投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 7月 5日(月)11時01分32秒
山家著の検討の途中ですが、「原太平記」の復元の可能性をもう少し探ってみたいと思います。
まず、恵鎮上人が「原太平記」を直義に持参した時期ですが、私は「直義がかかわっていた時期のどこかで、巻二十五、つまり後醍醐天皇の菩提をとむらう寺院建立をもって完結していた段階があっただろうという見解」(p25)には賛成です。
そして私は、観応の擾乱の勃発によって直義が指示した改訂作業が中断され、玄慧と直義の死により改訂の話自体が立ち消えになってしまったと考えます。
従って直義の検閲の時期は、天龍寺が完成し、その落慶法要が尊氏・直義の臨席のもとに行われ、ついで光厳・花園上皇の御幸があった康永四年(貞和元、1345)八月以降、観応の擾乱の第一幕が始まった貞和五年(1349)閏六月以前ということになります。
こう考えると、古くからの難問とされてきた『太平記』という書名の謎も簡単に解けそうです。
即ち、太平の時代でも何でもないのに何で『太平記』という書名なのだ、と昔から不思議に思われていた訳ですが、1340年代半ばであれば戦乱もずいぶん前に終息し、直義の全盛時代を迎えていて、「京都は意外なほど平穏が保たれる安定期」(p2)となっています。
山家著(その2)「ふたりによる統治」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1b4e547df73f4342cd657c8ecc292de0
この時期であれば「太平」は事実を反映しており、直義の治世を讃える目出度い名称として絶妙ですね。
もちろん観応の擾乱以降は「太平」どころではない時代が続く訳ですが、いったん決めた書名をそのまま使い続けたので、結果的に『太平記』全体の内容は書名にそぐわないことになってしまったのだと思います。
この点、以前ツイッターで少し書いたことがあって、その時は単に「太平」が目出度い文字だから、くらいに思っていたのですが、「太平」の直接の出典はおそらく『貞観政要』あたりなんでしょうね。
「太平」の出典については、西山美香氏の『武家政権と禅宗 夢窓疎石を中心に』(笠間書院、2004)を参照しつつ、後で改めて論じたいと思います。
https://twitter.com/IichiroJingu/status/1355859728161628164
さて、直義の権力的介入に関連して、古本系の『太平記』に第二十二巻が欠落していることをどう考えるか、という問題もあります。
即ち西源院本・神田本・玄玖本・南都本には第二十二巻が存在しませんが、この点について、兵藤裕己氏は、
-------
第二十二巻は、古本系のすべての諸本で欠巻である。第二十一巻には、宮方の脇屋義助が越前の黒丸城を攻め落とし、斯波高経を加賀に退却させたこと、それを受けて、京都の足利方が、高師治、土岐頼遠、佐々木氏頼、塩冶高貞らを北国へ向かわせたことが記される。おそらく第二十二巻では、足利方と脇屋義助との越前での戦闘が記されていたのだろう。【中略】ほかに、のちの伝承だが、『太平記評判秘伝理尽鈔』に「時に高徳入道義清、越前の合戦、義助の敗北、並びに尊氏・直義が一代の悪逆を記す。二十二の巻なり。然るを、後に武州入道(管領細川頼之)、無念の事に思ひて、一天下の内を尋ね求めて、これを焼失す」とある。後醍醐帝の死や、その後の南朝方の敗退をうけて、第二十二巻には、足利兄弟の奢りや「悪逆」も記されていたのだろうか。そのような第二十二巻が欠巻であるのは、たしかに足利政権の政治的な圧力を想像させる。なお、流布本などの第二十二巻を有する本は、第二十三巻以降の記事を順次繰り上げるなどして、第二十二巻の欠を形式的に補填している。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8ac648290cb27f0c1c63144c2f7404c7
と言われています。(兵藤校注『太平記(四)』、岩波文庫、p32)
『太平記評判秘伝理尽鈔』はあくまで近世の著作であって史料的価値は乏しく、細川頼之の経歴を見ても『太平記』のような文学・芸能への特別の接点も見出し難いので、まあ、細川頼之介入説は無理筋のような感じがします。
第二十二巻という位置を考えると、この巻は恵鎮上人から直義に提出された「原太平記」に含まれていると考えられるので、やはり同巻の欠落は直義の介入の結果と考えるのが自然ですね。
その内容が分からないので何ともいえませんが、あるいは直義を激怒させるような記述があって、この巻だけは絶対に許せん、全削除だ、みたいな明確な指示があったのかもしれません。
