日記
 
 このところ、一つことに集中することができなくなっている。本を読んでいても、すぐに飽きてしまって、気移りする。これまでもそういうことがなくはなかったが、そういうときには、作業的な仕事――坦々とキーボードに打ち込む作業とか、計数処理的な作業――をしていると気分が浄化されて、ふたたびひとつことをつづけることができていた。あるいは散歩に出て1,2時間歩いてくると気分が転換できるように思った。そういう気晴らしが簡単にできないような身になりつつあるのかもしれない。困ったことだ。
 
 思い当たる原因の一つは、深酒。といっても、大酒を飲むわけではない。少し長時間、おしゃべりしながら飲むから、ふだんよりは多く飲んでいるに違いない。土曜日に3時間ほどの「新年会」を過ごした。もっぱらワインを頂戴したから悪酔いはしていないのだが、日曜日は何もする気がなく、ごろごろと本を読んで過ごした。珍しいことに月曜日もお酒を飲む気持ちにならなくて、二日間の禁酒になった。そして一昨日、火曜日にまた別の「新年会」があった。10か月ぶりに顔を合わせる気の置けない人たちと5時間ほどを飲んで過ごした。この時は2対8くらいに割ったお湯割りの焼酎を、もっぱら頂戴した。暖かく薄めると甘味が増して、ソフトドリンクを飲んでいるような気分になる。この日も、電車の乗り換えをいつもながらのようにして帰宅したのだが、何時ころにどこをどう通ったかを覚えていない。はやばやと風呂に入って寝入ったのは確か。カミサンが4時半に起きて6時前の電車に乗って出かけるのを、ぼんやり眼で見送るのがやっと。昨日一日は、これまた本を読む気にもならなくて、一度買い物に出ただけでゴロゴロと映画を観て過ごした。
 
 そうそうお酒も、毎日のように飲む気にならなくなってきた。ある種の習慣性の飲酒になっていたのであろうが、ほぼ毎日「晩酌」をしていた。お酒を飲まないのは、山に入っているときくらい。それなのに、(まあ、今日はいいか)とお酒を割愛することが起こるようになった。おいしくなくなったともいえる。以前に比べると、酒量が少なくなっていることもあって、わりとおいしいお酒を飲むように心がけている。だから、(おいしくなくなった)というのは、(たぶん)私の体調が受け付けなくなってきたのだろう。もう四十数年も昔に、(うまくないのに何を喫ってるんだ)と感じて、すんなりとタバコを止めてしまったことを思い出す。あれと同じように、お酒もまたそう感じるようになるとは、思いもしなかった。いや、そうなってしまったと、まだ決めつけてはいない。でも、生涯お酒を飲み暮らして肝不全で亡くなった父親の歳まで、あと7ヶ月。身体というのがそういうふうにできているのかもしれない。
 
 悪酔いはしていない。身がひだるい。日本では「身」と呼んで、心身の全体的な調子の総称にしていたと、何かの本で読んだことがある。西欧風に精神と身体を分節して、前者を後者の上位におき、前者が後者をねじ伏せるように「人格」をつくりあげていくのと違い、「身」の全体性は、個々人の感じている体調と社会のエートスとして感じとる「身の置き所」や「身じまい」の自然合一を自然(じねん)としていたから、心身が分裂するとらえ方が希薄で、どちらかというと、「本音」と「建て前」のように融通無碍というか、どちらに内心の重心が移っているかくらいに、端境がぼやけていた。だから「嘘」と「実」もまた、取り換え可能なほどに、「正/邪」で割り切ることをしないいい加減さを文化として持ってきたのではなかったか。
 
 古希を過ぎて何年も経つのだから、いまさら自然(じねん)を捻じ曲げて気取っても仕方がない。己の欲するところに従って則を越えずともいう。欲するところが暴走しそうなほど(お付き合いが)「習慣化して」いても、「おいしくなくなる」という感性に従うことを良しとする自然(じねん)の作動を、受け止めるしかあるまい。身がひだるいときには、ひだるさに浸るしかあるまい、と。