『虚空の辰刻(とき)』 目次
『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第120回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。
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- 虚空の辰刻(とき)- 第124回
どういうことだ。
セノギが眉根を寄せてニョゼを見た。
「シユラ様からお話を伺っている内に、わたくしは北に帰りたかったんだと・・・そんなことは思ったこともなかった筈なのに、心の内でそう思っていたことを知りました」
「・・・北にか」
ニョゼから目を外すと何処を見ているのかそのまま口を閉じた。
「セノギ?」
「ああ、悪い。 そうだな・・・。 ちょっと頭の中を整理したい。 明日、続きを話さないか?」
「お疲れなのに長々と済みません。 ベッドで横になられた方がよろしいですわ。 お手伝いいたします。 シユラ様からセノギに付くように言われていますから、何なりとお申し付けください」
「私にそのような言い方は止めてくれないか。 普通に話してくれ。 だが、手は貸してもらいたい」
そう言うと、立たせてもらいたいと腕を上げた。
翌日、セノギが夕飯を食べ終わり、ニョゼが食器を片付けている時「昨日の話だが」 と切り出した。
ニョゼの手が一瞬止まったが「はい」 と返事をすると、手早く食器をワゴンに置き椅子に腰かけた。
「実は―――」
言いにくそうに話し始めた。
セノギがそれを初めて感じたのは、ホテルを出る日だったという。 ニョゼは新しい仕事に、紫揺は睡眠薬を飲まされ屋敷に向かわされた日。 ニョゼと紫揺が分かれた日である。
いや、正確に言うとホテルで紫揺が初めて力を出した時に 『力とは持つものではありませんね』 無意識にそう言った時が始まりだったのかもしれない。
領土を守らなければならない。 それにはムラサキ様が必要だ。 そこに尽きる。 それは何十年も前から当たり前に誰もが思ってきたことだった。
だがそこに疑問がわいた。 どうして領土がムラサキ様なくしては成り立たないのか・・・。 ムラサキ様は紫揺は北の人間ではない・・・。 それなのにどうして紫揺に頼らなくてはならないのか。 もしかしたら北の歪んだ何かがあるのではないか。 そう思ったという。
それから何度も考えた。 北の考え方には何かほつれたものがあるのではないかと、考えるようになったと。
「何かほつれたもの? それはいったい?」
「いや、分からない。 だがそれ以外考えられなかった。 今もそうだ」
とセノギが言う。
何十年も前に起こした北の領土のした事。 時の領主が東の領土の五色様を攫いに行った。 まずそこからしておかしい。 どうしてそんなことをしたのか。
時の領主は五色の力が弱ってきているからだと言っていた、だがそれは北の領土の中で解決をしなければいけない事なのではないのか。 それに何よりも、本領の完全統治下から東西南北が独立するにあたって、何よりも禁遏(きんあつ)されていたのは他の領土を踏むなということだ。 それを当時、簡単に破ってしまっていた。 有り得ない事だ。 どこかがおかしいんだ、と。
ずっとニョゼの目を見て話していたがテーブルに両肘をつき、手を組むとそこに額を乗せ伏し目がちにした。
ニョゼは顔色を変えることなく聞いていたが、セノギにとって思いもしない質問が返ってきた。
「時の領主が東の領土の五色様を攫いに行った? それは本当ですか?」
「え? ・・・知らなかったのか?」
今しがた伏せたばかりの顔を上げた。 狼の牙にかかった凄惨な話を言い伝えられていて、領土ではだれもが知っていることなのに。
「前領主からもムロイからも聞いておりません」
「だがこれは北の領土の誰もが知って・・・、そうか・・・」
よく考えればニョゼは幼い頃に北の領土を出ていたのだった。 幼い子に親が凄惨な話をするはずがない。
「前領主が言っていないのならば知るはずはないか」
そう言うと伝え聞いていた話を詳しく話した。
ある日突然、時の領主がその親族、そして仕えていた者達を連れ、数隻の舟で東の領土に向かったという。 舟は浜辺に付けられ東の領土に乗り込んだ。
以前から五色の力が弱ってきているのではないかと、領土の人間たちが言っていた。
