キュヴェ タカ/cuvee taka 「酔哲湘南日記」

新鮮な山海の恵みを肴に酒を吞み、読書、映画・音楽鑑賞、散歩と湘南スローライフを愉しんでいる。 

金田元彦「私の鵠沼日記―大佛次郎・幸田文の思い出」風間書房 1999年

2017年04月24日 | Weblog
金田元彦という人は知らない、だが、鵠沼日記の鵠沼という所と、大佛次郎と幸田文に惹かれた。
鎌倉文庫で出版されたものと勘違いして購入したが、版元は神田の風間書房で、しかも著者は林達夫などと、鎌倉文庫に対抗して湘南文庫を立ち上げていたのを知った。

鵠沼は小田急江の島線で藤沢の次の駅で、その次が鵠沼海岸、終点が江の島である。
わが町二宮から藤沢まで東海道で25分、乗り換えて5分の身近な所なので、馴染みがあって読んでいて楽しいが、実はこの駅だけ降りたことが無い。
林達夫もこの駅に住んでいて、時々エッセイで鵠沼辺りのことを書いている。
大学時代に、井上ひさしを読んでいて、無人島に持って行くなら、山口昌男と林達夫と書いてあり、両人の著作を読んでみて気に入り買い集めた。
神田の古本屋で「林達夫著作集6巻」を購入したら、花田清輝のあとがきのところが破り取られていたが、林達夫のサインがあり、花田清輝に送ったものであった。
その作品集にあったものなのかどうか確かめていないが、林達夫は園芸を趣味にしており、鵠沼の自宅の庭木を剪定している写真を見たことがある。
鵠沼日記に林達夫のことが出てきただけで嬉しくなった。

金田は根津権現の近くの生まれで、江戸からの習い通りに6歳6月6日に踊りを習い始めている江戸っ子だが、子供の頃に一家で藤沢方面に越してきて、本鵠沼に終の棲家を見つけた。
幸田文とは金田がブンガクを志していた時に、門をたたき弟子となった。
いろいろな所へ随行していたようだが、幸田は、旅館の代金でもタクシー代でも、倍の金額を払っていたという。
幸田が獅子文六から聞いた文章の要諦を問わず語りに話てくれたことがある。「1回一所懸命にかいたら、あと、2回くらい遊びなさい。そうじゃないと、読者がくたびれてしまいますよ」と。
ある時、私は女だから物の見方も狭いし、限界もある、あなたはまだ若いからと、大佛次郎を紹介され、そこで15年弟子をしていた。
そのため芸能人や文人の知り合いが多く、日記にも随分色々な人が出てくる。

金田は国学院で源氏物語、伊勢物語の研究をしたのだが、恩師の菊池武一先生から「君は、大佛次郎とか幸田文とか、一流のひとばかりつきあっているから、みんなにいじめられるのだ。うちの大学にいるのだったら、二流のやつとの付き合い方を勉強しなければ、だめだ」と諭されたが、菊池先生、学者にしては人間観察が鋭いですね。

好色な女と一緒になったため、妻は娘をおいて男と逃げたが、その後も好色故に男遍歴を重ねたらしい。
だが、ご本人も表向きは固い学者であったが、美人に弱く好色の性質を持っていたのではないかと思われる節が、日記の随所にうかがわれる。
まあそれでこそ鵠沼日記が、学者の堅苦しい日記とならず、艶もあり面白いものになったのですがね。

金田は子供の頃から動物が好きだったようで、猫と犬の話。
どういうわけか飼い猫14匹が次々に死んでいった。かかった医者が名だたる藪医者であったと後で後悔した。寂しくなって「さいか屋」に行って5,000円でアメリカン・ショートの雑種を買ってきた。

当時、藤沢のさいか屋ではペットを売っていたんですね。今のさいか屋は百貨店不況のご多分に漏れず見る影もなく、今昔の感があります。

いたずら盛りの飼い犬、ゴールデン・レトリバー二代目の「ごんちゃん」が、家中からあらゆるものを持って来ては噛みちらかす。ついに、私の「入れ歯」に興味を持ちだし、今朝も無い、「ごんちゃん」がそばにきた。どうもいつもと「顔」の感じが違う。
「入れ歯」をはめてニッとしていた。

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