山家著の検討の途中ですが、「原太平記」の復元の可能性をもう少し探ってみたいと思います。
まず、恵鎮上人が「原太平記」を直義に持参した時期ですが、私は「直義がかかわっていた時期のどこかで、巻二十五、つまり後醍醐天皇の菩提をとむらう寺院建立をもって完結していた段階があっただろうという見解」(p25)には賛成です。
そして私は、観応の擾乱の勃発によって直義が指示した改訂作業が中断され、玄慧と直義の死により改訂の話自体が立ち消えになってしまったと考えます。
従って直義の検閲の時期は、天龍寺が完成し、その落慶法要が尊氏・直義の臨席のもとに行われ、ついで光厳・花園上皇の御幸があった康永四年(貞和元、1345)八月以降、観応の擾乱の第一幕が始まった貞和五年(1349)閏六月以前ということになります。
こう考えると、古くからの難問とされてきた『太平記』という書名の謎も簡単に解けそうです。
即ち、太平の時代でも何でもないのに何で『太平記』という書名なのだ、と昔から不思議に思われていた訳ですが、1340年代半ばであれば戦乱もずいぶん前に終息し、直義の全盛時代を迎えていて、「京都は意外なほど平穏が保たれる安定期」(p2)となっています。
山家著(その2)「ふたりによる統治」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1b4e547df73f4342cd657c8ecc292de0
この時期であれば「太平」は事実を反映しており、直義の治世を讃える目出度い名称として絶妙ですね。
もちろん観応の擾乱以降は「太平」どころではない時代が続く訳ですが、いったん決めた書名をそのまま使い続けたので、結果的に『太平記』全体の内容は書名にそぐわないことになってしまったのだと思います。
この点、以前ツイッターで少し書いたことがあって、その時は単に「太平」が目出度い文字だから、くらいに思っていたのですが、「太平」の直接の出典はおそらく『貞観政要』あたりなんでしょうね。
「太平」の出典については、西山美香氏の『武家政権と禅宗 夢窓疎石を中心に』(笠間書院、2004)を参照しつつ、後で改めて論じたいと思います。
https://twitter.com/IichiroJingu/status/1355859728161628164
さて、直義の権力的介入に関連して、古本系の『太平記』に第二十二巻が欠落していることをどう考えるか、という問題もあります。
即ち西源院本・神田本・玄玖本・南都本には第二十二巻が存在しませんが、この点について、兵藤裕己氏は、
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第二十二巻は、古本系のすべての諸本で欠巻である。第二十一巻には、宮方の脇屋義助が越前の黒丸城を攻め落とし、斯波高経を加賀に退却させたこと、それを受けて、京都の足利方が、高師治、土岐頼遠、佐々木氏頼、塩冶高貞らを北国へ向かわせたことが記される。おそらく第二十二巻では、足利方と脇屋義助との越前での戦闘が記されていたのだろう。【中略】ほかに、のちの伝承だが、『太平記評判秘伝理尽鈔』に「時に高徳入道義清、越前の合戦、義助の敗北、並びに尊氏・直義が一代の悪逆を記す。二十二の巻なり。然るを、後に武州入道(管領細川頼之)、無念の事に思ひて、一天下の内を尋ね求めて、これを焼失す」とある。後醍醐帝の死や、その後の南朝方の敗退をうけて、第二十二巻には、足利兄弟の奢りや「悪逆」も記されていたのだろうか。そのような第二十二巻が欠巻であるのは、たしかに足利政権の政治的な圧力を想像させる。なお、流布本などの第二十二巻を有する本は、第二十三巻以降の記事を順次繰り上げるなどして、第二十二巻の欠を形式的に補填している。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8ac648290cb27f0c1c63144c2f7404c7
と言われています。(兵藤校注『太平記(四)』、岩波文庫、p32)
『太平記評判秘伝理尽鈔』はあくまで近世の著作であって史料的価値は乏しく、細川頼之の経歴を見ても『太平記』のような文学・芸能への特別の接点も見出し難いので、まあ、細川頼之介入説は無理筋のような感じがします。
第二十二巻という位置を考えると、この巻は恵鎮上人から直義に提出された「原太平記」に含まれていると考えられるので、やはり同巻の欠落は直義の介入の結果と考えるのが自然ですね。
その内容が分からないので何ともいえませんが、あるいは直義を激怒させるような記述があって、この巻だけは絶対に許せん、全削除だ、みたいな明確な指示があったのかもしれません。
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