mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

自然法爾の人類史という文化

2014-11-28 17:16:30 | 日記

 来月の月例登山の案内ができないので、その準備を整えて、若い人にガイドを頼むことにしている。レンタカーの予約や地図や「山の会の通信」の来月号を制作して、必要部数のコピーをとる。先ほど、若い人に手渡すことができた。

 

 明日は2か月に1回のSeminarがある。早いもので、もう11回目、もう1回やれば2年続いたことになる。その「資料」を制作する。「パワーポイントを使うなら準備しますが……」と会場設営の担当者から声を掛けられたが、残念ながら私は、パワーポイントを使ったことがない。確かにあれを使うと、聞いている人の目線は集中する。TVのように図版を多用して、今年1月の「宇宙の謎」を概括したSeminarも分かりやすかった。だが今回は、そこまで技術習得をする気分になれなかった。

 

 レジュメはA4判で6ページ。外務省のホームページやWikipediaやJETROのサイトからとった図表がカラーなので、その部分を2ページ分にまとめ、他はモノクロコピーにしてコピー代金を節約したりしている。7月からメモふうに書き留めてきた文書、「主婦の髪結い政談――東アジアの困ったモンダイ(1)」は、全15回、A4判で31ページに及ぶが、これはSeminar関連のブログに掲載してきた。読んでいる人は、(たぶん)10人に満たないであろう。いまさら「資料」として提出しても、(たぶん)誰も読まない。むしろじかに話をしてすすむやりとりが、思わぬ「傾き」が聞けて面白いと考え、レジュメに絞った。今回は、Seminar開始以来最大の参加者になるというし、ビビッドな問題であるから、皆さんの口が滑りやすくて、面白い展開になるのではないかと愉しみにしている。

 

 合間に手に取っていた佐伯啓思『西田幾多郎――無私の思想と日本人』(新潮新書、2014年)を読みおわった。面白かった。佐伯は「学生に尋ねてみても、丸山真男も小林秀夫も……名前を知っていれば有難いくらい」と嘆いている。私も嘆かれた口になろうか。西田幾多郎は高校生の時に『善の研究』を手に取ったことがあったが、なぜこんなことをこんなふうに論じるのか、視界が見通せずに途中で投げ出してしまった覚えがある。哲学的な「論題」がどこから発生し、どこへ向かって論理が展開されているのか、皆目わからない。五里霧中であった。それがいまなら、佐伯啓思の噛み砕いたのを通じてだが、さしたる抵抗なく入ってくる。むしろ佐伯の例示する展開が(余計な要素を取り込んでいて)わずらわしいと思うほどだ。これは「経験」の積み重ねゆえなのだろうか。それとも、そうした「論題」に慣れ親しんだからなのだろうか。おそらくどちらも正解ではない。読み取ろうとするテキストが「わからない」のは当たり前、自分がどう読み取るかがモンダイ、と見切るようになっているからだと思う。「わからない」とわかれば、それはそれでいいと自分を見切っている。断念とも違う、諦念とも違う。バカの壁と言われれば、そうかもしれないと思うが、そういう自分を別に嘆くわけでもない。「世界」はその程度にみえてまあまあだ、と「向上心」を持たない自分が屹立している。年も年だし、「わかって」もすぐに忘れるしさ。「無無明 亦無無明尽」、物事が分からなくて困ることもなければ、分かりつくすこともない。すべてが消失点に至ることを軽やかに自覚することができる。

 

 その中でとりわけ気に留まったことのひとつ、「絶対無の場所」という提起。これは長年どう論理的に説明していいか分からなかったことを、氷解させた。経験的にはそう思ってきたのだが、私たちが「世界」を認知するときに超越的な視線をかならず持たなくてはならないにもかかわらず、それをどのようにして取り入れているのか、ことばにできなかったのである。絶対神をもたない私(たち日本人)が、欧米を媒介にして超越的視線を手に入れているというのは、眉唾物というか、けっきょくは相対的な「他者」に過ぎないのではないか、と。このことは、次の点にも通じる。

 

 これによって、絶対神をもたない私たち日本人が「私」を感得することができ、西欧哲学を経由しないで(というか、西欧哲学に比肩するようにして)、モノゴトの探求に向かうことができる。そういう西田の哲学的構築であった、と。これは、須らく西欧文化の枠組みに翻訳することを通してしか私たち日本人は、哲学や社会や人間を語ることができないと長年感じてきた桎梏を緩めてくれる。それによって、違った水路を通して「世界」が見て取れるように感じる。

 

 その西田哲学を親鸞の浄土真宗とリンクさせている佐伯の跳躍が面白い。「自然法爾(じねんほうに)」と佐伯啓思は飛躍させて、日本文化に結びつく地平に導く。これは昨日記した「仙人」の中世の能の世界、陰の世界を生きていた人々の感性と結びつく。そう思うと、いまさらながら、陽の世界に花を咲かせて消費生活をしている我が身が、いかに似非ヨーロッパ化してるかに、思い至る。似非ヨーロッパ化というよりも、近代資本制社会の豊かさの最先端にいて、ひょっとすると人類史的な文化の回天のフロンティアに立たされているのではないか、とさえ思ったのであった。「無常ということ」を潜り抜けた地平に、坦々とした暮らしの(価値的にどうかということなどどちらでもいい)継続がつづいていく、そういうのが自然法爾の人類史だという文化を、垣間見たような気がしたのである。