それは何故か。
領土の山の中で急に小さな火が上がり、それが大火災を引き起こした時があった。 それを知らされた五色が迅速にその火を止めることが出来なかったことがあった。
領土の人間にしてみれば、五色なら、五人揃えば簡単に止められるはずの山火事だったという。
それに山の中が乾燥していれば木がこすれ合い火が出たかもしれないが、北の領土の山の中はいつも湿気っている。 自然発火ということは有り得ない事であった。
そして火だけではなく雨が続いたこともあった。 この領土はあまり雨に困ることは無いのに、何日も豪雨が続き田畑が水浸しになった。 言うまでもなく田畑の作物は全滅し、それだけでは治まらないというように、備蓄しておいた小屋にも水が入り食糧難が起こったこともあった。 民たちの家にも水が浸入してきて生活自体さえ危ぶまれた。
この領土に何か凶事があるのではないかと、民たちが不安になったということであった。 そしてその不安は五色に向けられたという。
「民の不安を何とか抑えようとは思ったらしいが、何の手立てもなかったそうだ。 それどころか五色様方は全く気にもされなかったらしい。 だから時の領主さえ、五色様方に不安を感じたのだろうな」
東の領土に乗り込んだ北の領土の人間は身を隠しながら五色を探した。 そして幾人かの添い人と共にいた五色を見つけた。
後先が無いかのように北の領土の人間が五色に襲い掛かった。 添い人たちの手によって何人かが止められたが、まさかこんなことになろうとは思っていなかった東の領土の人数は乗り込んだ北の領土の人数より少ない。 北の領土全員を止めることが出来なかった。 そして追いかけられた東の領土の五色が北の領土との境目となる崖から落ちた。
その時、五色は十の歳だった。
ニョゼの頭の中でその映像が浮かんだ。
幾人かの北の領土の人間に時の東の領土の五色が追いかけられ、そして崖から落ちた。 僅か十の歳で。
ニョゼの顔が青ざめていた。
「まだ幼い五色様を・・・」
どれだけ怖かっただろう。
ニョゼの声を聞いたセノギが続ける。
「ああ、だがあの洞・・・領土に繋がる洞があるだろう」
幼い時にたった一度だけ潜った洞だったが鮮明に覚えている。
暗く湿気た薄気味の悪い洞だった。 怖くて前領主の手をぎゅっと握った覚えがある。
「東の領土にも同じように洞がある。 どういう具合でそうなったのかは分からないが、落ちた東の領土の五色様はその洞に入られたようだ。 そしてこの日本で暮らされたようだ」
「それでは五色様がご無事だったということ?」
「そうだ。 だからシユラ様がいらっしゃる。 シユラ様は当時の五色様のお孫様にあたられる」
北の領土は東の領土と違って紫揺のことを事細かには調べていない。 だがセノギは紫揺の血筋のことは調べていた。 それに紫揺がムラサキはお婆様だと言っていた。
複雑な気持ちでセノギの話を聞く。
僅か十歳の五色が助かったのには胸を撫で下ろすが、東の領土の崖から落ちて僅か十歳の子が右も左もわからず、どれだけの辛苦を味わったのだろうか。 ましてや領土と日本は全く違うのだから。 それは幼い時に領土を出たニョゼが領土と日本の違い、世界との違いを身を持って分かっている。
「今の領主の血筋は時の領主の遠縁にあたる血筋だ。 時の領主と同じく東の領土の五色様を攫いに行った血の濃い親戚や、仕えていた者は東の領土を踏んだということで本領からヒオオカミを差し向けられ殺された」
「そんなことが・・・」
「そうか・・・ニョゼはこのことを全く知らなかったか。 だからシユラ様の話をしたときに何か得ない顔をしていたのか」
「・・・はい。 ムロイからシユラ様にお付きするようにと言われた時、シユラ様は訳あって日本に住む五色のお力を持つ方と聞きました。 ですがまだお力はお持ちでなく、お力を持たれた時にはムラサキ様と仰り、北の領土に戻られると聞きました。 ですが北の事を何も知らないと言われたときには、何がどうなっているのかと思いました。 でも後になってセノギからシユラ様は北のお人ではないと聞いて何かあるかとは思っていましたが」
ニョゼは根本的な五色のシステムを何も知らない。 幼い時に北の領土を出たのだから。
「悪かった。 説明不足だったな」
そんなことは無いとニョゼが頭を振ると話を元に戻した。
「当時に何かがあった。 それがほつれた切っ掛けだとセノギは考えているのですね?」
