デラシネ日誌

私の本業の仕事ぶりと、日々感じたことをデイリーで紹介します。
毎日に近いかたちで更新をしていくつもりです。

チェーホフ

2005-01-08 22:37:41 | 買った本・読んだ本
書名 チェーホフ
著者 浦 雅春    出版社 岩波書店(岩波新書)  発行年 2004年

チェーホフほどいろいろな読み方がされる作家もいないだろう。チェーホフ好きの人に、自分の感想を話すと、そうなんだよねえと、こっちが投げたボールを受けとめられず、いや違うよと反論され、話が妙にかみ合わないことが多い。自分だけのチェーホフの世界を持った人が結構いるのではないだろうか。それがチェーホフの魅力だという気がする。特に芝居をやっている人たちのチェーホフ観は、独自なものが多い。最近も朝日夕刊で井上ひさしがチェーホフのことを書いていたが、戯作者としてのチェーホフに的をあてたところが、井上的だと思った。古くは宇野重吉の「桜の園を読む」が独自の読み方で、評判になった。
それぞれチェーホフがあっていいし、いままでもそういう読まれかたをされてきたわけで、それがチェーホフらしいところだと思う。例えばこれがチェーホフ論の決定版なんてものは、永遠にでないような気がする。チェーホフ論が、いつも読む側に過不足感を抱かせるのは、語り尽くせないなにかがある、語り尽くしてしまうと、チェーホフではなくなる、そんな居心地の悪さこそ、チェーホフの世界そのものなのかもしれない。だからチェーホフ論が死後100年経っても、あいも変わらず次々に現れるのだろう。
本著の著者は、ロシア文学で、チェーホフを専攻する学者である。作家や演劇人が、自分のチェーホフ観を語るのとは違うものを提示しなくてはならなかったはずだ。
21世紀のいまからチェーホフを見る、とか文体論で新たな解釈をするとか、そんなものを期待したのだが、きわめてオーソドックな切り口で、チェーホフを語ることに終始した本となった。

目が覚めるような斬新な読み方、解釈は見られなかった。よく言われてきたようなデスコミニケーション、中心の喪失、ナンセンスの意義などが展開されている。枚数が限定され、しかも専門でもなく、一般の読者を想定しなければならない、新書という枠のなかで、大胆な突っ込みは難しかったのかもしれない。またその手法も、作家が書いた作品にこめられた意味を、残された手紙をもとにひきだす、あるいは同時代の評論家の読み方を参照にするなどきわめてオーソドックスだった、ということで、「いま」という視点からが欠如していたように思える。
個人的には著者が最終章で提示した、「音」と「呼びかけ」という切り口はとても面白く、もっと展開して欲しいテーマだったので、あのあたりを中心に突っ込んでくれたらという気がしている。新書という枠では展開しきれないテーマだったとは思うが、ぜひまた次の機会に、深化してもらいたい。
また著者はメイエルホリドやアヴァンギャルドについて長年研究をしており、チェーホフの演劇の現代性という視点からの突っ込みもあって良かったように思える。その意味でも、新書という枠でおさまらないようなところで、思う存分書いてものを読んでみたい。
新書は、あくまでも水先案内的な役割が先行するわけで、それを十分に意識しながら書いていたと思う、そこにジレンマもあったと思うのだが、たくさんの作品を取り上げていたことによって、チェーホフをまったく知らない人も、この書がきっかけとなり、読んでみようかという気にさせたことは間違いない。現に自分も、この書を読みながら、読まなくてはと思ったチェーホフの作品がいくつかあった。チェーホフのことはちょっと気になるがまだ読んだことがないという人にとって、この本はいいきっかけを与えてくれるはずだ。
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