小説やドラマなど、フィクションをまったく認めない人が、ときどきいる。時間どおりの生活、目標を決めて、きっちりとやりこなしていく、という感じの人に多いように思う。
ノンフィクションは、見るというこういう人達は、小生に言わせると足りないものがある。それは、人生の機微の理解力に欠けている気がすることである。自信があるともいえるが、知らないから大胆になれるということもあるかもしれない。
ドラマをみて、共感するという行為自体を理解できないのだから、人の気も知らないで・・・、ということはあるように思う。考えるのは、自分のことばかり、かもしれない。
たしかに、実用的ではない。実生活において、小説やドラマに打ち込んでいては、生活が成り立たない側面も明らかにある。だが、これをオミットして、平気というか、捨象することは、人間文化の大きな側面に触れないというわけで、大きなヌケが生ずるように思う。
仕事に関して、信頼がもてるということはあるかもしれない。あるいは、生活のなかで、ドラマや小説に近いことがあって、人生の真髄に触れて悟りきっている可能性もある。
だが、一般に若くして、そんな風に言うのは、かなり傲慢とみていいかもしれない。そんなに、人生を甘くみていいの、という気持ちもある。
新聞に、小説は実学である、という意見の文章が掲載されているのを見たことがある。この方は、小説から多くのことを学んだと言っている。小生は、そんなに、読書家ではないが、たしかに、単純に面白いだけではなく、必ず、得るものがあると思う。
作者が、なにを意図して書いたのか、いろんな動機があって、作品自体も、いいもの、それほどでもないもの、もあるけれども、簡単には体験できないこと、認識の世界の広狭など、明かに、人生のなかで、深さ、広がりを与えてくれる役割があると思う。
これを、言下に切って捨てて、平然としている人物は、小生は信用できない気がする。その仕事ぶりにも、疑問をもってしまう。
小説やドラマの役割をみとめつつ、なかなか、小説やドラマに触れられないと嘆いている人がいるとすれば、この人は、その意味を理解しているのであり、上記の「切捨て」とは違うので区別しなければならない。
それと、こういう人物は、大抵は真面目な、堅物であったりする。見込みがないのかといえば、そうではない。なにかの機会に、そういうものに触れて、感動すればヘンシンも可能で、その場合は、より深いもの、激しいものになるかもしれない。
こういう人達を唸らせ、感動させることが小説やドラマに携わる人びとの願いだったりするかもしれない。あるいは、倉本さんが、自分が書いているのではなく、書かされている気がすると、昨夜の、オーラの泉で述べておられたが、そういうカミサンがいるとすれば、格好の目標物であるかもしれない。
ノンフィクションは、見るというこういう人達は、小生に言わせると足りないものがある。それは、人生の機微の理解力に欠けている気がすることである。自信があるともいえるが、知らないから大胆になれるということもあるかもしれない。
ドラマをみて、共感するという行為自体を理解できないのだから、人の気も知らないで・・・、ということはあるように思う。考えるのは、自分のことばかり、かもしれない。
たしかに、実用的ではない。実生活において、小説やドラマに打ち込んでいては、生活が成り立たない側面も明らかにある。だが、これをオミットして、平気というか、捨象することは、人間文化の大きな側面に触れないというわけで、大きなヌケが生ずるように思う。
仕事に関して、信頼がもてるということはあるかもしれない。あるいは、生活のなかで、ドラマや小説に近いことがあって、人生の真髄に触れて悟りきっている可能性もある。
だが、一般に若くして、そんな風に言うのは、かなり傲慢とみていいかもしれない。そんなに、人生を甘くみていいの、という気持ちもある。
新聞に、小説は実学である、という意見の文章が掲載されているのを見たことがある。この方は、小説から多くのことを学んだと言っている。小生は、そんなに、読書家ではないが、たしかに、単純に面白いだけではなく、必ず、得るものがあると思う。
作者が、なにを意図して書いたのか、いろんな動機があって、作品自体も、いいもの、それほどでもないもの、もあるけれども、簡単には体験できないこと、認識の世界の広狭など、明かに、人生のなかで、深さ、広がりを与えてくれる役割があると思う。
これを、言下に切って捨てて、平然としている人物は、小生は信用できない気がする。その仕事ぶりにも、疑問をもってしまう。
小説やドラマの役割をみとめつつ、なかなか、小説やドラマに触れられないと嘆いている人がいるとすれば、この人は、その意味を理解しているのであり、上記の「切捨て」とは違うので区別しなければならない。
それと、こういう人物は、大抵は真面目な、堅物であったりする。見込みがないのかといえば、そうではない。なにかの機会に、そういうものに触れて、感動すればヘンシンも可能で、その場合は、より深いもの、激しいものになるかもしれない。
こういう人達を唸らせ、感動させることが小説やドラマに携わる人びとの願いだったりするかもしれない。あるいは、倉本さんが、自分が書いているのではなく、書かされている気がすると、昨夜の、オーラの泉で述べておられたが、そういうカミサンがいるとすれば、格好の目標物であるかもしれない。
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