「・・・ああ。 だが具体的にそれが何なのかが分からない」
自分の考えが最後まで行きつかないことをもどかし気に、肘をつき組んだ両手で額を軽く二度打った。
「例えば・・・当時の領主が狂ってしまっていた?」
突拍子もなく何を言うのかと声も出ずセノギが顔を上げた。 ニョゼとムロイの目が合う。 何を言っているのかと、ニョゼに目で問う。
「何代か前に東の領土の五色様を攫ったことは知りませんでしたが、どこかで聞いたことがあるんです。 わたくしの知る範囲ですから、きっと前領主から聞かされたのだと思います」
「前領主? 記憶が薄いのならば、その時にはニョゼはまだ子供だったのだろう? そんな子供に前領主が何を話したと言うんだ?」
「はい・・・」
ニョゼが記憶のページをめくる。 此の地に初めて来た夜、幼いニョゼが堪えきれず目をこすりたくなった時間になったというのに、前領主は酒を吞みながら戯言のように話していた。 日々の生活で忘れていた。 その時の映像が鮮明に浮かんだ。
「はい。 わたくしが子供だから話せたのだと思います」
「それは?」
「わたくしが此の地にこれからもずっと居ることを前提に話しておられました」
『茸とは恐いものだ。 迂闊に食べると大変なことになる。 ニョゼはこれから此処に居るから心配は無いがな』 と、話しの始まりはそうだったと言う。
普通の子ならば、そんな記憶は何気なく残っていても子細には残っていなかっただろう。 だが前領主がニョゼの持つ才気や明敏さを見抜いただけあって、たとえ小さな子供だったといえどニョゼは記憶していた。
「茸?」
「はい」
そして前領主は続けたと言う。
自分たちは本領から独立した時の本筋の直系の領主ではなく、中心からかけ離れた所に住んでいた本筋の領主の遠縁の者である。 本筋の領主と近しい者はビャク茸を食べて途絶えたと。
「ビャク茸!?」
「はい」
ビャク茸とは、北の領土にだけ生える茸。 北の領土には他にも人を凶暴にしたり狂わせたり、反対に気持ちよくさせたりと脳を侵す茸があるが、ビャク茸は中心といわれる所にだけ生えている。
そのビャク茸は人を欲望のままに動かすといい、一部の茸のように一度食べたからといって常習的になることは無く、食べてから一日二日で元に戻る。 だがその一日二日の間は目つきが変わり、欲望のあまりよだれを垂らしたりと人間性に欠ける姿になるという。 そして獣のようになってしまっていてもその間の記憶は残っているという。 下手に記憶が残っているが為、一度解放された欲望は、茸の影響から解放されても開き直ったようにその思いを遂げようとする。
「当時の領主がビャク茸を食べたというのか?」
「真実は分かりません、ですがそう聞きました」
「北の領土に居てビャク茸には絶対に手を出さないはずだ。 それが何故?」
他の茸とは全く違う姿をしている。 間違って食べることなどないはず。
「絶対に手を出すなと、ビャク茸のことを声高に言い始めたのはこのことがあってからだそうだと聞きました」
面白おかし気に酒杯を傾けながら先代領主が言っていた。
「・・・当時の領主が、全員かがビャク茸に脳を侵されたということか?」
もし食べたのであれば、疑う余地などない。 ビャク茸は間違いなく脳を侵すのだから。
「侵されていたかどうかまでは聞いていませんが、ビャク茸の話を聞きました」
ニョゼの言うことに疑いを持つ気はない。 それにニョゼは耳にしたことだけを言っている。 自分の感情や考えを入れているわけではない。
欲望を満たす茸。 それを食べ凄惨なことがあった。 それだけで十分だ。 時の領主もその周りにいる者も同じことを満たそうとしたということ。
誰もが時の五色に不安を感じていたということだろう。 だからと言って認められることとそうでないことがある。
セノギが頭を巡らせるのと同じように、ニョゼもセノギの言葉を反芻している。
先ほどのセノギの話からして、途絶えたというのはヒオオカミ達に喉笛を噛まれたということ。 見たわけではないし、想像もできないが、思わず顔を歪めた。
セノギが組んだ手を握りしめ叩くように何度も額に当てる。
「セノギ、その様なことは止めてください」
「あ、ああ。 悪い」
自分がそんなことをしていた自覚など無かった。 ニョゼに言われ手を止めた。
「まさか、ビャク茸とはな・・・」
