『虚空の辰刻(とき)』 目次
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- 虚空の辰刻(とき)- 第121回
師の顔を見て少し考える様子を見せた。
「そうだな・・・。 この状態では今日の勉学は無理であろうな」
せっかく進めてきた勉学が出来ないということをマツリが言っている。 それは見て分からないわけではないだろうが残念に思ったのだろう、師が残念そうな顔をした。
「ただ・・・」
「はい?」
「リツソが脱走せぬよう、見張りだけは頼む」
「だ! 脱走でございますか!?」
これは大役だ。 リツソのすばしっこさは誰もが知っている。
「不安であるなら、誰か他の者も付けてもよい」
「他の者と仰られましても・・・」
誰もが嫌がるのは目に見えている。 眉尻を下げて尚且つ頭を下げる。
「・・・そうだな、これは父上にも一端があるか・・・。 このままリツソを房に連れて行ってくれ。 すぐに父上の側付きを行かせる」
「有難うございます」
ホッと安堵した顔を見せると、いつも通り恭(うやうや)しく頭を下げる。
マツリがリツソを下すと逃げられないよう、すぐに初老の男性である師がリツソの手を握った。
「それと」
「はい」
「リツソの勉学だが、どれくらい進んでおる」
リツソが大声で泣いていたが故、互いに声を張って話していたが、ここにきてリツソの泣き声が小さくなった。
泣いていても、シユラのことを想っていても、要らぬことは考えるし、こと、自分のことで何かを評価されるとなると、聞き耳がたつ。 その為には泣き声が大きくては聞くことも出来ないからだ。
「はい、それはもう、頑張っておられまして、答えが20くらいまでの足し算と、引き算は苦手でおいでですが、それでも15からの引き算はほぼ間違いなく引けるようになられましたし、三画の漢字が沢山書けるようになっておいでです」
それはそれは、誇らしげに言う。
初老の男性である勉学の師の言葉を聞いたリツソの声が安心して大声に戻る。
そして初老の男性の返事を聞いたマツリは肩がドンと下がった。 キョウゲンが乗っていれば、完全に落ちただろう。
「・・・先を見て考えるなど、まだまだ先の話か・・・」
「は? 何と仰せられましたか?」
「いや、何でもない。 では頼む」
リツソを完全に預けるとまずは朝食の席に戻り、事の顛末を四方に報告し、すぐに誰か側付きをリツソの部屋に向けるよう頼まなければいけない。
「ブホッ! だ! 脱走!?」
四方が飲みかけていた茶を今にも噴き出しかねない口調で言う。
「逃げられてはまた探すのに一苦労ですから」
四方が慌てて手を打った。
食事の時には側仕えはついていない。 戸の向こうで待っている。 そして家族五人が揃った食事の席には、給仕さえも付いていない。 滅多にないことなので、仕える者達が斟酌して身を引いている。
戸の向こうから声が掛かった。
「お呼びでございますか?」
「入れ」
スッと戸が開けられた。 袴を穿いた側付きが入ってきた。 袴と言っても日本の袴ほど糊がピシッときいたように硬くはない。
「誰か一人・・・いや、三人、リツソの房に行き、リツソが逃げぬよう今すぐ見張りにいかせ・・・いや、五人だ」
「五人にございますか?」
誰を選別しようかと迷う。
「リツソにつくだけでなく、戸にも窓の外にも見張りをたてるよう。 今すぐに」
「承知いたしました」
側付きが頭を下げると部屋を出て襖を閉めた。
事の次第を見送ったマツリが椅子から立ち上がろうとするのを、マツリの手の甲にシキが手を乗せ止めた。
「姉上?」
「マツリ、昨日はまともに食べていないわ。 今日も途中よ。 ちゃんと食べて」
マツリの席の前には、手が付けられていない小鉢が幾つもある。
「キョウゲンみたいなことを仰るのですね」
言いながらも椅子に腰を下ろす。
「まぁ、キョウゲンにそんな心配をさせているの?」
「昨日させてしまったようです」
