mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

破天荒とは自然(じねん)に生きること

2014-11-14 11:38:34 | 日記

 ひぐち日誠『破天荒坊主がゆく』(えにし書房、2014年)が贈られてきた。今年の4月に亡くなった編集者である私の末弟が親しくしていた方の著作。贈り主は「(株)日本出版ネットワーク」、弟が起こした会社である。

 

 この本の「編集」をしているのが弟の親しくしていた方で、その後会社の継続に力になってくださっている方である。それはわかるが、でも、「(株)日本出版ネットワーク」はこの本のどこにも顔を出していない。つまり陰の編集会社が(末弟の兄であるという)「縁」によって私に本を贈呈してくれたわけである。そういう「義理」が、いまだ公然と通用しているのが、この業界なのだと思った。

 

 「いまだ」と私がいうのは、私自身の中に「縁」や「義理」によって「公然と」動くのを「非合理的」と思うおもいがあるからである。この「おもい」は(たぶん)青年期に私の心裡にかたちづくられた観念であろう。親父たちの世代は「非合理」であるという非難を、内心に抱いて育ってきた。だって(勝てないと分かっている)戦争をしたんだものと、ひと言いえばその非難は正当化された。暮らしの中の不平等や格差も、「親世代の非合理」が生み出していることと受け止めていた。「封建的」というレッテルも大人を黙らせる呪文のような効果をもった。それは翻って、欧米は「合理的」であり(悪しき)「封建的」なことは排除され(善き)「近代」が充溢していると、これまた単純な思い込みにつながっていた。「青年期の清廉潔白」な感情という世間知が、いっそうその思い込みを正当化させていたに違いない。

 

 だが、この「青年期の清廉潔白」は人の暮らしと「かんけい」の論理的な純化であって、捨象されていることの多さに目を向けていない結果でもあった。大人たちはそれを「世間知らず」と嗤い、青年たちはその大人たちを「汚い」と嫌悪した。しかし考えてみれば、「青年期の清廉潔白」は「論理」の筋道が逆立ちしていることが分かる。人類史がつづいてきた流れの中に私たちは生まれ落ちた。「論理」は、その流れを分節化して掬い取り構成された観念の方法的骨格である。つまり、掬い取られた(純化された)事象の筋道だてた物語りが「論理」なのであって、それが「純粋」にみえるのは、いわば当たり前のことなのだ。逆にいうと、分節化されないことがらを「封建的」とか「非合理」と片付けるのは、イデオロギー的な排除であり、自分の物語りに乗らないことを切り捨てる「正義」の表現だと言える。私の青年時代には、マルクス主義がその役割を果たしていた。「青年期の清廉潔白」を当時は「正義」と呼んだ。

 

 ところが大学に進んですぐに、「近代の超克」が論題になっていることを知る。むろんマルクス主義が超克するという趣旨での論議であったが、それとても、ほんの数年のうちに「社会主義革命は成熟した市民革命を経ることなく(後進国が)近代化する道である」というウォルト・ロストウの「離陸説」が登場して、思っていたほど「近代」が「正義」ではないことを知った。また同時に、マルクス主義は「近代の超克」ではなく、「近代主義の極致」だとも知ることとなった。それはとりもなおさず、「分節化」と「論理」と「正義」を純化したときに捨象していた事柄を組み込んだ「世界認識」をする必要を感じさせた。あるがままの現実を受け容れて、そこに思索の出発点をおこうとする考え方である。

 

 そうしてみると、人類史というか、日本における庶民の蓄積してきた暮らしの中で生まれ、あるいは廃れていった諸々の規範や観念の堆積が、「縁」であれ「義理」であれ「見栄」であれ、それはそれとして必要に迫られて発生し、無用として消えていったのであろう。そして今私たちは、その発生の由来も忘れてしまって慣習的にそれに従う振る舞いをつづけている、とおもう。だから私はいま、出版会の古さを指摘しているのではなく、新しい時代の名残をとどめるやり方をオモシロイと思ってみているのである。

 

 横道にそれすぎた。ひぐち日誠『破天荒坊主がゆく』を読んだ。

 

 身延山の寺に生まれた日誠さんが、修行の傍ら、山と釣りとギャンブルと放浪の破天荒な生活を送り、そこでの人との出会いを記している。破天荒というのは社会規範を護って静かに暮らす凡俗の暮らしからみると型破りを意味する。だが、凡人よりもいっそう倫理的存在であることと思われている坊主が破天荒であるというのは、(凡人からみると)まあ「ちょっと外れた」程度のあり方をしているにすぎない。つまり私たちは、社会規範を所与の観念として規範形成してきた後に、逆立ちして、「かくあるべし」というイメージを思い描いて、そこから現実の事象をみている。良し悪しの判断や正邪、美醜の判断自体が逆立するようになるのである。

 

 日誠さんの語り口は、自然(じねん)を求めて修行しているように見える。坊さんだから「修行」というが、凡俗からすれば、自然(じねん)を求めて趣味に走る暮らしである。それを「破天荒」と称しているのは、ひとえに「ぼんさん」に対する私たち(社会規範)の観念が立ちはだかるからである。それを取り払ってみると、自然(じねん)に生きたいという、人間の本源的な自由への希求が浮かび上がる。それを「破天荒」と称するのは、つまり、時代批判がこめられているからである。いまの暮らし方を「壊す」ことへの思いが重なっている。その求めるところが、「自然(じねん)」にある。それが破天荒と呼ばれるほど、現代の至れり尽くせりで管理・保護された暮らし方は(消費者の好みにあい、消費者を大切にしているからこそ)、窮屈だぜ、蹴っぽってやろうというコンタンを、誇らしげに掲げる。思いや良し、である。

 

 彼岸を視野に入れて今の世を暮してみれば、破天荒こそ自然(じねん)に生きることだと喝破している。さすが破戒坊主、と褒め上げたい。