時の領主がビャク茸を知らずに食べて暴走したのか。
「わたくしも、まさかそのような形で東の領土の時の五色様を攫おうとしたなどと・・・」
「ああどこかで愚昧にもほどがあると思っていたが、ビャク茸によって何も分からなくなっていたのであれば責めることが出来んか」
だがそうだろうか。 ニョゼを疑っているのではないが、多くの者が欲望のままに動いて統率がとれたのだろうか。 否、それは無理な話だろう。
時の領主はビャク茸を食べず、食べさせた者たちを引き連れて東の領土に入った。 事前に北の領土の五色の力が衰えてきたことを話し、東の五色を北の領土に迎えればどうかと煽り、決行の日に全員にビャク茸を食べさせたということは無いだろうか。 もちろん時の領主は食べていない、そうすれば統率することが出来るだろう。
セノギが首を振った。
今更なにを考えても過去は変えられない。
「わたくしのお話を信じて頂けますか?」
ニョゼは誇張も自分の思いも考えも言っていない。 聞かされたままを言っているだけだ。 それを疑う相手ではない。
「ああ勿論だ。 そしてその話を前領主が知っていたということは、代々その話は領主に伝わっているということだ。 それなのに、その上で今の領主も同じようにムラサキ様・・・シユラ様を迎えようとしている。 それこそビャク茸を食べたわけではないのに」
「それは・・・此の地を知ってしまったからでしょう」
ムラサキが崖から落ちた時に東の領土の者達だけではなく、狂った北の地の者も崖をつたい降り、時の五色のムラサキを探した。
ビャク茸の効き目はもうなくなっていたというのに、一度煽られた心は元に戻らなかったのだろう。
北と東の領土の境となる崖は1キロメートルほど離れていたが、崖の下は水嵩のない谷で結ばれていた。 そこには細い川が流れているだけで、殆ど枯れていると言ってもいいほどであった。
その時に見つけたのが崖壁の途中にあった此の地につながる洞だった。
紫揺が初めて北の領土に入る時、洞窟を歩いて階段を上がる前に見た先、木の枝か何かが邪魔をしていて、陽の光がまばらに洞窟に入ってきていた、まさにそこであった。
そして東の領土にも同じく、向いの崖壁の途中にこの地につながる洞があった。 ムラサキが落ちた崖には、東と北の領土の境にある崖壁の途中、東の領土側の崖壁に口を開ける洞があった。
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- 虚空の辰刻(とき)- 第124回
どういうことだ。
セノギが眉根を寄せてニョゼを見た。
「シユラ様からお話を伺っている内に、わたくしは北に帰りたかったんだと・・・そんなことは思ったこともなかった筈なのに、心の内でそう思っていたことを知りました」
「・・・北にか」
ニョゼから目を外すと何処を見ているのかそのまま口を閉じた。
「セノギ?」
「ああ、悪い。 そうだな・・・。 ちょっと頭の中を整理したい。 明日、続きを話さないか?」
「お疲れなのに長々と済みません。 ベッドで横になられた方がよろしいですわ。 お手伝いいたします。 シユラ様からセノギに付くように言われていますから、何なりとお申し付けください」
「私にそのような言い方は止めてくれないか。 普通に話してくれ。 だが、手は貸してもらいたい」
そう言うと、立たせてもらいたいと腕を上げた。
翌日、セノギが夕飯を食べ終わり、ニョゼが食器を片付けている時「昨日の話だが」 と切り出した。
ニョゼの手が一瞬止まったが「はい」 と返事をすると、手早く食器をワゴンに置き椅子に腰かけた。
「実は―――」
言いにくそうに話し始めた。
セノギがそれを初めて感じたのは、ホテルを出る日だったという。 ニョゼは新しい仕事に、紫揺は睡眠薬を飲まされ屋敷に向かわされた日。 ニョゼと紫揺が分かれた日である。
いや、正確に言うとホテルで紫揺が初めて力を出した時に 『力とは持つものではありませんね』 無意識にそう言った時が始まりだったのかもしれない。
領土を守らなければならない。 それにはムラサキ様が必要だ。 そこに尽きる。 それは何十年も前から当たり前に誰もが思ってきたことだった。
だがそこに疑問がわいた。 どうして領土がムラサキ様なくしては成り立たないのか・・・。 ムラサキ様は紫揺は北の人間ではない・・・。 それなのにどうして紫揺に頼らなくてはならないのか。 もしかしたら北の歪んだ何かがあるのではないか。 そう思ったという。