マツリが何を言っているのか分かる。 それをハッキリと言っている。 何も隠し事は無いのだろう。
「マツリ?」
「はい」
「マツリのことを心から想っているわ」
「え?」
「今もこの先もずっと。 マツリと私の糸はずっと続きます」
「姉上・・・」
「お願い、糸を切らないでね」
懇願するように言った。
「・・・姉上」
「離せー! 離せ―!!」
リツソに何度言われたことか。 繋いでいる手を離せという。
「リツソ様! 房に戻るまでは離せません!」
初老の男性こと、リツソの勉学の師が汗を流しながらリツソの手を握っている。
(こんなことなら、マツリ様に房までついて来てもらえばよかった) そんなことを心に思った時、袴を穿いた五人の四方の側付きが足早にやってきた。
「ありがたや」
「具合はどうだ?」
マツリが北の領土に入り、そのまま領主の家に向かった。 キョウゲンから跳び下りるとキョウゲンを残し、北の領主であるムロイの家に入った。 迎えたのはセッカであった。
「こ、このあいさまです」
この有様と言いたかったのだろう。 腫れた顔がまだ引かず喋りにくそうにしている。
「話せるか?」
曖昧に顔を動かす。
「紫をどこへやった」
「・・・」
「答えられんか」
「・・・」
「お前たち北の領土は何十年も紫を隠していた。 今の紫は先の紫の曾孫か、孫にあたるのではないか、その間お前たちは紫を隠していたということか」
「そのようなことは御座いません!」
声を荒立てたのは、マツリの後ろに立っていたセッカであった。
その姿は領土にやって来た時の赤い革製の服ではなく、家の中で過ごすように上は木綿で出来たボタンのないブラウスのような物の上に二枚の布地を巻き付けており、下はくるぶしまである厚手の木綿の巻スカートを穿いている。
マツリが振り向く。 同時にムロイがセッカに叱責を飛ばした。
「ひうな!」
腹の底から言うなと言っている。
マツリが再びムロイを見た。
「言うなとは、どういうことか。 何を隠しておる」
「・・・」
無言ではあるが、何かを画策していることが分かる。
「北の領主、諦めよ。 これ以上、北を陥れるのではない」
「それは・・・ろういうころれすか」
それはどういうことですか、そう言っている。
「領主、いや・・・」
そう言うと振り返りセッカを見た。
「今いる医者も薬草師も捨てよ。 最初から見ていた薬草師を此処に置け」
ムロイの様子が著しくおかしくなってきている。 顔の腫れから喋りにくいのではない。 舌が回っていない。 それは薬草師が間違った薬草を出しているからだろう。 それを是とした医者もおかしい。
セッカも段々と悪くなっていくムロイを見ていて疑問に思っていた。
「最初から見ていた薬草師とは、如何なる者で御座いしょうか?」
「今の薬草師を師と仰でいる若い薬草師だ」
「・・・ああ」
と口の中で一言漏らす。 領主の家に着いた時に家で待ち構えていた薬草師を“師匠” と呼んでいた。 そしてその薬草師にムロイの説明を受けた。 あの若い薬草師が最初からずっとムロイを診ていてくれたのか。
「すぐに」
毅然とした返事が返ってきて、今日はここ迄かと身を引いた。 そのつもりだった。
「領主、よく考えておけ。 お前たち北の領土がしてきたことを」
そう言い残して領主の部屋を出た。 その時にはセッカは居なかった。 誰が先を歩いて出口まで案内せずとも宮のように広くはない。 一度入った家、戻る為に足を運ぶ方向は分かっている。 玄関の戸に手を掛けようとした時、後ろから声が掛かった。
「マツリ様」
「お前は先程の・・・」
軽く肩越しに見るとそこにセッカが居た。
「セッカに御座います」
北の領土の祭の時には顔を合わせている。 名も知っている。
「薬草師を呼んだのか?」
「はい。 すぐに早馬を走らせました」
領主の家に待機していた女にそう命じた。
「あの薬草師であれば領主の容体も良きようにゆくであろう」
