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「生きた人間の心臓は、夜の旅で疲れた太陽に東の空から再び昇り輝く活力を与えると考えられていたらしい」

2018-06-20 | 「大山喬平氏の中世身分制・農村史研究」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 6月20日(水)11時26分34秒

『メソアメリカを知るための58章』(井上幸孝編、明石書店、2014)には杓谷茂樹氏(中部大学国際関係学部教授)の「遺跡利用と観光開発─チチェン・イツァを中心に」という興味深い記事が載っているのですが、これを紹介する前提として、観光ガイドブックの類でチチェン・イッツァがどのように描かれているかを見ておきます。
素材は何でもよいのですが、私がときどき利用している図書館に『「世界遺産を旅する」11 メキシコ・中米・カリブ海』(近畿日本ツーリスト出版部、1999)という本があったので、これを引用します。
この本は長谷川悦夫氏(当時、東京大学大学院博士課程在学、日本学術振興会特別研究員)が監修者となっています。

長谷川悦夫(1967生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E6%82%A6%E5%A4%AB

チチェン・イッツァ関係の記事は42~47pまでで、カラー図版がふんだんに用いられていますが、見出しには、

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古代都市チチェン・イツァー
マヤ後古典期ユカタン半島に栄えたトルテカ色濃い祭祀の都

暦の神殿に目を見はり生けにえの神事に驚愕する
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とあって、本文も生贄を強調する記述が目立ちます。
総論的な部分はウィキペディアなどと重複するので省略するとして、大山喬平氏も触れているチャク・モールについては、

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 戦士の神殿の急な階段を登りきったところには、一対の、頭を下にして尾を天空に跳ね上げた羽毛のある蛇クルルカンの姿を象った石柱が立ち、その下には膝を折り曲げて仰向けに腰をおろした、チャク・モールが置かれているが、これと瓜ふたつの石像が、中央高原に栄えたトルテカの王都トゥーラにもある。チャク・モールが腹部に支え持つ鉢は、生けにえとして捧げる人間の心臓を入れるための器だったといわれる。トルテカの戦士は、自らの都市を守るためだけでなく、神に捧げる生けにえを捕えるためにも戦をした。捕虜は、生きたまま胸を石の刃で切り裂かれ、心臓をえぐり取られ、その心臓が神に捧げられた。生きた人間の心臓は、夜の旅で疲れた太陽に東の空から再び昇り輝く活力を与えると考えられていたらしい。現代にも通用する戦士の神殿の美しさからは想像もできない、残忍な生けにえの儀式が神事として行なわれていたのだ。
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とあります。

チャクモール
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AB

また、セノーテ(泉)については、

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マヤには珍しいドーム型建物と衝撃的な「生けにえの泉」

【中略】またこの都市遺跡には、地下水の涌く泉・セノーテが2つある。南部のセノーテ(セノーテ・シュトロック)は生活用水用だが、北の外れにあるセノーテは、衝撃的な生けにえの伝承をともなう泉である。水深約20m、直径60mで、周囲を石灰石壁で囲まれた、泉というよりは池という感じのこのセノーテは、雨の神チャクの棲み家と信じられ、聖なるセノーテ Cenote Sagrado、と呼ばれていた。チチェン・イツァーの支配者は、神への生けにえとして、あるいは神の託宣を聞かせるために、男性、女性や子供までも生きたままこの池に投げ込んだ。地方の首長たちも、何人もの処女を連れてこの地を訪れ、聖なるセノーテに彼女たちを投げ込んだといわれている。奇跡的に生き残った女性は、引き上げられて、神の託宣の伝達を求められた。エドワード・H・トンプソンの浚渫・潜水調査により、この池の底から黄金製打ち出し細工の円板、翡翠の耳輪・首飾り、銅の鈴、祈りを神の元まで煙りに包んで運ぶという聖なる樹脂の香ポムなどと共に、多数の男女、子供の骨が見つかり伝承は裏づけられた。
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とあります。
更に「神に心臓を捧げる儀式」と「死の球戯」という二つの囲み記事があって、前者には、

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 人間の心臓を捧げる儀式では、まず生けにえの体と石の祭壇が青く塗られる。頭に円錐形の帽子を被せられた生けにえは、祭壇の上に仰向けに寝かされて手足を押さえられる。執行人が石のナイフでその生けにえの脇腹を切り裂き、心臓を掴みだして鉢にのせる。神官はその心臓の血を神像の顔に塗りつける。高い基壇の上でこの心臓の取り出しが行なわれたときには、遺体は階段下に転がし落とされる。そしてその遺体から剥ぎとられた生皮を神官が裸身に纏って人々と踊ることで、儀式は最高潮に達したという。チチェン・イツァーのジャガーの神殿の壁には、その様子が描かれている。
 一見残忍そのもののような儀式ではあるが、一木一草も神への償いなしには採れない、採れば災いを招くという神への強い畏怖の念や部族の因習が、宗教と政治が未分化の社会のなかでこうした儀式に発展したものと思われる。
 チチェン・イツァーで行われていた、生きた人間の心臓を取りだして神に捧げるという神事は、マヤ、トルテカ、アステカなどメソアメリカ文化圏に興った諸文明で広く行なわれた。現代のマヤの人々も神に生けにえを捧げる習慣を保っているが、対象はニワトリなどの小動物に限られている。
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とあります。
もう一つの囲み記事「死の球戯」には、

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負けたチームの長は、首を切られ生けにえにされたといわれるが、奇妙なことに勝ったチームの長だという見方もある。この見方によれば、勝者が生けにえにされることを甘受したのは、勝って生けにえになる者は必ず神の許に行けると信じられていたからだという。
壁面石板には、競技者が首を切られ、切り口からほとばしり出る血が6匹の蛇(カン)の形で表され、豊饒を表すように中央から1本の植物が伸びて枝を広げ、実をつけている浮彫りがある。蛇(カン)には、神聖な印であることから、今では、生けにえになっている浮彫りの人物は、勝者であるという説が支持されている。死と再生の信仰のようなものがうかがえる話である。
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とあって、勝者説が正しいとされています。
全体的に生け贄を執拗に強調した、血みどろの世界になっていますね。
コメント
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