五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

清浄

2008年05月07日 | 第2章 五感と体感
能楽の楽器は、何百年もの奏者の魂が籠められ、その籠められたものが音となり今に蘇る、と聞いたことがあります。

魂が籠められる。

想いが籠められる。

籠められ続けるとどうなるのだろう。

ふと鞍馬寺の奥の院まで歩いた時のことを思い出しました。
奥の院には、日本の石庭の原型と云われる大きな自然石がオブジェのように置かれている場所があり、そこが聖なる場所として祀られてあります。

本堂から40分くらい歩くので健脚でなくては無理なので、訪れる人は限られます。
鞍馬天狗とか義経とか、いろいろと話題のあるお寺ですが、古来からの霊場に、鑑真和上の一番弟子が寺を建立したのが鞍馬寺の始まりと云われています。

鞍馬は、地図で見ると京都の北に位置し、しかも奈良の都の真北でもあります。鞍馬からまっすぐ北に上がると、そこは若狭の国。むかしむかし朝鮮や中国からやってきた船は、若狭についたといいます。
そんなところから東大寺のお水取りー若狭のお水送りという儀式に繋がっているのでしょう。
唐招提寺を建立し、東大寺でも律法を教授した鑑真和上。そして、真北に位置する鞍馬。
それぞれの繋がりを思えば思うほど歴史は面白く、知りたいことがたくさん出てきます。

さて、話は横に逸れましたが、本題の「清浄」の話に。。。

鞍馬の奥の院まで歩き、再び本堂に戻る山道で、明らかに「何もない」感覚を体感しました。空気の中に濁るもの無く、抑えるものもなければ、躍動するものもないのです。「何もない」というのが、今の私の表現にふさわしい言葉です。
そして、それと同じ体感を得られる場所が、いつもお世話になっている関西の修道院。そこも、足すものでもなく、引くものでもない「無い」ものの空気を体感します。

籠めるものを背負いながらも、いったん籠めてしまうと、そこには「何もない」ものとして「私が体感」するのです。
その体感が、あまりにも爽やかで軽く、貫けるようなものであったため、結果的には「清浄」という言葉が相応しいのかな、と思います。

その清浄感は、元気の源となって今の私が「在る」ようです。
古の人は、きっとそのような体感をもっと敏感に感じ取っていたのかもしれませんね。
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1 コメント

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Unknown (生き甲斐の心理学)
2008-05-07 18:37:24
考えさせられた文章でした。

日本人の味わい深い文章だと思いました。この心境を私の言葉に置き換えれば、魂の領域の一つです。

魂の領域の更にまた魂の本質でもある愛の領域のような気がします。

人類発生以来、古代の人々も、この静かな、しかも、魂に迫るような、心地よい、落ち着いた、満足感のある、宇宙の神秘も感じる世界が鞍馬寺にはあるのでしょう。

西洋の修道院にも、ヒンズーの寺院にも、イスラムの聖なるお堂にも、森林にも、山の滝の中にも、同じものを感じます。

この味わいを全ての人々が楽しめますように。




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