「ご才気に感謝いたします」
「で? 何故に我の名を呼んだ」
「・・・ムラサキ様・・の事にございます」
改めて身体ごとセッカに向いた。
「五色(ごしき)のセッカ。 祭で会っておるな」
両の瞳が赤色の五色。
「はい」
「紫のことを知っておるのか」
東の領土が探している紫のことを。
「はい」
「今どこに居るのかもか」
「その場所はお教えできませんが知っております」
「その者を今すぐここに連れてこられるか」
「それは・・・。 余りに遠う御座います。 時を頂ければここに連れてこられます」
「遠い?」
マツリが眉をしかめた。 単純に遠いでは治められないはず。 シキのことを考える。 遠いだけでシキが視られないはずはない。
「そこは何処か」
「・・・」
「答えられぬと言うか」
「すぐに馬を走らせ、数日後にムラサキ様を此処にお連れしてまいります」
「数日後とは」
「わたくし自身、数日かけて馬で走らせなければなりません。 その後にも、ムラサキ様は馬に乗られません。 馬車で走っておりますと、今すぐとは・・・いえ、数日後と言いましても、それなりの日がかかります」
「五色の内の一色のお前が領主を差し置いてどうしてそれまで言うのか」
「わたくしは・・・領主の婚姻約者に御座います」
マツリがピクリと眉を動かした。
「領主のことを考えますに・・・。 このままではいけないように思いました」
マツリは無言でセッカの話を聞いた。
セッカ曰く、
こうなってしまった今の領主には領主なりの考えがある。 それは東の領土に足を踏み入れた代から水面下にムラサキの事を受け継ぎ、ずっと翻弄されていたのかもしれない。 先代も自分もそうであるかもしれないと言った。
その翻弄の中でムラサキを見つけたと。
「領主は今、北の領土の良さを実感しております。 領主が口に出して言ったわけではございませんが、先代からの受け継ぎは無かった事にしたいと思って・・・いえ、今はまだ迷っているところでしょうか。 ですが天秤は傾いていると思います」
「そうか・・・分かった。 お前たちはよくよく心が通じ合っているのだな」
「わたくしの一人よがりかもしれません」
その言葉がどこか寂し気に聞こえたが、マツリには心に添う言葉を掛けられないし、先を急ぐ。
「セッカ。 お前の言いたいことは分かった。 紫のことはお前の言うように。 だが言っておくが一日も早く」
セッカの目に領主に見たような怪しげな光は見えない。 もちろん禍々しいものも。 セッカの言うことを信じよう。
本領に帰って甘いと言われるかもしれないが、今のセッカの話しようでは紫揺の居る場所を教える気など無いようだ。 セッカから無理矢理に場所を聞きだすわけにはいかない。 本領としてそこまで足を踏み入れる権利はない。
「感謝いたします。 わたくしの出来うる限りを尽くします」
そう言って頭(こうべ)を垂れた。
ゼンとダンが互いに見合う。
マツリが来たのだ。 己らが影となって話を聞くことなど出来なかった。 そんなことをすればすぐにマツリに知られてしまう。 家にさえ、庭にさえも入ることが出来なかった。
「マツリ様が来られたことをご報告するか?」 ダンが言う。
「どうご報告する? 来られたが何も聞けませんでしたとでも?」
領主の家を出たマツリの肩にキョウゲンが乗って来た。
「如何なさいます?」
「ふむ・・・」
右手の人差し指の関節を曲げると口に当てた。
考えているのは宮から出てくる前に四方から言われたことである。 北の領主の具合次第で、もう一度シキに領主と話をさせるということであった。
「今は・・・。 あのセッカという者に任せてみようか・・・」
今のムロイではまともに話など出来ない。
万が一、セッカが紫を連れてこられなかったとしても、五色が逃げ隠れするはずはない。 それに、セッカが紫であるシユラの居所を知っているというのだから、紫の居所を掴むには領主だけに限られたことではないようだ。
「一旦、戻る」
