ダンポポの種

備忘録です

総谷トンネル事故〔青山トンネル事故〕 (昭和46年)

2008年06月14日 15時32分42秒 | 近鉄特急
 「ビスタカー」・「エースカー」・「スナックカー」など、華やかな車両たちによって綴られてきた近鉄特急の歴史ですが、昭和46年(1971年)の秋、大阪線内の単線区間において、その特急列車同士が正面衝突するという悲しい出来事がありました。
 昭和46年(1971年)10月25日、当時は単線だった東青山~榊原温泉口間の「総谷トンネル」で、対向する特急列車同士が正面衝突するという、あってはならない事故でした。

 本稿では事故詳細についての記述は省略しますが、ネットで検索をすればこの事故についての関連記事は多く見つかりますので、知りたい方はそちらを参考にしてください。ウィキペディアならば、「近鉄大阪線列車衝突事故」の項目で出ています。

 多数の死者と負傷者を出したこの事故をきっかけにして、近鉄は、大阪線の複線化完成に全力を注ぐことになりました。そして、事故から4年が経過した昭和50年(1975年)11月、新青山トンネル(全長5,652m。当時は私鉄界最長のトンネルだった)の開通をもって大阪線の全線複線化が完了したのです。

◇          ◇          ◇

 事故現場となった総谷トンネルや東青山駅をはさむ、西青山~榊原温泉口間の線路は、青山峠越えと呼ばれる険しい山岳地帯に踏み込んだルートになっていて、古くから大阪線の難所でした。しかも、昭和初期に開通した歴史をもつ大阪線(開通当時は参宮急行電鉄という名前だった)には、青山峠区間のほかにも「単線」の箇所が多かったそうです。(近鉄ホームページの資料によると、大阪線のうち名張~伊勢中川間はもともと単線で開通したらしい)
 近鉄では、昭和30年代半ばから大阪線の完全複線化に向けた工事に取り組み、輸送改善を進めていたようですが、地形的にも難工事が必至となる青山峠区間については最後まで複線化が遅れていたのです。悲惨な衝突事故は、そこで起こりました。

 事故後、完全複線化を急ぐに当たって、この区間(西青山~榊原温泉口間)では路線ルートそのものが抜本的に見直され、長大なトンネルによって山岳地帯を一気に貫く「複線の新線」が建設されました(新線の開通と引き換えに、単線時代の旧ルートは廃止された)。全長5,652mに及ぶ「新青山トンネル」の掘削はその象徴で、悲惨な事故に対する痛烈な思いが込められているようでもあります。

 こうして完成したのが、現在も使われている線路です。
 新青山トンネルをはさむ西青山~東青山間では、トンネル部分を含めて駅間がほぼ一直線で結ばれているなど、列車運行の保安面への配慮も行き届いた構造となっています。

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 今をときめく新型特急車両たちは、きょうも、この区間を高速で元気に駆け抜けてゆきます。新系列の特急車両の場合は、「新青山トンネル」内において最高時速の130km/hまでスピードを上げるそうですね。延々と一直線で続く複線トンネルの中ならば踏切障害の危険も無いし、ここではMaxまでスピードを引き上げても大丈夫-、というところでしょうか。
 かつてここが〝山越えの難所〟だったことを感じさせない、特急列車の快適な走りであります。
 でも、その裏に悲しい歴史があったことを、忘れずにいたいと思います。

 今回は、歴代特急車の紹介という内容からは外れましたが、「総谷トンネル事故」のことは近鉄特急の歴史を語る上で無視できない項目だと考え、扱いました。


◎画像追加↓


↑現在の東青山駅。平成20年(2008年)10月撮影。



↑東青山駅ホームより、伊勢中川方向を望む。
 見えているトンネルが、新線切り替えによってできた「新総谷トンネル」のようです。
 このトンネルの左側に、旧線時代の総谷トンネルがあったらしい。
 画面の左側に、線路に沿って木が並んでいるのが見えます。並んで立っているように見えるでしょう。
 これが、旧線の線路跡のようです。

 ↑私の研究はまだまだ不十分なので、あやふやです。