この醍醐中将の話もねずさんが最初に教えてくれました。それ以後何度も書いてくれています。
昔の日本人の素晴らしさを思い知らされます。日本人にはこんな凄い方がおられたことに感動するしかない。
劣化した今の日本人にこれほどの人がどれ程いるかと考えると絶望感しかない。
今回も感動とともに読みました。
何時ものように全文をリンク元で読んで下さい。
ねずさんの学ぼう日本より 2022/08/17
日本人の生き方 醍醐忠重海軍中将
・・・略
昭和四十九年になって、上杉大尉と同期だった小説家の豊田穣氏がこの地を訪れているのですが、三十年近い時を経由しても、その汚さはまったく変わっていなかったと、著書に書いています。
醍醐海軍中将は、昭和二十二年二月にこの刑務所に入れられました。
刑務所の周囲には、深さ二メートルほどのドブがありました。
そこは猫の死体などが浮いていて臭気のひどいところでした。
看守は、そのドブさらいを醍醐海軍中将に命じました。
普通、これはありえないことです。
海軍中将といえば、国際的には三ツ星のヴァイス・アドミラルです。
それだけの高官は、世界中どこに行っても敬意をもって迎えられるものだからです。
けれど、オランダの醍醐海軍中将に対する措置は真逆でした。
それは、報復のためでした。
醍醐海軍中将は、真っ暗なドブにもぐって、メタンガスで窒息しそうになりながら、何時間もかけてドブの掃除をしました。
それだけではなく、毎日、笞で打たれたり、殴られたりもしました。
しかし醍醐海軍中将は、最後まで泣き言も愚痴も、ひとことも口にしませんでした。
インドネシア人の看守は、ついに醍醐海軍中将の堂々とした態度に心惹かれてしまいました。
そして、
「自分の権限でできることなら、何でもしてあげるから申し出なさい」と言ってくれるようになりました。
どのみち報復目的の一方的裁判です。
すべてが書類の上で運ばれ、反対訊問も、証人を呼ぶことも許されず、裁判はわずか三時間で終わりました。
そして十月三日、醍醐海軍中将に死刑の判決が言い渡されました。
死刑の判決が出ると、その後に、助命嘆願書をオランダ総督に提出するのがしきたりです。
嘆願書が却下されてはじめて死刑が確定するのです。
死刑が確定した時、通訳が醍醐海軍中将にそのことを伝えました。
醍醐海軍中将は、
「ありがとう。大変お世話になりました。
オランダの裁判官の皆さんに、
あなたからよろしく申し上げてください」と静かに言ったそうです。
処刑は民衆の面前で行なわれました。
処刑の模様を、華僑新聞が次のように伝えています。
「醍醐はしっかりと処刑台上に縛りつけられ、
身には真っ黒の洋服を着用、
頭にはラシャの帽子を被り、
目かくし布はなかった。
努めて平静の様子だった。
刑執行官は希望により歌をうたうことを許したので、
彼は国歌を歌った。
その歌調には壮絶なものがあった。
歌い終わって、さらに彼は天皇陛下万歳を三唱した。
それが終わると、
直ちに十二名の射手によって一斉に発砲され、
全弾腹部に命中し、体は前に倒れ、鮮血は地に満ちた。」
陸軍の現地軍司令官として同じ獄中に生活し、醍醐海軍中将の四カ月後に処刑された海野馬一陸軍少佐は、醍醐海軍中将の処刑のことを、どうしても日本に伝えたくて、彼が持っていた谷口雅春著「生命の実相」という本の行間に、針の穴で次の文を書き綴りました。
これはのちに彼の遺品として日本に返還されています。
そこには、次のように書いてあります。
「十二月五日
昨日、醍醐海軍中将に死刑執行命令が来た。
閣下は平然としておられる。
実に立派なものだ。
一、二日のうちに死んで行く人とは思えぬ位に。
かつて侍従武官までされた人だったのに。
十二月六日
海軍中将侯爵醍醐閣下銃殺さる。
余りに憐れなご最後だったが、併しご立派な死だった。
国歌を歌い、陛下の万歳を唱し斃れられた。
その声我が胸に沁む。
天よ、閣下の霊に冥福を垂れ給え。
予と閣下とはバタビア刑務所以来親交あり、
予の病気の時は襦袢まで洗って頂いたこともあり、
閣下は私のお貸しした『生命の実相』をよくお読みになり、
死の前日、そのお礼を申された。
閣下の霊に謹んで哀悼の意を表す。」
東日本大震災の現場でも、そして目下の熊本地震の避難所でも、たいへんな暮らしの中で明るくみんなを励ましながら生きておいでの方がたくさんいます。
よく「頑張る」と言いますが、日本語のガンバルは、
「顔晴る」なのだそうです。
醍醐海軍中将は、名誉や地位よりも、現場の一兵卒としての道を選ばれた人です。
華族でありながら、普通の日本人と一緒に働く方でした。
誰よりも努力し、潜水艦長、艦隊司令長官にまで出世しました。
本人が謙虚でいても、周囲はちゃんと見ていたのです。
そして明らかにオランダ側に非があるのに、その責任をとらされ、処刑されました。
泣き言も言わず、ぶたれても、窒息しそうなドブ掃除を任されても、愚痴も言わず、それだけでなく、身近な刑務所の看守たちには、いつも笑顔でやさしく接しました。
君が代を歌い、陛下に万歳を捧げられ、逝かれました。
醍醐海軍中将の生きざまに、まさに日本人としての生きざまがあります。
醍醐閣下のご冥福を、心からお祈り申し上げます。
何度読んでもこの醍醐さんの足元にも及べないですが、少しでも近づきたいものです。
それにしても、先人の素晴らしさに感動します。