それから何度も考えた。 北の考え方には何かほつれたものがあるのではないかと、考えるようになったと。
「何かほつれたもの? それはいったい?」
「いや、分からない。 だがそれ以外考えられなかった。 今もそうだ」
とセノギが言う。
何十年も前に起こした北の領土のした事。 時の領主が東の領土の五色様を攫いに行った。 まずそこからしておかしい。 どうしてそんなことをしたのか。
時の領主は五色の力が弱ってきているからだと言っていた、だがそれは北の領土の中で解決をしなければいけない事なのではないのか。 それに何よりも、本領の完全統治下から東西南北が独立するにあたって、何よりも禁遏(きんあつ)されていたのは他の領土を踏むなということだ。 それを当時、簡単に破ってしまっていた。 有り得ない事だ。 どこかがおかしいんだ、と。
ずっとニョゼの目を見て話していたがテーブルに両肘をつき、手を組むとそこに額を乗せ伏し目がちにした。
ニョゼは顔色を変えることなく聞いていたが、セノギにとって思いもしない質問が返ってきた。
「時の領主が東の領土の五色様を攫いに行った? それは本当ですか?」
「え? ・・・知らなかったのか?」
今しがた伏せたばかりの顔を上げた。 狼の牙にかかった凄惨な話を言い伝えられていて、領土ではだれもが知っていることなのに。
「前領主からもムロイからも聞いておりません」
「だがこれは北の領土の誰もが知って・・・、そうか・・・」
よく考えればニョゼは幼い頃に北の領土を出ていたのだった。 幼い子に親が凄惨な話をするはずがない。
「前領主が言っていないのならば知るはずはないか」
そう言うと伝え聞いていた話を詳しく話した。
ある日突然、時の領主がその親族、そして仕えていた者達を連れ、数隻の舟で東の領土に向かったという。 舟は浜辺に付けられ東の領土に乗り込んだ。
以前から五色の力が弱ってきているのではないかと、領土の人間たちが言っていた。
それは何故か。
領土の山の中で急に小さな火が上がり、それが大火災を引き起こした時があった。 それを知らされた五色が迅速にその火を止めることが出来なかったことがあった。
領土の人間にしてみれば、五色なら、五人揃えば簡単に止められるはずの山火事だったという。
それに山の中が乾燥していれば木がこすれ合い火が出たかもしれないが、北の領土の山の中はいつも湿気っている。 自然発火ということは有り得ない事であった。
そして火だけではなく雨が続いたこともあった。 この領土はあまり雨に困ることは無いのに、何日も豪雨が続き田畑が水浸しになった。 言うまでもなく田畑の作物は全滅し、それだけでは治まらないというように、備蓄しておいた小屋にも水が入り食糧難が起こったこともあった。 民たちの家にも水が浸入してきて生活自体さえ危ぶまれた。
この領土に何か凶事があるのではないかと、民たちが不安になったということであった。 そしてその不安は五色に向けられたという。
「民の不安を何とか抑えようとは思ったらしいが、何の手立てもなかったそうだ。 それどころか五色様方は全く気にもされなかったらしい。 だから時の領主さえ、五色様方に不安を感じたのだろうな」
東の領土に乗り込んだ北の領土の人間は身を隠しながら五色を探した。 そして幾人かの添い人と共にいた五色を見つけた。
後先が無いかのように北の領土の人間が五色に襲い掛かった。 添い人たちの手によって何人かが止められたが、まさかこんなことになろうとは思っていなかった東の領土の人数は乗り込んだ北の領土の人数より少ない。 北の領土全員を止めることが出来なかった。 そして追いかけられた東の領土の五色が北の領土との境目となる崖から落ちた。
その時、五色は十の歳だった。
ニョゼの頭の中でその映像が浮かんだ。
幾人かの北の領土の人間に時の東の領土の五色が追いかけられ、そして崖から落ちた。 僅か十の歳で。
ニョゼの顔が青ざめていた。
「まだ幼い五色様を・・・」
どれだけ怖かっただろう。
ニョゼの声を聞いたセノギが続ける。
「ああ、だがあの洞・・・領土に繋がる洞があるだろう」
幼い時にたった一度だけ潜った洞だったが鮮明に覚えている。
暗く湿気た薄気味の悪い洞だった。 怖くて前領主の手をぎゅっと握った覚えがある。
