作品名「ドストエフスキイと愛に生きる」(原題 Die Frau mit den 5 Elefanten )
監督バディム・イェンドレイコ 脚本バディム・イェンドレイコ撮影ニール・ボルブリンカーステファン・クティ編集ギーゼラ・カストロナリ=イェンシュ
製作年2009年 スイス・ドイツ合作
魅惑的なタイトルに惹かれ、なんの予備知識もなく見た映画。なかなか見応えがあった。ひとつにはまずドストエフスキイを84になっても訳し続けるという主人公のスヴェトラーナの魅力がある。1923年にキエフで生まれ、終戦間際にドイツに亡命した女性の日常が淡々と描かれる。この女性ときたま目が強い意志をもつときがある。なかなか恐い目になる、それが印象的だった。翻訳についての彼女の考え方にはうーんとうなるところがたくさんあった。ロシア語には持つという動詞がないのよという言葉、テキストは織物と同じ、これもなかなか含蓄のある言葉であった。
もうひとつというか自分にはこっちの方の印象が強かったのだが、彼女が60年以上ぶりにキエフに帰るという後半のシーンのひとつひとつが強い印象として残った。現在のロシアとウクライナをめぐる情勢ということが自分にはひっかかっていたということもあるのかもしれないが、例えばドイツがキエフを占領したとき、市民たちはドイツ軍を歓迎したという回想シーンにはドキッとした。このあとドイツはウクライナのユダヤ人を虐殺していく。
こうした歴史の重みを伝える映像や写真をはさみながら、スヴェトラーナは孫娘と一緒にキエフを歩く。雪の中歩くのもつらいなか歩く。その歩みにはなんともいえない重みが感じられる。
わりと最初の方の場面で彼女が質問に答えるかたちで「ドストエスキイを訳すことは自分にとっては贖罪だ」と言っていたのがとても重く感じられた。監督はこのあとあまり突っ込まなかったので、これに対する答えがこのあとの彼女を追うなかであぶりだされるのかと思ったら、そうでもなかった。あそこでやはり突っ込んで聞いてもらいたかったという気もする。
彼女はたんに文学が好きで、ドストエフスキイが好きで翻訳をしているのではない、彼女が贖罪といった、なにか宿命のようなものがあったのではないだろうか。
監督バディム・イェンドレイコ 脚本バディム・イェンドレイコ撮影ニール・ボルブリンカーステファン・クティ編集ギーゼラ・カストロナリ=イェンシュ
製作年2009年 スイス・ドイツ合作
魅惑的なタイトルに惹かれ、なんの予備知識もなく見た映画。なかなか見応えがあった。ひとつにはまずドストエフスキイを84になっても訳し続けるという主人公のスヴェトラーナの魅力がある。1923年にキエフで生まれ、終戦間際にドイツに亡命した女性の日常が淡々と描かれる。この女性ときたま目が強い意志をもつときがある。なかなか恐い目になる、それが印象的だった。翻訳についての彼女の考え方にはうーんとうなるところがたくさんあった。ロシア語には持つという動詞がないのよという言葉、テキストは織物と同じ、これもなかなか含蓄のある言葉であった。
もうひとつというか自分にはこっちの方の印象が強かったのだが、彼女が60年以上ぶりにキエフに帰るという後半のシーンのひとつひとつが強い印象として残った。現在のロシアとウクライナをめぐる情勢ということが自分にはひっかかっていたということもあるのかもしれないが、例えばドイツがキエフを占領したとき、市民たちはドイツ軍を歓迎したという回想シーンにはドキッとした。このあとドイツはウクライナのユダヤ人を虐殺していく。
こうした歴史の重みを伝える映像や写真をはさみながら、スヴェトラーナは孫娘と一緒にキエフを歩く。雪の中歩くのもつらいなか歩く。その歩みにはなんともいえない重みが感じられる。
わりと最初の方の場面で彼女が質問に答えるかたちで「ドストエスキイを訳すことは自分にとっては贖罪だ」と言っていたのがとても重く感じられた。監督はこのあとあまり突っ込まなかったので、これに対する答えがこのあとの彼女を追うなかであぶりだされるのかと思ったら、そうでもなかった。あそこでやはり突っ込んで聞いてもらいたかったという気もする。
彼女はたんに文学が好きで、ドストエフスキイが好きで翻訳をしているのではない、彼女が贖罪といった、なにか宿命のようなものがあったのではないだろうか。
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