投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2007年 8月27日(月)03時49分2秒
>筆綾丸さん
確かに後深草院の書は決して弱々しくはないですね。
リンク先の解説では、「後深草天皇の遺墨の多くに見られるごとく淡墨で、また筆力もたくましい。持明院統と大覚寺統という皇統を巡る争いのなか、自らの皇統を守ろうとした天皇の気性の強さがあらわれている」などと言われているのですが、「気性の強さ」まで読み取るのは若干無理がありますかね。
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/fujii/051201/HomePage/kaisetsu18.htm
>kariさん
kariさんの写真を見ると塔身に何か書かれているのかと思ったのですが、窓の形に彫ってあるだけでしょうか。
私は何となく九段会館(旧・軍人会館)のような帝冠様式の建物を連想しました。
建立が昭和6年だとすると、設計者の美意識への影響という点で、まんざら的外れな感想でもないのかなと思います。
http://www2e.biglobe.ne.jp/~fujimoto/tsuyama/mimasaka.htm
http://www.town.sayo.lg.jp/kanko/kanko/mokuteki/sightseeing.html
>平沼淑郎
ウィキペディアと平沼赳夫代議士のホームページを見たところ、淑郎が兄で、騏一郎は弟ですね。
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ここで祖父と普段、呼び慣れている呼称で書いたが騏一郎は終生、独身であった。私の母は、騏一郎の実兄で、早稲田大学の学長をした平沼淑郎の孫に当たり、小さい頃より騏一郎に可愛がられて、実の子の如く育てられた。その関係で私が現在騏一郎の跡を継いでいる。
http://www.hiranuma.org/japan/talk/fire_01.html
--------------------------
同ホームページによると、淑郎は
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津山市の生まれ。1923年より約15年にわたり早稲田大学商学部長として学部の充実に貢献した。商学部校舎の1階に、朝倉文夫作の胸像がある。平沼の学徳を慕う商学部卒業生により寄贈されたもので、その逝去にあたり会津八一が追慕した「言念君子、温其如玉( ここに君子をおもえば温としてそれ玉のごとし )」の風貌を漂われている。また、第3代学長として、早稲田騒動直後の対立・抗争の収拾にあたった。学外では、社会経済史学の全国的組織「社合経済史学会」の創設にあたり初代代表理事となって活躍した。
http://www.hiranuma.org/japan/gallery/family02.html
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とのことですが、「社合経済史学会」は多分モトにした資料をOCRで読み取った際のミスで、正しくは「社会経済史学会」でしょうね。
>相国入道さん
できれば行を詰めてもらえるとありがたいです。
携帯で読むときはちょっとつらいので。
>筆綾丸さん
確かに後深草院の書は決して弱々しくはないですね。
リンク先の解説では、「後深草天皇の遺墨の多くに見られるごとく淡墨で、また筆力もたくましい。持明院統と大覚寺統という皇統を巡る争いのなか、自らの皇統を守ろうとした天皇の気性の強さがあらわれている」などと言われているのですが、「気性の強さ」まで読み取るのは若干無理がありますかね。
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/fujii/051201/HomePage/kaisetsu18.htm
>kariさん
kariさんの写真を見ると塔身に何か書かれているのかと思ったのですが、窓の形に彫ってあるだけでしょうか。
私は何となく九段会館(旧・軍人会館)のような帝冠様式の建物を連想しました。
建立が昭和6年だとすると、設計者の美意識への影響という点で、まんざら的外れな感想でもないのかなと思います。
http://www2e.biglobe.ne.jp/~fujimoto/tsuyama/mimasaka.htm
http://www.town.sayo.lg.jp/kanko/kanko/mokuteki/sightseeing.html
>平沼淑郎
ウィキペディアと平沼赳夫代議士のホームページを見たところ、淑郎が兄で、騏一郎は弟ですね。
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ここで祖父と普段、呼び慣れている呼称で書いたが騏一郎は終生、独身であった。私の母は、騏一郎の実兄で、早稲田大学の学長をした平沼淑郎の孫に当たり、小さい頃より騏一郎に可愛がられて、実の子の如く育てられた。その関係で私が現在騏一郎の跡を継いでいる。
http://www.hiranuma.org/japan/talk/fire_01.html
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同ホームページによると、淑郎は
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津山市の生まれ。1923年より約15年にわたり早稲田大学商学部長として学部の充実に貢献した。商学部校舎の1階に、朝倉文夫作の胸像がある。平沼の学徳を慕う商学部卒業生により寄贈されたもので、その逝去にあたり会津八一が追慕した「言念君子、温其如玉( ここに君子をおもえば温としてそれ玉のごとし )」の風貌を漂われている。また、第3代学長として、早稲田騒動直後の対立・抗争の収拾にあたった。学外では、社会経済史学の全国的組織「社合経済史学会」の創設にあたり初代代表理事となって活躍した。
http://www.hiranuma.org/japan/gallery/family02.html
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とのことですが、「社合経済史学会」は多分モトにした資料をOCRで読み取った際のミスで、正しくは「社会経済史学会」でしょうね。
>相国入道さん
できれば行を詰めてもらえるとありがたいです。
携帯で読むときはちょっとつらいので。