「東の領土にも同じように洞がある。 どういう具合でそうなったのかは分からないが、落ちた東の領土の五色様はその洞に入られたようだ。 そしてこの日本で暮らされたようだ」
「それでは五色様がご無事だったということ?」
「そうだ。 だからシユラ様がいらっしゃる。 シユラ様は当時の五色様のお孫様にあたられる」
北の領土は東の領土と違って紫揺のことを事細かには調べていない。 だがセノギは紫揺の血筋のことは調べていた。 それに紫揺がムラサキはお婆様だと言っていた。
複雑な気持ちでセノギの話を聞く。
僅か十歳の五色が助かったのには胸を撫で下ろすが、東の領土の崖から落ちて僅か十歳の子が右も左もわからず、どれだけの辛苦を味わったのだろうか。 ましてや領土と日本は全く違うのだから。 それは幼い時に領土を出たニョゼが領土と日本の違い、世界との違いを身を持って分かっている。
「今の領主の血筋は時の領主の遠縁にあたる血筋だ。 時の領主と同じく東の領土の五色様を攫いに行った血の濃い親戚や、仕えていた者は東の領土を踏んだということで本領からヒオオカミを差し向けられ殺された」
「そんなことが・・・」
「そうか・・・ニョゼはこのことを全く知らなかったか。 だからシユラ様の話をしたときに何か得ない顔をしていたのか」
「・・・はい。 ムロイからシユラ様にお付きするようにと言われた時、シユラ様は訳あって日本に住む五色のお力を持つ方と聞きました。 ですがまだお力はお持ちでなく、お力を持たれた時にはムラサキ様と仰り、北の領土に戻られると聞きました。 ですが北の事を何も知らないと言われたときには、何がどうなっているのかと思いました。 でも後になってセノギからシユラ様は北のお人ではないと聞いて何かあるかとは思っていましたが」
ニョゼは根本的な五色のシステムを何も知らない。 幼い時に北の領土を出たのだから。
「悪かった。 説明不足だったな」
そんなことは無いとニョゼが頭を振ると話を元に戻した。
「当時に何かがあった。 それがほつれた切っ掛けだとセノギは考えているのですね?」
「・・・ああ。 だが具体的にそれが何なのかが分からない」
自分の考えが最後まで行きつかないことをもどかし気に、肘をつき組んだ両手で額を軽く二度打った。
「例えば・・・当時の領主が狂ってしまっていた?」
突拍子もなく何を言うのかと声も出ずセノギが顔を上げた。 ニョゼとムロイの目が合う。 何を言っているのかと、ニョゼに目で問う。
「何代か前に東の領土の五色様を攫ったことは知りませんでしたが、どこかで聞いたことがあるんです。 わたくしの知る範囲ですから、きっと前領主から聞かされたのだと思います」
「前領主? 記憶が薄いのならば、その時にはニョゼはまだ子供だったのだろう? そんな子供に前領主が何を話したと言うんだ?」
「はい・・・」
ニョゼが記憶のページをめくる。 此の地に初めて来た夜、幼いニョゼが堪えきれず目をこすりたくなった時間になったというのに、前領主は酒を吞みながら戯言のように話していた。 日々の生活で忘れていた。 その時の映像が鮮明に浮かんだ。
「はい。 わたくしが子供だから話せたのだと思います」
「それは?」
「わたくしが此の地にこれからもずっと居ることを前提に話しておられました」
『茸とは恐いものだ。 迂闊に食べると大変なことになる。 ニョゼはこれから此処に居るから心配は無いがな』 と、話しの始まりはそうだったと言う。
普通の子ならば、そんな記憶は何気なく残っていても子細には残っていなかっただろう。 だが前領主がニョゼの持つ才気や明敏さを見抜いただけあって、たとえ小さな子供だったといえどニョゼは記憶していた。
「茸?」
「はい」
そして前領主は続けたと言う。
自分たちは本領から独立した時の本筋の直系の領主ではなく、中心からかけ離れた所に住んでいた本筋の領主の遠縁の者である。 本筋の領主と近しい者はビャク茸を食べて途絶えたと。
「ビャク茸!?」
「はい」
ビャク茸とは、北の領土にだけ生える茸。 北の領土には他にも人を凶暴にしたり狂わせたり、反対に気持ちよくさせたりと脳を侵す茸があるが、ビャク茸は中心といわれる所にだけ生えている。