「御意」
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- 虚空の辰刻(とき)- 第121回
師の顔を見て少し考える様子を見せた。
「そうだな・・・。 この状態では今日の勉学は無理であろうな」
せっかく進めてきた勉学が出来ないということをマツリが言っている。 それは見て分からないわけではないだろうが残念に思ったのだろう、師が残念そうな顔をした。
「ただ・・・」
「はい?」
「リツソが脱走せぬよう、見張りだけは頼む」
「だ! 脱走でございますか!?」
これは大役だ。 リツソのすばしっこさは誰もが知っている。
「不安であるなら、誰か他の者も付けてもよい」
「他の者と仰られましても・・・」
誰もが嫌がるのは目に見えている。 眉尻を下げて尚且つ頭を下げる。
「・・・そうだな、これは父上にも一端があるか・・・。 このままリツソを房に連れて行ってくれ。 すぐに父上の側付きを行かせる」
「有難うございます」
ホッと安堵した顔を見せると、いつも通り恭(うやうや)しく頭を下げる。
マツリがリツソを下すと逃げられないよう、すぐに初老の男性である師がリツソの手を握った。
「それと」
「はい」
「リツソの勉学だが、どれくらい進んでおる」
リツソが大声で泣いていたが故、互いに声を張って話していたが、ここにきてリツソの泣き声が小さくなった。
泣いていても、シユラのことを想っていても、要らぬことは考えるし、こと、自分のことで何かを評価されるとなると、聞き耳がたつ。 その為には泣き声が大きくては聞くことも出来ないからだ。
「はい、それはもう、頑張っておられまして、答えが20くらいまでの足し算と、引き算は苦手でおいでですが、それでも15からの引き算はほぼ間違いなく引けるようになられましたし、三画の漢字が沢山書けるようになっておいでです」
それはそれは、誇らしげに言う。
初老の男性である勉学の師の言葉を聞いたリツソの声が安心して大声に戻る。
そして初老の男性の返事を聞いたマツリは肩がドンと下がった。 キョウゲンが乗っていれば、完全に落ちただろう。
「・・・先を見て考えるなど、まだまだ先の話か・・・」
「は? 何と仰せられましたか?」
「いや、何でもない。 では頼む」
リツソを完全に預けるとまずは朝食の席に戻り、事の顛末を四方に報告し、すぐに誰か側付きをリツソの部屋に向けるよう頼まなければいけない。
「ブホッ! だ! 脱走!?」
四方が飲みかけていた茶を今にも噴き出しかねない口調で言う。
「逃げられてはまた探すのに一苦労ですから」
四方が慌てて手を打った。
食事の時には側仕えはついていない。 戸の向こうで待っている。 そして家族五人が揃った食事の席には、給仕さえも付いていない。 滅多にないことなので、仕える者達が斟酌して身を引いている。
戸の向こうから声が掛かった。
「お呼びでございますか?」
「入れ」
スッと戸が開けられた。 袴を穿いた側付きが入ってきた。 袴と言っても日本の袴ほど糊がピシッときいたように硬くはない。
「誰か一人・・・いや、三人、リツソの房に行き、リツソが逃げぬよう今すぐ見張りにいかせ・・・いや、五人だ」
「五人にございますか?」
誰を選別しようかと迷う。
「リツソにつくだけでなく、戸にも窓の外にも見張りをたてるよう。 今すぐに」
「承知いたしました」
側付きが頭を下げると部屋を出て襖を閉めた。
事の次第を見送ったマツリが椅子から立ち上がろうとするのを、マツリの手の甲にシキが手を乗せ止めた。
「姉上?」
「マツリ、昨日はまともに食べていないわ。 今日も途中よ。 ちゃんと食べて」
マツリの席の前には、手が付けられていない小鉢が幾つもある。
「キョウゲンみたいなことを仰るのですね」
言いながらも椅子に腰を下ろす。
「まぁ、キョウゲンにそんな心配をさせているの?」
「昨日させてしまったようです」
