mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

そこんとこ、よろしく

2016-01-15 20:36:02 | 日記
 
 インドネシアで、また、爆弾テロがあった。何だか、世界全体が爆弾テロの対象になっているような感じがする。トルコの爆弾テロに関して(日本)政府当局が「観光地や人が集まるところにはいかないように」という注意喚起をしている。仕事で滞在している人たち向けの呼びかけなのだろう。旅行者はそういうところへ行きたいから旅をしているから、そちら向けには、「行くのを自粛しなさい」と言っているようなものだ。爆弾テロの「効果」は、あらゆるところが舞台だし、事件死亡者の数よりも大きく取り上げられる度合いにあろうから、今後ますます、人が集まるところや観光地の外国人向けに「攻撃」が行われるに違いない。
 
  昨年12月20日の朝日新聞で、黒木英光という東京外語大学の教授が《「テロ」とは何か》というコラムを書いている。「この問いに応えられる人はどれだけいるだろう」と前置きして、
 
《問題は、角度が異なるとまったく違った姿にみえる政治的暴力を一方的な立場から断罪することが不自然でなくなること……(テロとは)わかった気にさせられるマジックワードなのだ》
 
 と指摘して、「そもそもテロは国家が行っていたが、いつのまにか非国家組織が行う無差別大量殺人となり、さらにはイスラム過激派が行うものと限定されつつある」と言っている。
 
 それで思い出した。何年か前の民主党政権時代に民主党の官房長官だったかが、自衛隊のことを「暴力装置」といったのに対して、自民党の議員が「命懸けの使命を遂行している自衛隊を暴力装置とは何事か」と噛みついたことがあった。官房長官はすぐに謝罪したが、そもそも「暴力装置」という用語法は社会学の学術用語であって、噛みつく方が見識がなかったのであるが、(噛みついた議員の胸中を)慮ってみると、国家の(機関的)暴力はすでに「暴力」とは別のものと思われるようになっていたのであろう。そういう意味では、シリアのISグループに対するアメリカやロシア、ヨーロッパ諸国の「空爆」によって多くの民衆が犠牲になっていることは(「テロ」とは)騒がないのに、パリの爆弾テロのことはあんなに大騒ぎすると、悔しそうに口にしていたシリア難民の声が重なる。
 
 そもそもの発端が、2001年の9・11に始まると仮定すると、そのテロが何ゆえに起こったかに踏み込むことなく、テロの主犯であるアルカイダへの憎悪を募らせ、彼を殺害することに米軍は主権国家の領域侵犯などものともせずに、つまり超国際法規的に遂行されたとき、公にして現大統領は喜びの声をあげたのではなかったか。あれもまた間違いなく「テロ」であった。パキスタンの主権など、ものの数とも思わないアメリカの振る舞いは、そういう意味では、越境して遂行されるイスラム系のテロと同列に並ぶ。それをしかし、平然とTV報道でみている私たちは、ほぼ間違いなく、アメリカと同じ舞台の上にいて、先の自民党の議員と同じように、「国家機関の暴力行使」は暴力ではないと容認していると言ってもいいであろう。
 
 そうした国際常識があるから、中国は南シナ海での拠点構築を堂々と進めているし、北朝鮮は「水爆」の開発を懸命に遂行すると言える。つまり主権国家の為す「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」(クラウゼビッツ)と考えているのではないか。主権国家が「政治」を行うのは、国際関係においては正当だ、と。
 
 そう考えてみると、イラクやシリアにおいてひと勢力を張っている「IS」が「イスラム国」を自称しているワケがわかる。彼らも、自分たちの行使する暴力を「政治の延長」だと考えたいのであろう。つまり主権国家と五分の関係をもつことが、まず「非道な暴力」を「政治の延長」と国際社会に了解させる第一歩だと考えているのかもしれない。だが、大きな誤算がある。そもそもどちらも、単なる暴力であることに相違ないからだ。
 
 今や国際関係において、主権国家の振る舞う権力とともに、市場資本のグローバルな振る舞いが世界における地域的な伝統的社会を席巻し、そこに置ける暮らし方を組み替えさせてきている。これも社会的な権力の行使であるが、それが暴力的様相をもってきていることは、12/25の本欄で篠田節子の『インド クリスタル』に触れて述べた。資本市場の側からする論理では「合理的」である振る舞いが、伝統的地域社会においては「暴力的」に作用しているのである。資本の側からは、それは「文明化」だと考えているに違いない。つまり彼らは倫理的価値を持つ正義だと思うであろうが、それをそのまま伝統的社会に押し付けることこそ、9・11の背景にある発生要因ではなかったか。
 
 冷戦時代のように、ソビエト「帝国」が反資本勢力を取りまとめる鍵(の一つ)であったのに対して、それを崩壊させたのちのアメリカ一極の帝国的振る舞いが、主権を持たない「マルチチュード」の反抗を引き起こしたことは、1990年代のG7やWTOの国際会議にしばしば見受けられた。ここでいう「マルチチュード」とは、主権国家に包摂されることのない反抗的意思を持った不特定の大衆(群衆)の集合勢力である。世界各地の行われている「テロ」の実行勢力もまた、そのマルチチュードの一角にほかならない。
 
 とすると、オバマ大統領が年頭教書で、(ISなどの)テロ勢力を完全に一掃すると演説したことは、終わりなき戦争への突入宣言になる。それに追随するしか選択肢のない主権国家・日本の行く末を考えると、間違いなく日本がテロの舞台になることを避けることはできなくなる。これはひょっとすると、北朝鮮よりも手ごわい対応をしなければならない。その過程で、テロの危険をあおり、不審者の入国審査など危機対応をする構えを採用するために、日本の社会がますます窮屈になっていくのではないかと、懸念される。
 
 まいったなあ。中国も韓国も北朝鮮も、外部の主権国家として日本が上手にお付き合いすれば何とかなる事態は、とっくにどこかに吹っ飛んでいる。もしそれらの国々で騒乱が起こると、必ずや日本に飛び火することは間違いない。だからそれらの国々も、どうか上手に国家社会の運営をしてくださいよ。それに加えて、世界を舞台にした「マルチチュード」の騒乱を抑えるには、日本の社会自体が不安定では困る。どうかそこにも十分配慮して、静かな暮らしがつづけられますようにという庶民のささやかな願いを叶えてやってくださいまし。どなたにお願いしていいかわかりませんが、そこんとこ、よろしく。