mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

倍音(4) いま切実に感じとる「存在の危機」

2014-11-02 16:11:34 | 日記

 中村明一『倍音――音・ことば・身体の文化誌』(春秋社、2010年)をもう少し敷衍しましょう。

 

 倍音の考察を通じて、言葉も音楽も自然音(音響)も同じものととして受け止めることできます。西欧人の脳が、自然音を右脳で受け取っているということが、ことばに特権的に位置を与え、ひいては理性的認識という近代理知主義へ道を開いていることも、前回触れたことでみてとれるようになりました。

 

 中村氏は「音は空気の振動である」と、単純に規定します。それはあたかも、ミクロの探求の結果、動物も植物も鉱物も同じ分子の結合であるという地点にたどり着いたかのように、聞こえます。その結果彼は、音は「脳内で音にしている」と敷衍します。つまり自然界には様々な空気の振動が起こっているにもかかわらず、私たちは、自分の聴きたいことや関心のあることしか耳にしないという芸当を無意識のうちにしています。もっと広げていえば、犬には聞こえている音も私たちには全く聞こえていないことがあります。

 

 逆にいうと、もろもろの音がしているのではなく、もろもろの空気の振動がある、そのうちのキャッチしたものの一部だけを音として認識しているのですね。認識していないけれどもキャッチしているのは、「倍音」です。あるいは「虫の音」や鳥の鳴き声、せせらぎの音も快適なヒーリングの音として認知する私たち日本人と、雑音として無意識の排除していている西欧人という対比になるでしょうか。

 

 だから私たち人間は、聞きたくない自然音を遮断することもしています。たとえば、西欧音楽が「倍音」を排除し、「基音」を「純粋音」として取り出すことを優れているとするのも、そのひとつです。その結果、メロディやリズム、ハーモニーを構成するという、西欧音楽の構成法が成立するわけです。ところが日本人は「倍音」を聴き取ることに優れていると中村氏はいいます。そのため、邦楽においては「倍音」奏でることに力点を置き、西欧音楽のリズムやメロディよりも、「音質」や「間」、能の囃子に用いられる笛(能管)のように音階を歪ませること、鼓に挟まれる掛け声などに向かいました。「西欧的な視点からすれば、現代音楽のような超アヴァンギャルドな世界が展開している」と中村氏は指摘します。

 

 日本語の中で生きてきた私たちも、学校教育は、西欧化を基調としてきました。口を大きく開けて声を出しなさいと音楽の教師から言われ、一音一音をはっきりと、あたかも全部の音の間にスタカートが入っているかのように歌ったものです。あるいは「ア・エ・イ・ウ・エ・オ・ア・オ」と母音を明快に押し出す発声を繰り返したこともありました。NHKばかりではありませんが、アナウンサーも、倍音を消去して基音を出すことに訓練がなされていると、聞きます。中村氏は、こうすることによって日本語そのものが変わりつつあると、危機感を表明しています。

 

 こう聞いてみると、山へ向かう私の心根のところが疼き始めます。どうして山へ行きたくなるのか、自然と一体化したいからだと理屈を並べて思ってきました。だが、自然の声を聴くというか、自然にあふれ散る空気の振動を、我が心の裡に満たしたいと言ったほうが、より精確かもしれません。身体が聴き取るのであって、意識することとは全く異なる分量の受信をしているのだと思います。中村氏は本書の中で「パナマの熱帯雨林の環境音の周波数解析図」を掲載しています(p207)。そうしてこう述べています。

 

 《熱帯雨林においては、すごい音響の波がつねに押し寄せていることをはっきりと見てとることができます。これは特に騒がしい状態のときに録音されたのではなく、熱帯雨林においては常に、虫の声、鳥のさえずりやケモノの吠える声、風による葉の擦れる音、木々に水が滴る音、そういったおとのひびきが絶えず流れているからなのです。》

 

 私も、パナマの隣国コスタリカを旅したことがあります。熱帯雲霧林の、まるで水の中にいるような重い暑苦しさと湿っぽさの空気と、鳥やカエル、虫、雨や水の音でにぎやかなホテルの庭を思い出します。これに比べれば、日本の山の森は、ほんとうに静かです。それでも、そこに響く空気の振動を体に心地よく感じて身を浸してきたのだと思うと、西欧的な純音への執念など簡単に忘れて、自然音の響きをもっときちんと感じとっていきたいと思うほどです。

 

 それは今の時代に対する、体の憶えている内奥からの時代批判なのかもしれません。ことばにならないが、身体が抵抗している、と。もちろん、そこそこ豊かな暮らしをしていることも忘れずに、生物的存在として危機を感じているのではないかなあ。そんな自分をほめてやりたいというのではなく、そういう危機感を感じるのも、ひょっとしたら私たちの世代が最後になるのかもしれない、と思うのです。何しろ私たちは、農業就業人口が60%を越える時代からここまでやって来たのですから。ヨーロッパ社会の200年分をその三分の一の速さでたどってしまったことを考えますと、切実に危機を感じとることがあっても、不思議ではありませんね。