マツリが何を言っているのか分かる。 それをハッキリと言っている。 何も隠し事は無いのだろう。
「マツリ?」
「はい」
「マツリのことを心から想っているわ」
「え?」
「今もこの先もずっと。 マツリと私の糸はずっと続きます」
「姉上・・・」
「お願い、糸を切らないでね」
懇願するように言った。
「・・・姉上」
「離せー! 離せ―!!」
リツソに何度言われたことか。 繋いでいる手を離せという。
「リツソ様! 房に戻るまでは離せません!」
初老の男性こと、リツソの勉学の師が汗を流しながらリツソの手を握っている。
(こんなことなら、マツリ様に房までついて来てもらえばよかった) そんなことを心に思った時、袴を穿いた五人の四方の側付きが足早にやってきた。
「ありがたや」
「具合はどうだ?」
マツリが北の領土に入り、そのまま領主の家に向かった。 キョウゲンから跳び下りるとキョウゲンを残し、北の領主であるムロイの家に入った。 迎えたのはセッカであった。
「こ、このあいさまです」
この有様と言いたかったのだろう。 腫れた顔がまだ引かず喋りにくそうにしている。
「話せるか?」
曖昧に顔を動かす。
「紫をどこへやった」
「・・・」
「答えられんか」
「・・・」
「お前たち北の領土は何十年も紫を隠していた。 今の紫は先の紫の曾孫か、孫にあたるのではないか、その間お前たちは紫を隠していたということか」
「そのようなことは御座いません!」
声を荒立てたのは、マツリの後ろに立っていたセッカであった。
その姿は領土にやって来た時の赤い革製の服ではなく、家の中で過ごすように上は木綿で出来たボタンのないブラウスのような物の上に二枚の布地を巻き付けており、下はくるぶしまである厚手の木綿の巻スカートを穿いている。
マツリが振り向く。 同時にムロイがセッカに叱責を飛ばした。
「ひうな!」
腹の底から言うなと言っている。
マツリが再びムロイを見た。
「言うなとは、どういうことか。 何を隠しておる」
「・・・」
無言ではあるが、何かを画策していることが分かる。
「北の領主、諦めよ。 これ以上、北を陥れるのではない」
「それは・・・ろういうころれすか」
それはどういうことですか、そう言っている。
「領主、いや・・・」
そう言うと振り返りセッカを見た。
「今いる医者も薬草師も捨てよ。 最初から見ていた薬草師を此処に置け」
ムロイの様子が著しくおかしくなってきている。 顔の腫れから喋りにくいのではない。 舌が回っていない。 それは薬草師が間違った薬草を出しているからだろう。 それを是とした医者もおかしい。
セッカも段々と悪くなっていくムロイを見ていて疑問に思っていた。
「最初から見ていた薬草師とは、如何なる者で御座いしょうか?」
「今の薬草師を師と仰でいる若い薬草師だ」
「・・・ああ」
と口の中で一言漏らす。 領主の家に着いた時に家で待ち構えていた薬草師を“師匠” と呼んでいた。 そしてその薬草師にムロイの説明を受けた。 あの若い薬草師が最初からずっとムロイを診ていてくれたのか。
「すぐに」
毅然とした返事が返ってきて、今日はここ迄かと身を引いた。 そのつもりだった。
「領主、よく考えておけ。 お前たち北の領土がしてきたことを」
そう言い残して領主の部屋を出た。 その時にはセッカは居なかった。 誰が先を歩いて出口まで案内せずとも宮のように広くはない。 一度入った家、戻る為に足を運ぶ方向は分かっている。 玄関の戸に手を掛けようとした時、後ろから声が掛かった。
「マツリ様」
「お前は先程の・・・」
軽く肩越しに見るとそこにセッカが居た。
「セッカに御座います」
北の領土の祭の時には顔を合わせている。 名も知っている。
「薬草師を呼んだのか?」
「はい。 すぐに早馬を走らせました」
領主の家に待機していた女にそう命じた。
「あの薬草師であれば領主の容体も良きようにゆくであろう」
「ご才気に感謝いたします」