そのビャク茸は人を欲望のままに動かすといい、一部の茸のように一度食べたからといって常習的になることは無く、食べてから一日二日で元に戻る。 だがその一日二日の間は目つきが変わり、欲望のあまりよだれを垂らしたりと人間性に欠ける姿になるという。 そして獣のようになってしまっていてもその間の記憶は残っているという。 下手に記憶が残っているが為、一度解放された欲望は、茸の影響から解放されても開き直ったようにその思いを遂げようとする。
「当時の領主がビャク茸を食べたというのか?」
「真実は分かりません、ですがそう聞きました」
「北の領土に居てビャク茸には絶対に手を出さないはずだ。 それが何故?」
他の茸とは全く違う姿をしている。 間違って食べることなどないはず。
「絶対に手を出すなと、ビャク茸のことを声高に言い始めたのはこのことがあってからだそうだと聞きました」
面白おかし気に酒杯を傾けながら先代領主が言っていた。
「・・・当時の領主が、全員かがビャク茸に脳を侵されたということか?」
もし食べたのであれば、疑う余地などない。 ビャク茸は間違いなく脳を侵すのだから。
「侵されていたかどうかまでは聞いていませんが、ビャク茸の話を聞きました」
ニョゼの言うことに疑いを持つ気はない。 それにニョゼは耳にしたことだけを言っている。 自分の感情や考えを入れているわけではない。
欲望を満たす茸。 それを食べ凄惨なことがあった。 それだけで十分だ。 時の領主もその周りにいる者も同じことを満たそうとしたということ。
誰もが時の五色に不安を感じていたということだろう。 だからと言って認められることとそうでないことがある。
セノギが頭を巡らせるのと同じように、ニョゼもセノギの言葉を反芻している。
先ほどのセノギの話からして、途絶えたというのはヒオオカミ達に喉笛を噛まれたということ。 見たわけではないし、想像もできないが、思わず顔を歪めた。
セノギが組んだ手を握りしめ叩くように何度も額に当てる。
「セノギ、その様なことは止めてください」
「あ、ああ。 悪い」
自分がそんなことをしていた自覚など無かった。 ニョゼに言われ手を止めた。
「まさか、ビャク茸とはな・・・」
時の領主がビャク茸を知らずに食べて暴走したのか。
「わたくしも、まさかそのような形で東の領土の時の五色様を攫おうとしたなどと・・・」
「ああどこかで愚昧にもほどがあると思っていたが、ビャク茸によって何も分からなくなっていたのであれば責めることが出来んか」
だがそうだろうか。 ニョゼを疑っているのではないが、多くの者が欲望のままに動いて統率がとれたのだろうか。 否、それは無理な話だろう。
時の領主はビャク茸を食べず、食べさせた者たちを引き連れて東の領土に入った。 事前に北の領土の五色の力が衰えてきたことを話し、東の五色を北の領土に迎えればどうかと煽り、決行の日に全員にビャク茸を食べさせたということは無いだろうか。 もちろん時の領主は食べていない、そうすれば統率することが出来るだろう。
セノギが首を振った。
今更なにを考えても過去は変えられない。
「わたくしのお話を信じて頂けますか?」
ニョゼは誇張も自分の思いも考えも言っていない。 聞かされたままを言っているだけだ。 それを疑う相手ではない。
「ああ勿論だ。 そしてその話を前領主が知っていたということは、代々その話は領主に伝わっているということだ。 それなのに、その上で今の領主も同じようにムラサキ様・・・シユラ様を迎えようとしている。 それこそビャク茸を食べたわけではないのに」
「それは・・・此の地を知ってしまったからでしょう」
ムラサキが崖から落ちた時に東の領土の者達だけではなく、狂った北の地の者も崖をつたい降り、時の五色のムラサキを探した。
ビャク茸の効き目はもうなくなっていたというのに、一度煽られた心は元に戻らなかったのだろう。
北と東の領土の境となる崖は1キロメートルほど離れていたが、崖の下は水嵩のない谷で結ばれていた。 そこには細い川が流れているだけで、殆ど枯れていると言ってもいいほどであった。
その時に見つけたのが崖壁の途中にあった此の地につながる洞だった。
紫揺が初めて北の領土に入る時、洞窟を歩いて階段を上がる前に見た先、木の枝か何かが邪魔をしていて、陽の光がまばらに洞窟に入ってきていた、まさにそこであった。
そして東の領土にも同じく、向いの崖壁の途中にこの地につながる洞があった。 ムラサキが落ちた崖には、東と北の領土の境にある崖壁の途中、東の領土側の崖壁に口を開ける洞があった。