「で? 何故に我の名を呼んだ」
「・・・ムラサキ様・・の事にございます」
改めて身体ごとセッカに向いた。
「五色(ごしき)のセッカ。 祭で会っておるな」
両の瞳が赤色の五色。
「はい」
「紫のことを知っておるのか」
東の領土が探している紫のことを。
「はい」
「今どこに居るのかもか」
「その場所はお教えできませんが知っております」
「その者を今すぐここに連れてこられるか」
「それは・・・。 余りに遠う御座います。 時を頂ければここに連れてこられます」
「遠い?」
マツリが眉をしかめた。 単純に遠いでは治められないはず。 シキのことを考える。 遠いだけでシキが視られないはずはない。
「そこは何処か」
「・・・」
「答えられぬと言うか」
「すぐに馬を走らせ、数日後にムラサキ様を此処にお連れしてまいります」
「数日後とは」
「わたくし自身、数日かけて馬で走らせなければなりません。 その後にも、ムラサキ様は馬に乗られません。 馬車で走っておりますと、今すぐとは・・・いえ、数日後と言いましても、それなりの日がかかります」
「五色の内の一色のお前が領主を差し置いてどうしてそれまで言うのか」
「わたくしは・・・領主の婚姻約者に御座います」
マツリがピクリと眉を動かした。
「領主のことを考えますに・・・。 このままではいけないように思いました」
マツリは無言でセッカの話を聞いた。
セッカ曰く、
こうなってしまった今の領主には領主なりの考えがある。 それは東の領土に足を踏み入れた代から水面下にムラサキの事を受け継ぎ、ずっと翻弄されていたのかもしれない。 先代も自分もそうであるかもしれないと言った。
その翻弄の中でムラサキを見つけたと。
「領主は今、北の領土の良さを実感しております。 領主が口に出して言ったわけではございませんが、先代からの受け継ぎは無かった事にしたいと思って・・・いえ、今はまだ迷っているところでしょうか。 ですが天秤は傾いていると思います」
「そうか・・・分かった。 お前たちはよくよく心が通じ合っているのだな」
「わたくしの一人よがりかもしれません」
その言葉がどこか寂し気に聞こえたが、マツリには心に添う言葉を掛けられないし、先を急ぐ。
「セッカ。 お前の言いたいことは分かった。 紫のことはお前の言うように。 だが言っておくが一日も早く」
セッカの目に領主に見たような怪しげな光は見えない。 もちろん禍々しいものも。 セッカの言うことを信じよう。
本領に帰って甘いと言われるかもしれないが、今のセッカの話しようでは紫揺の居る場所を教える気など無いようだ。 セッカから無理矢理に場所を聞きだすわけにはいかない。 本領としてそこまで足を踏み入れる権利はない。
「感謝いたします。 わたくしの出来うる限りを尽くします」
そう言って頭(こうべ)を垂れた。
ゼンとダンが互いに見合う。
マツリが来たのだ。 己らが影となって話を聞くことなど出来なかった。 そんなことをすればすぐにマツリに知られてしまう。 家にさえ、庭にさえも入ることが出来なかった。
「マツリ様が来られたことをご報告するか?」 ダンが言う。
「どうご報告する? 来られたが何も聞けませんでしたとでも?」
領主の家を出たマツリの肩にキョウゲンが乗って来た。
「如何なさいます?」
「ふむ・・・」
右手の人差し指の関節を曲げると口に当てた。
考えているのは宮から出てくる前に四方から言われたことである。 北の領主の具合次第で、もう一度シキに領主と話をさせるということであった。
「今は・・・。 あのセッカという者に任せてみようか・・・」
今のムロイではまともに話など出来ない。
万が一、セッカが紫を連れてこられなかったとしても、五色が逃げ隠れするはずはない。 それに、セッカが紫であるシユラの居所を知っているというのだから、紫の居所を掴むには領主だけに限られたことではないようだ。
「一旦、戻る」
「御意」